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河合塾 令和3年度 第一回 共通テスト模試 真相

河合塾 令和3年度 第一回 共通テスト模試 真相


 小説の出題で、遠藤周作の『影に対して』の一節が【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】に分かれて引用されていました。

 安定した生き方が人間の賢い生き方だと信じて疑わない父と、音楽家としての情熱を捨てられなかった母。人生観の相違から、両親は離別し、主人公の勝呂(すぐろ)は父親と共に暮らしていました。【文章Ⅰ】では、母の死後、勝呂が以前の母の勤め先であった学校を訪ね、母の足跡を辿ろうとする場面が描かれていました。

 一転、【文章Ⅱ】では、時系列を遡り、中学時代の勝呂と、相手に応じて態度を変える伯母とのやり取りが中心に描かれていました。【文章Ⅱ】の末尾に描かれていたのが、以下の場面です。



 年の暮(くれ)、また、伯母が大連から神戸にやってきた。今度は彼女の一家が日本に引き上げる下準備のためでもあり、また父のために新しい縁談を用意してきたのである。
「なあ。お座り。羊羹(ようかん)を切ろうかね」伯母は昔のように勝呂(すぐろ)を前に坐(すわ)らせて煙草(たばこ)に火をつけた。「お前も学校から戻って一人で父さんを待つのは寂しかろうし、それに父さんは何といっても男だからな。世話する奥さんが必要だろ」
 勝呂は母の別れ話の時と同じように黙っていた。黙っているということを伯母はまた、承諾の意味にとった。
「父さんや今度くる新しい母さんのためにも…なあ、節さんのことを今後口に出してはいけんよ。そりゃあ、心のなかで、どんなに考えてもな、口に出してはいけんよ」
 伯母が母のことをこの時、勝呂の前で節さんと呼んだのは始めてである。そして父の妻になる女性のことを新しい母さんと言った。この言いかたは、勝呂の胸をひどく傷つけたが、彼は黙っていた。いやだとも言わなかった。自分が母を今、また裏切りつつあることを感じながら黙っていた。大人たちは、はじめ、勝呂が母と好きな時自由に会えるのだと言ったのだ。そして日本に戻ってみると、それはほとんど不可能になっていた。今度は新しい女が父の妻になると言う。しかももう、その女の人や父の前では母のことは語ってはならぬという。罠にかけられたのではないにせよ自分がまるで糸をからまれた虫のように思えた。そして責任の所在が何処(どこ)にあるにせよ、結果的に自分が母を一歩一歩孤独にさせ、見棄てる生活に落ちていくのも事実だった。
「なあ。誰でも、このくらいの苦労をせねば、世間はうまく渡っていけんのだから」伯母は煙草を火鉢のなかに押し込みながら言った。「辛抱せにゃ、いかんよ」

問5で全文内容把握問題が設定されていました。

問5【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】について説明したものとして、適当でないものを次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 誤答選択問題ですので、間違いを含んだ選択肢が正解となります。設定された正解は④で、【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】の時系列的な前後関係を逆に捉え、「【文章Ⅰ】で描かれた出来事は、【文章Ⅱ】で描かれた出来事よりも×後の出来事」としていました。確かに、間違いです。

 しかし、実は、これ以外にも間違いの選択肢があったのです。⑤です。

⑤ 【文章Ⅰ】で描かれた勝呂と母の教え子だった夫人との会話がどこか緊張をはらんだものであったのとは違って、【文章Ⅱ】の勝呂と伯母との会話は、身内同士の会話であるためどこか×なれあいを含んだものとして描かれている。



 勝呂と伯母の会話を「なれあい」とした点が誤りです。「なれあい」とは、基本、「利害関係を同じくする者が、互いに結託して事を運ぶこと」の意です。これが勝呂と伯母の関係に妥当するでしょうか。問題作成者としては、血縁ゆえの気の置けない関係として、勝呂と伯母の関わりを捉えていますが、少なくとも、勝呂は伯母に対して、反目しています。この点で、まず「なれあい」という言葉で表現される近しい関係からは遠ざかります。加えて、【文章Ⅱ】では一貫して、勝呂は伯母に対して、無言の反抗で対峙しています。つまり、「なれあいを含んだ」「会話」どころか、会話自体、成立していないのです。

 さらに本文上の傍証を加えるならば、「煙草を火鉢のなか押し込みながら」という行動に象徴された、伯母の高圧的な姿勢と、そんな伯母に、「糸をからまれた虫のように」、自由を奪われた勝呂の関係の中に、どうして「なれあい」を認めることができるでしょう。そもそも、【文章Ⅰ】で描かれた、母を決して慕っていなかったであろう元教え子との会話のぎこちなさを浮かび上がらせる役割を、【文章Ⅱ】で描かれた、伯母とのやり取りは果たしていません。この双方を対照的に捉えようとすること自体、間違っています。

 結果として、この問5は、作成者が設定した④以外に、⑤も正解となり得る問題となっていたのです。



 次に問6です。問5と違い、こちらは、「表現」についての全文把握問題となっていました。余談ですが、センター試験、及び、共通テストにおいて、内容と表現を設問で分けることはありません。

