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日本のフェミニズムはどこで間違えたか?

下のマシュマロ、現状にルサンチマンを抱えた人間が陥る落とし穴を見た気がした。

こんにちは 自分は大学でジェンダー論を履修しています。履修した理由は、twitterで声の大きなジェンダー論学者は、現実世界では多数派ではないと思ったからです。  先週、ジェンダー論を教えている講師が、期末レポートについて、女性専用車両、レディース・デイといった内容(以下、女性優遇措置とします)について、批判的に検討する題材とするのを禁止するとの通達が出されました。理由は、女性優遇措置は社会構造によるもので男性差別ではないからだそうです。ただし、女性優遇措置についての批判について、民間企業がどのように対応しているかを書くのはOKらしいです。  また、先々週、GGIのランキングを扱った上で、「改善のために必要なことを検討せよ」との小レポートが出されました。  そこで、僕はすももさん、白饅頭さん、ワイズさんのツイート、noteを参考に、GGIが如何に指数として偏っているか、日本の女性が上昇する意欲がないかを示したうえで、数値の改善策として、税制度を女性が男性を養う、専業主婦よりも働く方がインセンティブがあるような仕組みを作るべきだ、としました。  そのレポートが返ってきたのですが、評価が5段階中1で、「意味不明」「論理が繋がっていない」などの評価が帰ってきました。  尚、そのレポートで一番評価が高かったものは、クォーター制度の導入などを肯定的に論じたものでした。  上記を体験した僕は、もしかしたら、twitterのジェンダー論学者は、現実世界でも多数派なのではないか、と「気付き」を得ました。  長くなりましたが、寒くなってきたので、暖かくして過ごしください。                              敬具 | マシュマロ 匿名のメッセージを受け付けています。 marshmallow-qa.com
もしかしたら、twitterのジェンダー論学者は、現実世界でも多数派なのではないか、と「気付き」を得ました

それこそ大学という場で「負け犬の遠吠え」状態に陥っているのを見てきたようなものである。

水無田気流の重要な指摘

旧来型フェミニストの"上から目線"に苛ついている女性もいる。

水無田 そうです、1980年代以降に女性が「産まない自由」を確保できたことは上野さんの大きな功績の一つです。ただ、上野さんが「産む自由」について触れられないのは、再生産の問題はどうしても家父長制の問題に回収されて、再び女性が再生産役割だけに押し込められる危険性が高く、時計の針が反対回りになることを危惧しているからです。

そして、この水無田先生は"ご本尊"上野千鶴子先生との対談本を出版。対談の中でも、この苛立ちを隠さないのが言葉の節々から感じられる。

ハフィントン・ポスト掲載のインタビューで水無田が問題視していた点をインタビュワーがうまく整理している。

―上野さんが何に勝ったかというと「産まない自由」を獲得したこと。何に負けたかというと「産む自由」を獲得できなかったということでしょうか。

そしてインタビュー中で水無田はこう指摘する。

水無田 上野千鶴子の思想的分裂の一番根本にあるのは、「近代的主体」の取り扱い方の矛盾なんですよね。近代市民社会で想定されていた〈主体化される個人〉は、やはり「生産労働可能な身体的条件を持つ成人男性」なんです。再生産労働(編註:子どもを産み育て教育する、そのための家事をするといった賃金化されない家内労働のこと)は、たとえばマルクスが言ったように「自然の再生産力に任せておけばいい」として、全部〈その他〉にしてしまった。でもその再生産労働に従事させられる人間がまさに女性だった。
だからこそ上野千鶴子はその状況をして「女性は〈人間以外〉だ」と過激に告発した。〈人間以外〉のものである女性が、〈人間になる以前〉の子どもと、〈人間以降〉の老人の世話をし、それによって社会が保たれてきたということなのですが、その「主体化される個人」という命題を、日本のフェミニズムは、女性が村落共同体的な日本型家父長制によるくびき―いわば農家の嫁モデル―から開放されていくためのモデルとして、西洋の主体概念を取り入れてなおかつ理論化しようとしたんです。
しかしこれは現実の面で多くの足枷があった。西欧のフェミニズムは、すでに「近代的主体=男性モデル」であり、その矛盾を脱却することが命題でもあったのですが、日本ではそもそも主体をめぐる矛盾が混在したままだった。上野さんは、あえてそれを不問に付したまま、「使えるものは使え」と闘ってきた部分もあるのでしょう。
ただ、女性個々人の人生を考えるならば、「男性モデル前提の女性解放」という手法を採ろうとすると、女性コミュニティのなかでも孤立してしまうし、ましてや男性社会のなかで伍していくこともできないという大きな矛盾が残されてしまうわけです。

