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—愛を遂行する為の(強い、もしくは弱い)(けれど)、純然たる、ある意志について

“どのような長い、苦しい路を通って、互いに離れ離れ、なおも互いにおのが重みをかけあいながら、二人は産みの苦しみにある魂をひきずっていくことか?”
—ポール・クローデル「真昼に分かつ」

 2014年木村伊兵衛賞受賞作「intimacy」後、最新の個展である「Family Regained」。
 写真家・森栄喜氏が自身を“家族”というフィクションに接続し、虚構に組み込むことで、ファインダーによって切り出したイメージは、赤い鮮烈な色彩によってその全面を覆っている。
 森さんと当時のパートナーとの何気ない日々を捉えた前作、そして今作の間にある、大きな飛躍と断絶には、愛を巡るリアリズムと、家族の持つ幻想性、婚姻と性にまつわるバイオポリティクスが、1つの仮構性を持って立ち上がっている。

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“家族とは何か?”レヴィ・ストロースが、構造主義の思考の出発点に建てた、この問いは、直近でも絶えず多くの議論、疑問符を付与されて、既存の認識や制度に揺さぶりをかける様な形で、流通するイメージに強いインパクトを与えている。

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Acne Studios、2017年秋冬コレクション「Face patch collection」のキャンペーンイメージでは、黒人男性同士の同性カップル(Kordale LewisさんとKaleb Anthonyさん)と、その4人の子供たちにフォーカスを当てて、現代の多様な家族の在り方に、インスピレーションの源泉を得ている。

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また同じく、Opening Ceremony、2018年春夏コレクション・最新ルックブック「pairs」にも、幼い姉妹を胸に抱えるアジア系男性と白人男性のカップル(Humberto LeonさんとPatrick Wilsonさん)を捉えたポートレートが、多様な関係のあり方を静かに写し出している。

ジェンダーというフレームワークに捕われなくとも、家族の持つ意味と、個別から一般へと至る、家族というシステムの持つある種の普遍性は、この半世紀以上、様々な観点から批判され、攻撃された中でも尚、今日的な意義を持ち続けている。
 フランス現代思想の御大、アラン・バディウが、政治と愛の対比における発言の中で定義づけたフレーズを引用すれば、“愛の限界において、愛の関係性を社会化するために家族が存在”する。
 愛の内在的特性(内在を、自己が反省的にアクセス可能な事象として捉える)を考えた場合、家族を構成する“愛”を、1つの行為と定義づけるならば、哲学における行為論の古典的始原でもある、オーストリアの哲学者、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインのテーゼを参照する。

ウィトゲンシュタインのテーゼ:「私が手を挙げるという事実から、私の手が挙がるという事実を差し引くとき、後に残るのは何か?」


その変奏としての、
「私がAを愛するという事実から、私がAを愛しているという事実を差し引くとき、後に残るのは何か?」≒intimacy“親密さ”

 バディウにとって愛は、最小のコミュニズムであり、ゆえにミニマルな政治単位の起源と類比される。類比が愛と政治という、本来分離されているべき2つの概念を交錯へと呼び込む時、それは物語の類型における“悲劇”というジャンルの持つ可能な定義であり得る。

 Intimateから愛が生成するその時差をもってして、政治的な空間は、そのプリミティブな領域をゆっくりと浸食する。

 親密さに、愛がいつも遅れを取るという事、
 その遅れ、そのものこそが、家族にとって重要な起源足りうるのだ。

●森栄喜氏略歴 (http://www.eikimori.comより)
1976年、石川県金沢市生まれ。パーソンズ美術大学写真学科卒業。写真集「intimacy」(ナナロク社、2013年) で第39回木村伊兵衛写真賞を受賞。

●展覧会概要 (KEN NAKAHASHIホームページより)
• 名称:森栄喜「Family Regained」
• 会期:2017年9月8日(金)- 30日(土)
• 会場:KEN NAKAHASHI (160-0022 東京都新宿区新宿3-1-32 新宿ビル2号館5階)
• 開廊時間:13:00 - 21:00
• 休廊:日・月

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