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間違いだらけの現代文 追補③

<例題3〉 

  たとえば、ヨチヨチ歩きの頃の自分が、チョウチョを追いかけて草原をうれしそうに歩き回っていたときに、子猫が目の前にひょっこり現れ、お互いにびっくりしてしばし見つめ合っていたが、突然泣き出して、猫もびっくりして逃げていったというエピソードを記憶していたとする。ヨチヨチぎこちなく歩き回っている自分の愛らしい姿や猫と見つめ合っているときの自分のキョトンとした表情、しばらくして泣き顔に抗するときの表情の変化などについてのイメージが浮かぶとする。そこまではっきりとしたイメージがあるのだから、ほんとうの記憶だと信じるのがふつうかもしれない。だが、ここでちょっと考えてみよう。自分自身のぎこちないヨチヨチ歩きの姿やキョトンとした表情、あるいは泣き顔に移行する表情の変化などは、いったいだれの視点から見られたものなのだろうか。自分自身の視点ではあり得ない。

 そうなると、そのイメージは、自分を観察している他者の視点から構成されていることになる。したがって、これは、本来自分自身が保持していた記憶ではなく、親などの自分を観察していた他者による語りをもとに再構成された記憶なのではないかと考えざるを得ない。何度も聞いているうちに、そのイメージが定着し、自分自身の記憶と勘違いするほど身近なものとなっていく。こうしてみると、自分の過去についての記憶には、個人の所有物というよりも、家族などの集団の構成員の共有物といった側面があるのかもしれない。一家団欒の場のような共同想起の場で持ち出され語られた個々の構成員の想起内容が、その場に居合わせた人たちの間で共有され、いつのまにか個々の構成員に自分自身が直接経験したものとして取り入れられ、その後の各個人の想起を方向づける。家族のような一体感を強くもちがちな集団では、こうしたことが頻繁に起こっていると推測される。

 でも、そうだからといって、その種の記憶に価値がないわけではない。問題なのは、本人が自分のエピソードを保持しているということである。ほんとうに自分が体験し直接記憶しているものでなくてもかまわないし、さらには実際にそんなエピソードがじつは存在しなかったということでもかまわない。本人が、とくにそのエピソードを自分のエピソードと信じ込み、記憶しているということが重要なのだ。

 ライフ・スタイルというものを重視する個人心理学を提唱したアドラーは、人が自分自身と人生に与える意味を的確に理解するための最大の助けとなるのは記憶だという。記憶というのは、どんなささいなことがらと思われるものであっても、本人にとっては何か記憶する価値のあるものなのである。

 

(問)「問題なのは、本人が自分のエピソードを保持しているということである」とあるが、それはどういうことか。最も適切なものを次の中から選べ。

①自分にとって価値あるエピソードを、自分に起きたものとして記憶するのは、自己物語の構成において重要なことである。

②他人の語りから創作されたイメージを、自分に起きたエピソードとして理解するのは、自分の人生を意味づける上で危険でもある。

③家族と共有するエピソードを自分の記憶として保持することには、家族と一体感を持てるという重要な役割がある。

④他者の視点から構成されたイメージを、自分が実際に体験したものと考えることは、自己観の真実性という点で問題がある。

⑤他の構成員が保持していた記憶なのに、それを自分の記憶だと信じることは、自分の過去に対する誤った解釈をもたらす。

                                                   (東海大学 文化社会・政治経済・法学部他 2019年)

 

 比喩表現は、いわば言葉の変化球。本来の言葉の意味とは違う意味が込められます。そんな比喩には、多くのバリエーションがあります。


直(明)喩 …(例)「君は薔薇のように美しい。」
隠(暗)喩… (例)「君は薔薇だ。」
諷喩…実体の明示の無い象徴的表現   …(例)「薔薇だ。」
提喩…全体で部分を、または、部分で全体を表す。
    (例)「車(→自家用車)で迎えに行くよ。」「僕は赤門(→東京   大学)出身だ。」
換喩…主体で属性を、または、属性で主体を表す。
    (例)「ユーミン(→ユーミンの曲)を聴く。」「あの赤シャツ(→いつも赤いシャツを着ている同僚)が僕のライバルだ。」
転喩…結果で原因を、または、原因で結果を表す。
    (例)「枕を濡らした(→泣いた)夜もあった。」
縁喩…一語の比喩が関連語にも及ぶ現象。
    (例)「情に棹させば(→感得すれば)流される(影響を受ける)。」
擬人法…無機物への感情移入の結果、人に喩える表現。
    (例)「太陽がギラギラ笑いながら僕らを照らしていた。」
結晶法…人を等閑視して物質化する表現。
    (例)「貧困に喘ぐ二人はただの枯れススキだった。」
(※他に擬声語、擬態語が広義の比喩として類型に数えられることもある)