この指摘は重要だ。女性が男性と同じ扱いを要求するという点において、今まで免責されていた事柄を免責されなくなる、という視点が日本のフェミニズムには欠落していたのである。

その結果、下駄を履かせて結果の平等を目指すという雑な路線が取られることになる。男女雇用機会均等法と、第三号被保険者制度と配偶者控除の導入がセットだったことが、このことを物語る。

水無田 それからもう一つ、〈制度〉と〈実質〉って日本社会では常に二枚舌なんですよね。たとえば雇均法が施行された1986年に第三号被保険者制度によって専業主婦の年金権が確立したり、1999年の派遣法改正と同時に雇均法も改正されて実質的に女性は非正規雇用になっていき、女性のあいだの格差、アイデンティティの撹乱が起こっていく。そういったなかで、現在20代の女性は保守化していっています。要因はいくつかあるんですが、結局のところ〈制度〉や理念が〈実質〉に追いついてない点が大きい。特に1980年代の雇均法世代以降は子どもを産んで家庭に入る女性と、それ以外の個性的な生き方を選択する女性とに分かれました。
1970年代までは女性たちはほぼ専業主婦一択だったのが、1980年代以降はライフコースが大きく分かれてきて、子どもを産むことを選択するのは保守的な価値観の女性が多数派になっていった。つまり女性は個性的な生き方を個人としては選択できても、母としては無理だったのです。「良き母」でなければ、子どもは産めないし、産んだ以上は個性を放棄しなければならなかった。したがって1980年代以降の子どもたちは保守的な「ちゃんとしたご家庭」育ちが多いと推測できます。つまり上野千鶴子は個人として戦ったんだけど、大衆の気分や感覚に関しては、次世代を再生産できなかった。

現実に起きたことはインタビュワーがうまく整理している。

―そのエピソードを聞いて思ったのが、水無田さんは『無頼化』で〈後ろ向きの男女平等〉(編註:1986年の男女雇用機会均等法の施行後も現実として女性の地位向上があまり進まなかった一方で、バブル崩壊以降の景気悪化で男性の社会・経済的な地位が相対的に低下したことにより、男女雇用機会均等法の当初の意図とは違ったかたちで男女平等に近づいていること)が中途半端に実現されてしまったという社会認識を示しましたよね。それは実は、上野さん的な言説がかつて背景にしていた前提条件が大きく変わったことを意味する。

