本当に女は“解放”されるほど、伝統保守に回帰するのか?
「フェミニストは、本心ではその格差の是正を求めていないにもかかわらず、男女の地位格差を『女への抑圧』の証拠として利用している」ということは、私の記事ですでに述べていることですが、先日Global Gender Gap Indexの最新値が出てきたことで再び話題になりました。
ではなぜ彼女らは「本心ではその格差の是正を求めていない」のでしょうか。アンチフェミニズム側では、例えば次のような論考があります。
つまり女性には「“解放”されるほど伝統保守に回帰する」という傾向が存在し、だからこそ「本心で求めていない」のではないか、というわけです。
Prof.Nemuro氏もかなり前からこの傾向について指摘しており、「だから伝統保守に回帰するのが正解なんだ」ということを匂わせています(元々彼は「非婚少子化」というイシューからフェミニズムを批判してきた第一人者であり、典型的な「伝統主義的アンチフェミ」の一人です。記事もその結論ありきで論立てされたものと見るべきです)。
「風が吹けば桶屋が儲かる」だけかもしれない
私の考えとしては、この傾向は「大局的に見れば」間違っていないでしょう。しかしその相関が疑似相関である可能性、つまりその因果の間に別の事象が挟まっている可能性は、常に見ておかなければなりません。
その「別の事象」とは、「伝統保守」側の動き、すなわち彼らが“女の解放”に応じて進めてきた対策・対案のことです。
私はこの記事で、フェミニズムの中にもあえて伝統保守に取り入っている勢力がいることを示唆しましたが、逆にそれを伝統保守側も歓迎しているところがあるのではないか、ということです。
しかしそれは、たとえ非婚少子化という長期課題に対峙する唯一の方策であったとしても、反フェミニズムとしてとても危険な考え方といえます。
カトリックの生き残る道
さて、ここで急に話題を変えますが、西欧キリスト教の二大宗派の片側であるプロテスタントは、中世におけるもう片側、カトリック教会の腐敗への抗議によって生まれたことを知らない読者はいないでしょう。プロテスタント成立に関わる一連の動きは一般に「宗教改革」と呼ばれます。
しかしカトリックとてプロテスタントに信徒が流れ、宗教が分裂する、ないしは教会の権威が失われることをただ傍観していたわけではありません。腐敗の温床であった「教会の世俗化」を否定し、特にピウス5世教皇の時代以降は個人的信心・禁欲主義・慈善活動の重視、さらにイエズス会によるヨーロッパ外への宣教が進められました。
こうしたカトリック側の一連の動きを「対抗宗教改革」と言います。現在でもカトリックが大きな勢力を保っているのも、この改革によって「プロテスタントの思想に対峙しうるカトリック教会」となったことが大きな要因とされます。
「伝統保守に収まること」のメリットの強化
私は、「女が伝統保守に回帰している」ことの大きな要因として、この対抗宗教改革のように、「伝統保守」側でも女がそこに収まることのメリットを強化させていることがあるのではないか、と考えます。
そもそもジェンダー保守主義が勢力を保っている理由は、「男がその威厳を保つため」ではなく、あくまでも「そのほうが共同体として次の世代を産み育てやすいため」でしかありません。社会進出によって一部の女がジェンダーロールを放棄するなら、彼らは必死でその方向に流れる女が増えることを食い止めなければならないのは明らかです。
実際、1985年の男女雇用機会均等法と同時に制定されたものに「第3号被保険者制度」があります。これは専業主婦の年金権を確立させたものであり、女性たちに「伝統的家族観・伝統的性観念」に収まるインセンティブを残したものといえます。この他にも、「配偶者控除」や「コース別雇用管理」などといった制度に、同様の効果があるものと考えられます。
この結果、日本における女性のライフプランは「二極化」することになります。もちろん実際には、どちらを選択したとしても、その実現に「成功」したか「失敗」したかで分かれますので、観測されるライフスタイルは概ね四極化していると考えられます。またどちらを志向して「失敗」したとしても、「フェミる」ことによってその選択を免責できるのは皆さんもご存知のとおりです。
これを傍から見るなら、伝統保守派は、女性たちに「足元を見られている」とも言えるでしょう。だからこそ、私は前回の記事で次のように述べました。
現状でもほとんどのフェミニストはこのような定義を認めていませんが、彼女らはいつでもこのような定義に変えられるということを我々は忘れてはなりません。
なぜ「ロー対ウェイド判決」は覆されたのか
そして、おそらくこうした動きの端緒と言えるような事件が、アメリカでありました。女性に人工妊娠中絶の権利を認めた「ロー対ウェイド判決」の撤回です。
この記事は、少なくとも現地において中絶の権利がもはや「フェミニズム・アンチフェミ」のマターではないことを示しています。またMGTOWや男性人権運動にさえこの撤回に疑義を呈する人が出てきているほどです。
なぜ中絶という「普遍的にあるべき女性の権利」は、すべての女性の支持を得られず、あまつさえ撤回されてしまったのでしょうか。その答えはやはり、中絶反対派が出している、「建前上は女性のためになる対案」にあるでしょう。
つまり匿名出産を前提とした妊娠・出産環境が整備されてきたからこそ、アメリカの(特に市井の)女性たちは、わざわざ「中絶の権利」を求める必要がなくなったのです。これも「女の権利制限はアンチフェミによって為されるとは限らない、フェミニズムの名の下に為される可能性も十分にある」ことの類型例と思われます。
「選択肢を増やすこと」の根本的意義
以上のように、女性の「“解放”されるほど伝統保守に回帰する」という傾向・現象は、「伝統保守側が“解放”に応じて対策を進めていること」を抜きにして説明することはできないでしょう。そしてその対策が進められるほど、「伝統的家族観・伝統的性観念」は事実上、女にとって都合のいいように運用されることになります。
そしてこれは、「選択肢を増やす」こと…すなわち「女性の社会進出」はもとより「夫婦別姓」や「同性婚法制化」、あるいはマスキュリズム側でも「MGTOW・AED不使用ムーブメント」や「離婚後共同親権」や「人工卵子・人工子宮の技術確立」を推進することの根本的意義だと言っても過言ではないでしょう。「あえてそのロールを履行しない」という道が提示されたなら、元々のロールはそれを上回るインセンティブを「選択肢の増えた側」に対して提示しなければなりません。
管理職や政治家など、社会の責任ある立場につく男女が同数になることなど、まずありえないと私も思います。どんなにその立場に女性が就けるよう社会環境を変えたとしても、男女比2:1が限界でしょう。夫婦別姓や同性婚にしても、現実的にどのくらいのカップルが利用するかは全くわかりません。
同様に、人工子宮の技術が確立されたとしても、その技術を積極的に利用するのは、不妊女性やゲイカップルの中でさえも少数派、ただの非モテ男性では皆無に近いと予想します。しかしそれでもなお推進する意義は、そこにあります。「選択肢を増やすこと」に原理的に対抗しうる手段は、こちらも「選択肢を増やす」しかないのです。
「女は解放されるほど伝統保守に回帰する、だから伝統保守に回帰するのが正解なんだ」という言説が、いかに危険であるかはこれで分かったでしょう。その言説に迎合することは、まさにフェミニストの思う壺です。