 

 多くの学校、予備校で伝えられる比喩の類型が、①直(明)喩、隠(暗)喩 の二種類に止まっています。比喩表現をはじめとした修辞(表現)技法を代表とする、表現の工夫に関して、概ね単一民族で構成されているこの国の人たちは、あまりにも無頓着なのでしょう。加えて、「先生」と崇め立てられながら、この科目における多くの指導者たちは、あまりにも不勉強なのではないでしょうか

 

 

 本問の焦点は、傍線部中の「問題」という言葉が若干、比喩的に用いられ、一般で広く用いられる否定的な意味の逆であることにあります。他者から伝え聞いたことも含めた記憶が本文の主題ですが、自身が直接経験したことでなくとも、この些細な記憶は「重要」であり、「価値のあるもの」なのです。「問題」という言葉には、肯定的な意味合いが込められています。

  「キミは僕の心の太陽だ」と言う際の、「太陽」という比喩表現の解釈において、言葉本来の意味そのままに、「日焼けの原因」や、「光合成を促すもの」とすることを、原義(辞書的意味)解釈と呼び、これが古くから、間違いの選択肢作りに活用されて来ました。本問における間違いの選択肢も、これと同じ手法で作成されています。④の「問題がある」を筆頭に、②の「危険でもある」や、⑤の「誤った解釈をもたらす」がそれに当たります。これらは、「問題」という言葉の意味を否定的に捉えています。明らかに趣旨・評価が逆になります。

 

 やや難しいのが、③です。こちらは前後関係の逆転によって作成された間違いの選択肢です。個人の経験だけでなく、家族間で「共有」された記憶も、半ば個人が直接、経験したことの記憶と同様に蓄積されるというのが、本文の内容です。また、これに続く叙述で、「家族のような一体感を強く抱きがちな集団では、こうしたことが頻繁に起こっている」とあるところから、「家族」との「一体感」は、傍線部が示す、「本人」のエピソード「記憶」や、その元になる家族間で「共有」する記憶以前に生じているものであることがわかります。ところが、③によれば、この「家族」との「一体感」が、家族と記憶を「共有」することの「役割(=効果)」として把握されていますので、家族間で記憶を「共有」する後のことになってしまいます。正解要件が「家族の一体感」→「家族間での記憶の共有」とすべきところを、「家族間での記憶の共有」→「家族の一体感」とした間違いの選択肢です。実に高尚な間違いの選択肢です。

 

 

 この③に関する一般の参考書の説明は、以下の通りです。

 ③は「家族と一体感を持てるという重要な役割」という部分が本文に書かれていないため、誤りです。

  

 「家族と一体感を持てる」ことが、「重要」であるとは、本文中、直に書かれていません。しかし、個人主義満載の現代社会で、家族が仲良く「一体感を持てる」ことは、現実的に「重要」であると言い得るはずです。この程度の常識的判断さえ失わせるのが、「書いてあることをそのまま読む」「書いてあることをそのまま答える」無機質な読みの姿勢なのです。実際、件の講師は文章中に、以下のようなマーキング(太字部分)を施します。

 たとえば、ヨチヨチ歩きの頃の自分が、チョウチョを追いかけて草原をうれしそうに歩き回っていたときに、子猫が目の前にひょっこり現れ、お互いにびっくりしてしばし見つめ合っていたが、突然泣き出して、猫もびっくりして逃げていったというエピソードを記憶していたとする。ヨチヨチぎこちなく歩き回っている自分の愛らしい姿や猫と見つめ合っているときの自分のキョトンとした表情、しばらくして泣き顔に抗するときの表情の変化などについてのイメージが浮かぶとする。そこまではっきりとしたイメージがあるのだから、ほんとうの記憶だと信じるのがふつうかもしれない。だが、ここでちょっと考えてみよう。自分自身のぎこちないヨチヨチ歩きの姿やキョトンとした表情、あるいは泣き顔に移行する表情の変化などは、いったいだれの視点から見られたものなのだろうか。自分自身の視点ではあり得ない

