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9.京都盆地と奈良盆地は湖だったのか? 

京都の古い資料を見ていると京都盆地はかつて湖だったといいう文言をよく目にします。奈良盆地に関しても、以前の関西高低差大学の講義終了後の質疑応答で、「奈良盆地には、万葉集が詠まれた時代に湖があったのですか?」という質問があり、「湖と呼べる規模のものがあったかは懐疑的だが、今度調べてみますね」とお答えし、私・新之介の宿題になっていました。地形のなりたちを遡っていくと京都や奈良にも海水が侵入した時期がありましたが、それらは何十万年も前の話で、インターネット上にはその痕跡として湖が残っていたというような記事が存在しているようです。今回は、学校では教えてくれなかった京都盆地や奈良盆地の湖のお話です。

まずは大阪層群の変遷のはなし

大阪平野や京都盆地、奈良盆地などの地下には、「大阪層群」と呼ばれる地層が存在しています。礫・砂・粘土を主とする厚い地層で、その中に「海成粘土層」と呼ばれる地層が複数存在し、その粘土層の分布を調べることで、いつの時代にどこまで海水が侵入していたかが分かるのです。下記の古地理図は、その変遷をたどったものですので見ていきましょう。それぞれ『大阪府史 第一巻』に記載されている図版をトレースし着彩・加工しています。文字が変形しているのは歪みを修正したからです。

人類がまだ猿人の頃です

↑ 今から約300万年前から250万年前、初期の古大阪湖の中心は大阪湾南部にあり、奈良にも古奈良湖があってそれらは川でつながっていました。まだ生駒山地も六甲山もない準平原で、湖のまわりは盆地のように窪んでおり、水の流れは古奈良湖から古大阪湖へ流れていました。

人間の直接の祖先、ホモ属人類が現れ石器を使い出した頃です

↑ 今から約250万年前から150万年前、盆地の中心が北側に移り、湖が広範囲に広がって古奈良湖と北側でもつながりました。ただし、こんなに大きな湖があったわけではありません。古地理図は、ある一定の時間幅をきめて、その間に湖や海になったところを表現しています。上の図は時間幅が100万年もありますので、その間に水面が移動した範囲を示しています。古地理図に表現される海や湖は、このような水面が昔あったということではなく、水面の軌跡とご理解ください。誤解しやすい部分なのでご注意を。

人類の祖先がアフリカを脱出してユーラシアへ移動をはじめた頃です

↑ 今から約130万年前から150万年前、この時代に京都や奈良にも海水が侵入しました。汽水域となっているのは湖だった場所に海水が侵入してきたと考えられますが、古大阪湾の場合は湖が消滅した後の盆地に、海水が侵入し河川などの淡水が混ざって汽水になったと考えられています。ちなみに、まだ京都盆地も奈良盆地も生駒山地も存在していません。

人類の直接の祖先ではないですが、ジャワ原人が現れた頃です

↑ 今から約120万年前から100万年前、やや本格的な内湾が形成されました。古大阪湾の深さは10〜20メートルにもなったと考えられています。この時代から現在の山地エリアが緩やかに隆起し、大阪湾や京都盆地、奈良盆地が沈降をはじめます。

人類の直接の祖先ではないですが、北京原人が現れた頃です

↑ 今から約90万年前から50万年前、大阪層群の海成粘土層のなかで最も立派な第3海成粘土層と第6海成粘土層が形成された頃で安定した内湾が形成されました。六甲山地や生駒山地が徐々に成長をはじめて海に接する部分に崖が形成されました。この時代に古ハリマ湾と古奈良湾が消滅しているのは、山地が隆起をはじめたことで海水が侵入できなくなったからと思われます。

ヒト(ネアンデルタール人)がアフリカを出て世界中に広がっていったのが約6万年前。それよりも遥か昔の古地理図です。

↑ 今から約35万年前、この時代は近畿地方全般で地殻変動が激しくなり、盆地と山地との対立が拡大されていきました。いわゆる「六甲変動」と呼ばれる地殻変動です。六甲変動は約100万年前から始まったとされますが、約40万年前〜約20万年前は六甲変動最盛期で変動が最も激しく、六甲山地や生駒山地は一気に隆起しました。このときに古大阪湾は一気に縮小し古京都湾も消滅しました。京都盆地は、隆起と沈降を繰り返すうちに三方の山から流出する土砂によって複合扇状地を形成していきます。京都盆地に再び大きな池(巨椋池)が現れるのは約1万年前の縄文時代と考えられています。

奈良盆地の大和湖について。

奈良盆地のいわゆる大和湖に関する資料は少なく、最も信頼できるものとして昭和53年に発行されている千田正美氏の『奈良盆地の景観と変遷』を参考にしました。それによると、六甲変動によって四方を山地に囲まれた奈良盆地は、四方の山から流れ出る水が排出できずに水が溜まっていきます。そして大和湖といわれる大きな湖が縄文時代に存在したと考えられているのです。その規模は今から6000年ほど前には、水面が標高70メートルの辺であったと推定されています。早速、カシミール3Dで当時の大和湖を再現してみましたが、にわかに信じがたい大きさになってしまいました。