この状況変化に対して日本の女性が取った戦略について水無田は批判的だ。

水無田 そうですね。文学的な問題でいうと「美学と政治の分裂」ということが殊更に言い立てられすぎたような気もします。「正しさ」と「望ましさ」の分裂と言ってもいいんですけども。どうもその「正しさ」をひけらかす人間は、人間の「望ましさ」、欲望や愛情といったものに背を向けているのではないか。一方現実的には、日本社会は結局理念では動かず、なし崩しの〈現実の実効支配〉に覆われている。特に家族問題がそうですね。
近代化により、日本では生活領域に関して全般的に合理化が行われていったのですが、合理化できない領域が家族にすべて押し込められていった。そして、家庭を管理する役割であった女性は、負荷を大きく受けてきた。しかし負荷があまりにも大きすぎるので、それならば「階層や所得が高いセレブ妻になりたい」というかたちで、女性は実利を取る方に行ってしまったわけです。
―要するに、今は男も女もかつての戦後男性社会の基準でいえば〈人間未満〉なのだから、「〈人間未満〉のままで幸せになるには専業主婦が一番楽じゃん」という方向に行っているんですね。僕はもちろんこういう人間観自体が嫌ですけど。
水無田 1970年代には30歳を過ぎた人間の婚姻率は9割を超えていて、生涯未婚率が一番低いときで男性が2%を切っていた。98%の男性、97%の女性が結婚していたという異常事態なのですが、先ほど述べたように当時は女性のライフコースが専業主婦一択だった時代だからこそでしょう。今は共働きが多数派ですから、夫婦は山ほどコミュニケーションをとってライフスタイルやライフコースの擦り合わせをしなければならないのですが、当時はその必要がなかったし、そもそも女性は結婚しないと生存できなかった。つまり社会のサステイナビリティと個人のサバイバビリティが完璧に一致していたのです。でもそこには女性の閉塞感や、産み育てる以外の選択がないという前提があった。今それに戻ろうとしても無理ですよね。
産業構成比を考えても、男性向きの農林漁業や製造業が縮退して、医療・福祉・サービスといった女性が働ける職が増えてきている。よく「女性の社会進出が男性の若年労働を奪っている」と言われますが、それは嘘です。現実問題として働いている女性は既婚者が多数派で、しかも女性の被雇用者全体でもパート就労が過半数です。たとえ年間を通じて給与所得があっても、7割の女性は年収300万円以下と賃金水準も低い。要するにサービス業やケアワークなどを中心とした「パートのおばちゃん市場」が圧倒的に大きい。若年男性は、そもそもそれらの雇用市場に積極的に参入したくはないでしょう。だからそういった女性バッシングも間違っているし、ある意味お互いにとって不幸なことです。ともかく、〈後ろ向きの男女平等〉が達成された結果、相対的剥奪感(編註:本来だったら得られたはずのものが得られないことから来る「剥奪された」感覚のこと)というかたちで男性のフラストレーションも上がってしまっている。一方女性の方では「男らしい男の人がいない」「養ってくれる気概のある男性がいない」といった愚痴につながってしまう。
―うーん......。そういう人はそういう趣味の人ということでいいんじゃないですか。僕は個人的には嫌だけど。それも生き方でしょう。
水無田 まぁ、高度成長期的価値観の奴隷ですよね。宇野さんとの対談で以前も指摘しましたが、都内では結婚相手に600万円以上の年収を求める20代〜30代未婚女性がだいたい40%近くいる一方、条件に合致する同世代の未婚男性は3.5%しかいない。そういった志向は自らのサバイバビリティを下げると一生懸命啓発しているんですが、最近無理だと悟りました。女子の結婚への夢と希望と野望を変えるのは、反政府勢力を武装解除させるよりも困難です(笑)。
結局そういうセレブ妻志向女子の方を、非モテ化するしかない。男性に選ばれないリスクが高まるというトレンドができてはじめて、女子は人生戦略を改めるので。男性に向けて「人生戦略として考えた場合、専業主婦でマイホーム志向の女子をお嫁に貰うことはリスクである」ということを客観的に突きつけたほうがいいのかな、と思います。

しかしセレブ妻志向女子は非モテ化せずに、むしろアルファオスの不倫のセカンドのポジションに収まることを選ぶようになったのではなかろうか。

その方が楽だからだ。

日本のフェミニズムは女性を甘やかしただけ

女性優遇措置は社会構造によるものということなのだが、こういう人工的な装置は"依存症"を生む。

そして(全員が全員ではないが)女は"依存的"である。あくまで消費者ポジション、被疑者ポジションを手放さない、"社会のタダ乗り野郎"と言われても仕方がないかもしれない。

