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生まれて初めて、人に手を合わせて拝まれた日の話。

「まさか生きている間に、歩いている日本人女性に会えるだなんて。テレビでしか見たことなかったの。今日はいい日だわ。」

アメリカ国内でも南部に位置する、暖かな気候のその土地は、さまざまな国から人が集まる移民の街。そこに古びているけれど、可愛らしさのある老人ホームがあった。

明るい太陽の日差しは、窓から部屋の中を照らし、ひんやりとしたシーツまでも温めてくれた。その人はベッドの上に座ったまま、小さな身体で、神さまに感謝するように手を合わせながら、私に向かってそう言った。

ただ、歩いてきただけで拝まれるなんて、生まれて初めてのことだ。
こんな体験が出来るなんて、人生は面白すぎる。

今だってこうして思い出すと、クスっと微笑みたくなる。そこでのエピソードには、たくさんの笑いと温かな気持ちが混じっていた。
            
                                                     ***

初めての出産から半年で渡米した私は、まだ子育ても手探りのままに、買い物一つとっても、新しいことに慣れていく生活だった。親戚も旧知の友人もいない。環境や育児、全てに慣れる以外には社会との繋がりが途絶えてしまうように感じた。

子どもと二人の時間が長く、外出先を失くして、苛立ちを抑えた様子の私に、旦那さんは「毎週土曜日は、子どもを見てるから出かけていいよ」と言った。

産後の母親にとって1人時間はとても貴重だ。したい事は山のようにあったけれど、週に一度の自由時間を、私は、友達とお茶でも、マッサージでも、買い物でもなく、老人ホームのボランティアにあてる事にした。

せっかくアメリカにいるのだから、英語も上達したかったし、社会に触れてみたかった。看護師の経験があったから、慣れた分野の方が言葉も通じやすいかと思っての選択だった。

そうしてたどり着いた、その可愛らしい老人ホーム。

入所されている方の多くは、実は英語よりもスペイン語を母語としていた。本来目的としていた英語の勉強はそっちのけとなり、私は英語以上にわからない言語で、そこで格闘することとなる。

言葉もろくに通じない、週に一度くるアジア人の私。

それでも一生懸命、笑顔で自分たちのケアをしようとする、彼らから見れば二回り近く若い移民の私を、皆さんはまるで孫をみるように、温かく迎え入れてくれた。

私の本名は、スペイン語で発音するには難しいらしい。自己紹介で何度か名前を伝えるものの、3回ほど聞き返された後で「こりゃ、わからんわ」と、誰もが諦めた様子だった。

鶴米さん似の、気さくでひょうきんなおじいさんは「じゃあ、あなたはブリンダね」と勝手に私の名前を決め、それから私はブリンダと呼ばれるようになった。

リンダは「可愛らしい」という意味のスペイン語なんだと後から知った。
「ブリンダは、たぶん日本語でいうかわいこちゃん、みたいな感じなんだと思うよ」と友達が教えてくれた。

そうか。私異国で名前を付けてもらったよ。それも、スペイン語でかわいこちゃんと呼ばれているんだと思うと、とても可笑しくなって、ブリンダという名前を愛おしく思った。

ある日は車椅子で移動のお手伝いをし、ある日は食事介助をした。私はそれまでの経験を生かして良いケアをしたいと思っていた。

けれど「ケアをしてあげる」という気持ちは、関係の間に無意識で線を引いてしまっていたようで、その線の間にヒョッコリと風を通してくれるかのように、皆さんは自分の身体だってままならない時も、頑張って英語で話しかけてくれ、私の事まで心配してくれた。

帰宅すれば身体は疲れていたけれど、私は社会の中に自分の小さな居場所を用意してもらえたように感じられた。「してあげる」は、実は自分のおごりで、いつのまにか「自分への自信」という大切なものをプレゼントしてもらっているのだと気付いた。


「305の部屋に、新聞届けてくれる?」

ボスに頼まれるまま、初めて来る場所を探した。
片手で新聞を持ち、階段を駆け上がり、胸の鼓動を高く感じながら、緊張する気持ちをそっと呼吸で、落ち着けながら見つけた305の部屋。

ノックして招かれるまま、新聞を届けた先で、冒頭にあった「人生で初の拝まれる体験」をしたのだった。

恐らく、1日のうちの大半の時間をベッドの上で過ごしているその女性は、まさか自室に、日本人が訪ねてくるとは思いもしなかったのだろう。

居るだけで喜んでもらえる。
そう思えた瞬間をくれた、遠い土地にあるその老人ホームから、私は今でも微笑ましさと共にある記憶と、その時感じた自信という感情を、心の奥に抱えている。



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