 そうなるとそのイメージは、自分を観察している他者の視点から構成されていることになる。したがって、これは、本来自分自身が保持していた記憶ではなく、親などの自分を観察していた他者による語りをもとに再構成された記憶なのではないかと考えざるを得ない。何度も聞いているうちに、そのイメージが定着し、自分自身の記憶と勘違いするほど身近なものとなっていく。こうしてみると、自分の過去についての記憶には、個人の所有物というよりも、家族などの集団の構成員の共有物といった側面があるのかもしれない。一家団欒の場のような共同想起の場で持ち出され語られた個々の構成員の想起内容が、その場に居合わせた人たちの間で共有され、いつのまにか個々の構成員に自分自身が直接経験したものとして取り入れられ、その後の各個人の想起を方向づける。家族のような一体感を強くもちがちな集団では、こうしたことが頻繁に起こっていると推測される。

 でもそうだからといって、その種の記憶に価値がないわけではない。問題なのは、本人が自分のエピソードを保持しているということである。ほんとうに自分が体験し直接記憶しているものでなくてもかまわないし、さらには実際にそんなエピソードがじつは存在しなかったということでもかまわない。本人が、とくにそのエピソードを自分のエピソードと信じ込み、記憶しているということが重要なのだ。

                                             『ゼロから覚醒 フレームで読み解く現代文』かんき出版

 

 相変わらず、指示語、接続語や、打消しの「ない」へのマーキングのオンパレードです。特に、「その種の記憶に価値がないわけではない」という二重否定など、特に注意しなくとも、誰もが〈価値がある〉と、肯定内容として受け止められるはずです。それでも、件の講師は、これ見よがしに強調します。

 「その種の記憶に価値がないわけではない」は二重否定になっています。正に否定のフレームワーク。「価値がない」を否定しているので、「価値がある」になると予想できます。

 こちらの説明に有難みを感じる人は、どれくらいいるのでしょうか。加えて、「フレームワーク」? そんな構文めいた解析姿勢がなくとも、日本語のネイティブである私たちに、否定表現ごときが、読解の盲点や障害になることはないでしょう。

  「否定」のフレームについての説明は、他にもありました。

 「Aではなく、B」というカタチでは、Bが筆者の主張になります。

 「AよりもB」という比較のカタチにも、AとBを分ける働きがあります。

 これらは本当に重要なことでしょうか。

 誰もが容易に把握し得るこれらの内容を学力水準の低い、ごく一部の受験生が「分かりやすい」と陶酔しているようです。彼らを倒錯から救い出すのが、私の責務と自負しています。これらの「フレーム」に関する説明は、本文の読解においても、選択肢の正誤の判別においても、一切、役立ちません。。些少の話を持ち出せば、手を動かす(マーキング)時間そのものがムダではないでしょうか。

 件の参考書の「フレームワーク」なるものに関する講釈では他にも、「差異」のフレームや、「矛盾」のフレームなるものまでありました。

「差異」のフレーム

  AはXであるのに対し、BはYである。

 当たり前です。小学生でもわかっていることです。

「矛盾」のフレーム

  Aであり、かつ、Aでない。

「逆説」のフレーム

   Aと同時に、B

   Aすると、かえってB

 …では、「矛盾」と「逆説」には、どのような違いがあるのでしょうか。

 その答えは簡単。「矛盾」が正しくない文であるのに対して、「逆説」は正しい文なのです。…

  

 この「矛盾」と「逆説」の区別、明らかに間違っています。確かに「矛盾」という言葉は、転じて、問題の意味を添えて用いられることも多いのですが、基本、「矛盾」は単に、何かと何かが対立する状態を意味する言葉です。そして、そんな「矛盾」を内包した「説」、すなわち、考えが「逆説」であるに過ぎません。「逆説」と「矛盾」の関係は、厳密に言えば、包括関係。その根底においては、ほぼ同じものです。

 



 現代文という科目が、なぜ大学入試において確固たる位置を占めて(多くの大学で、古文の倍の配点です)いるのか。それは、私たちの言語が、しばしば、省略や韜晦とうかい(直接的な表現を意図的に避けた、わかりづらい表現)、あるいは比喩表現を筆頭に、読み手への訴求効果を高めるための変則的な言い回しなどに多く、満たされているからであり、その真意に、語られた、あるいは書かれた言葉をただ眺めるだけの無感情、無機質な態度では、到達し得ないことに基づきます。この点で、現代文は外語分野で問われる語彙ストック数や、文法的な知識、あるいは形(フレーム)を過度に重視した構文解析力などとは違う、主体的で、且つ、人間的な読解姿勢が求められる科目なのです。活字上の重要な要素は、むしろ「書いてある」ことだけでなく、しばしば、その向こう側に、すなわち、「書かれていない」ところにまで求められるのです。

                                                              現代文・小論文講師  松岡拓美


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