その結果がこうである。

それがてめえの価値である、という現実を突きつけるのも女である。だから、前の記事でもこう指摘した。

経済学で言うところの外部性問題の構造そのものなのだが、「自分自身のリベラルさを支えるリソース」の確保や護持には興味がなく、所与の前提と思っているところに、リベラル派の無自覚さと無神経さを個人的に見てしまう。
言い換えると、リベラル派は、自らは単なる消費者ポジションでしかなく、社会にコミットしているつもりでしかない。だから何かと被害者マウントを取ってくる、という行動様式を取る。

同じことを感じた人は他にもいるようだ。

やはり人権意識のアップデートが必要なのかもしれない。

中国のメディアにも突っ込まれる日本の母権社会

ところが母親になれても問題が起きる場合がある。

この問題、海外でも気付かれているようだ。

http://j.people.com.cn/n/2015/0326/c94473-8869046.html

日本は間違いなく母権社会である。ここでは「母親の権利」と「女性の権利」の違いに注意する必要がある。「女性の権利」は主に女性の社会的地位と権利を示すのに対し、「母親の権利」は女性の家庭内の地位と権利を表す。
日本で「女性の権利」があまり尊重されない原因は、「母親の権利」が尊重されすぎて、日本女性が一心に「母親の権利」を追求したからである。大部分の女性にとって社会的地位と家庭内の地位を秤にかけた場合、後者がより魅力的であり、一心に専業主婦になろうとするのである。

そしてこの人民網のコラムは3つのポイントを挙げる。

1、 女性が多くの点で不利な日本企業
女性は会社内であまり重要でない仕事を任されがちであり、男性と比べて出世できるチャンスは非常に少ない。このため、女性の多くは職場でそれほど野心を抱かない。“良い教育を受け、良い会社で働き、良い男性に出会って良い結婚をすること”が多くの若い女性の夢なのである。
2、 家庭の財布を握る女性
基本的に“男性がお金を稼ぎ、女性がそれを使う”のが伝統的な日本家庭のスタイルである。家庭の財布を女性が掌握しているほか、子供は母親の教育下で育ち、母親に従う。
男性は外では自由気ままに振舞うが、家に帰ると妻の顔色を窺わなければならない。「亭主関白」と聞こえはいいが、男性は母権の下で生活しているのである。
3、 専業主婦を保護する法律
男性が正当な理由無く、離婚を要求したならば、経済的に相応の代価を支払う必要がある。「専業主婦」は、中国人が考えているような「家庭婦女(男性を世話するための女性)」では決してなく、とても安定した職業なのである。また、「専業主婦」は法律で定義されるとともに、保護されている。
これらの理由から、日本女性の中で「オヤジ女子」を望む人は自然とかなり少なくなる。3月8日の国際女性デーでは、女性たちは街頭に立ち、「女性の尊厳」や「男女平等」といったフレーズを声を大にして唱える。その姿はまるで頑迷な「フェミニスト」のようだが、デモが終わり、家に帰ると、赤ん坊に乳を与えるものは与え、食事を作るものは作るといった具合に、「かかあ天下」を続けるのである。

まさに母権社会の本質を突いてきている。そして結論として以下を指摘する。

世帯収入が比較的少ない層にとっては、未来の日本は家庭にいる女性が再就職するために様々な支援を行い、中国同様の「男女共働き」、「婦女能撑半辺天(天下の半分を女性が握ること)」を実現できることになるが、世帯収入が安定しており、「母権」を握るしたたかな女性たちは「男女平等」や「女性の権利」といった甘言に決して騙されないだろう。

そして実利を取りつつ何かと差別と騒いで自らの取り分をちゃっかり増やしていくという非生産的な女性と、そういう飼われるだけの"家畜"にうんざりしているバリキャリ女性と、自らは高収入男性の妻として安全地帯から高みの見物を決める女性と、分裂していくのであった。

これが日本の女性政策が機能しない理由であり、日本のフェミニズムの失敗の結果である。

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