 【文章Ⅰ】はこのような書き出しで始まっていました。

 校庭につむじ風が巻いていた。つむじ風にのって新聞紙がくるくると上り、鉛色の空に飛んでいった。ポケットに片手を突っこみながら勝呂は新聞紙の行方を見つめていた。

 そして、この冒頭部で描かれた「つむじ風」や「鉛色の空」について解釈した選択肢として、①がありました。


 ①【文章Ⅰ】の1行目では「つむじ風」の巻く様子が描かれ、「鉛色の空」という表現も見られるが、それらは、物語の展開には×関わらないものの、勝呂と婦人との会話の雰囲気がどのようなものであったかを暗に示す効果がある。



 この①は、正解として設定された選択肢の一つでした。しかし、この選択肢自体、まず、自己矛盾を含んでいます。選択肢前半では、「つむじ風」や「鉛色の空」が「物語の展開に関わらない」としながら、後半で、「会話の雰囲気」を「示す」としています。会話の雰囲気、すなわち、状態を示すのであれば、少なくとも物語の展開に影響するはずです。


 加えて、原理的な話を言えば、小説の情景に無意味なものはなく、情景は全て、何かしらの意味を有しています。この「鉛色の空」は曇天。青空、すなわち、晴れやかな光景にしなかったのは、この後に描かれる勝呂と母親の元教え子との会話が、むなしいものに終わること含みつつ、父親や伯母に振り回されて、意のままにならない勝呂の境涯を象徴しています。「つむじ風」も同様です。温かな家族に囲まれた、平穏な家庭生活とは程遠い、勝呂の境遇を象徴しています。殊更、言うまでもなく、「つむじ風」も「鉛色の空」も、明らかにマイナスの情景として、大いに物語の設定、展開に関わっているのです。現実世界と異なり、偶発的に発生した情景や出来事など、小説内には描かれません。小説における素材には、全て意味があるのです。この①は、明らかに間違った選択肢です。

 

 次に、作成者は正解として、⑥を設定していました。

⑥【文章Ⅱ】の60行目の「まるで糸をからまれた虫のように思えた」という比喩表現は、自らの想いとは裏腹に、母との関係において自由を奪われてしまっているような勝呂の×気持ちを感覚的に表現したものだとみなすことができる。

 

 こちらの選択肢、「気持ち」が誤りです。そして、これはセンター試験から、脈々と受け継がれ、且つ、小説の設問において、最も汎用性の高い、身体・頭・心の分別スケールにおいて、間違いとすべき選択肢です。先に上げた、【文章Ⅱ】の最後の場面で描かれていた通り、勝呂は伯母から、母に「会(う)」ことや、新しい父の妻や父の前で、母のことを「語(る)」ことが禁じられていたのです。「虫」は勝呂。さしずめ、「糸」を発する蜘蛛が伯母をはじめとした大人たち、といったところでしょう。勝呂が置かれた不自由さは、母親に会いに行くことや、母親について話すことにおける不自由さであり。明らかに身体的行動の制約です。身体・頭・心の分別スケールで言えば、身体の束縛。作成者が正解として設定した⑥は、この点を「気持ち」と、心の束縛として捉えています。明らかに間違いです。誰かが誰かの心を縛り付けること自体、不可能です。

 さらに言えば、【文章Ⅱ】の中で、伯母が「心のなかで、どんなに考えてもな、口に出してはいけんよ」と発言していることも、見逃してはいけません「心のなかで、どんなに考えてもな」は、心の中で、「どう思っても構わないが」という意味です。ここでも、勝呂の心(=「気持ち」)が拘束・制約を受けていないことがわかります。この点においても、選択肢⑥の「自由を奪われてしまっている」→「気持ち」という指摘は間違っているのです。

 結果、この問6は、正解が一つとして得られない設問となっていたのです。

 

 これらは一例に過ぎません。センター試験から共通テストに移行する際、文科省要人の天下り先と噂される通信添削大手B社が、問題作成を引き受けることが予定されていました。B社内部に、問題作成能力を有する者はいません。B社の名の下に模擬試験作成を請け負っているのは、S台予備校です。その流れをそのまま踏襲して、当初、新テストもB社名義で、S台予備校講師の手によって作成されるはずだったのです。当初、予定されていた、記述式問題の採点において客観性、公平性が担保し得ないという理由で、計画はご破算となりましたが、賢明な大学関係者の本音は、もっと違ったところにあったと言われています。

 それが今回の模擬試験で露呈したような、私たち予備校講師の至らなさなのです。ごく一部の例外を除き、センター試験は、圧倒的に「正しい」問題を、加えて、その設定において、私たちの思考の陥穽を衝いた、実に素晴らしいものを世に送り出し続けて来ました。その背景には、大学での研究、指導の手を休め、ひたすら問題研究と作成に没頭する14名ものセンター試験作問委員の奮闘があります。しかも、その作成に要する時間は1年。大学の知の枢軸を担う賢者たちの思考の崇高さの足元にも及ばない私たち予備校講師数名が授業の片手間に、高々、数週間で仕立てる模擬試験とは、雲泥の差どころか、この両者は全く別物なのです。

 加えて、現代文という科目においては、多くの予備校講師たちは、選択肢に対して、「書いてないから×」とする過ちを筆頭に、大いなる倒錯と蒙昧の渦中にあります。原則、圧倒的に「正しい」センター試験と異なり、私たち予備校講師の手により作られた問題の、決して少なくない数で、「正しくない」ことが起きている。受験生のみなさんが、日頃、気を病んでいる模擬試験の類も、その中にあります。国語(現代文)を取り巻く困難のひとつが、ここにもあるのです。
                  現代文・小論文講師  松岡拓美


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