縄文時代の奈良盆地と大和湖のイメージ

↑上の地形図は、水面の標高を70メートルに設定し、奈良県史の縄文晩期の遺跡の場所プロットしてみた。縄文人の遺跡と汀線は確かに一致しています。千田氏は、その後、亀ノ瀬付近で断層による陥没ができて、大阪平野に水が排水され、2500年以前には水面の標高が50メートル辺まで低下したとされています。

弥生時代の奈良盆地と大和湖のイメージ

↑上の地形図は、水面を標高50mに設定したものです。青い印は弥生時代の集落。丸の大きさは集落の規模です。いまから2500年前には、水がゆっくり抜けていくと同時に、湖岸平野に稲作が発達していき、河川沿いの自然堤防などの微高地に集落が形成されていきました。

↑上の地形図は、水面を標高50mに設定した中央部の拡大です。赤い丸の部分に古墳が3基確認できますが、古墳が造られているのは低湿地帯より一段高い段丘や自然堤防の上。この水位では古墳は造営できませんので、古墳時代には水が抜けて低湿地帯に広がる水田より一段高い場所に古墳が造営されたと思われます。つまり、古墳時代には大和湖は消滅したと考えられるのです。

↑上の図は、聖徳太子が舎人とねり調子麻呂ちょうしまろを従えて愛馬・黒駒くろこまに乗り、斑鳩宮から飛鳥京へと通ったといわれる太子道(筋違道)の想定ルートを記しています。もし飛鳥時代に大和湖が存在していれば、太子道のルートも大幅に変わっていたでしょう。

↑上の歌は、万葉集に収められている舒明天皇じょめいてんのう(629〜641)が当時の飛鳥の様子を詠んだものです。海原やかもめなど、大きな湖があったことを想起させますが、内容としては、平原のあちらこちらに立ち立ちする煙、水の上に鷗のしきりに飛び立つ光景に、よき国、秋津島なる大和の国をほめたたえるというもの。海原とは、香具山のふもとの埴安池はにやすのいけのことと考えられ、近くに耳梨池や槃余池などがあり、それらの池を海原と詠んだと考えられます。かもめも海鳥の鷗がここにいたとは考えにくいですが、二上山や金剛山を越えると大阪湾ですので容易に行き来できたのかもしれません。

「奈良盆地には、万葉集が詠まれた時代に湖があったのですか?」の宿題に対する新之介の回答です。

回答:飛鳥時代の奈良盆地に大きな湖があったとは考えにくいです。ただし、縄文時代には大きな湖があったようです。その後の断層運動で、亀ノ瀬付近に陥没が起こり水がゆっくりと大阪湾側に排出されていきました。古墳時代には、湖底は陸化していたと考えられます。ただし、水田に一斉に水が入る季節には、奈良盆地全体がまるで大きな湖のように見えたことでしょう。


この記事には続きがあります。↓

■追記①:2024.02.20

ある先生から大和湖の存在は認められないというご意見をいただきました。
千田氏が著書で大和湖があった根拠として奈良盆地の土壌の分布図をあげておられます。その関連ページを参考に追記させていただきました。カシミール3Dは、現在の地形の標高に基づいて水面を表してるだけですので、6000年前とは地形が異なっていると思いますが、あくまでも参考のイメージです。実は私が敬愛する市原実先生も、日下雅義先生も、横山卓雄先生も、どの著書を見ても大和湖には触れておられません。私も大和湖を否定するつもりで調べ出しましたが、結果的にはミイラ取りがミイラになってしまった次第です。ぜひ、専門の方々に、奈良盆地には湖がなかったというご説明をどこかで発表していただきたく元の原稿を追記しました。なお、この著書の巻頭に堀井甚一郎先生と藤岡謙二郎先生の推薦文が書かれています。どうぞよろしくお願いします。

『奈良盆地の景観と変遷・千田正美(柳原書店)』より
『奈良盆地の景観と変遷・千田正美(柳原書店)』より
大和湖のイメージに土壌の分布を重ねたもの

■追記②:2024.02.20

奈良盆地にかつて大和湖があったという説は、千田氏の著書が発端です。しかし、同時代の地理学や地質学、自然史学の研究者からは一切そのような話はでてきませんでした。大和湖の説が発表されて約40年、その説は肯定も否定もされることなく現在に至っていますが、インターネット上では再び大和湖が姿を表しました。私はそもそも大和湖を否定するつもりで調べ出したのですが、あまりにも反対論がないので、途中からミイラ取りがミイラになるならめちゃくちゃ美しいミイラをつくってしまおうと思った次第です。で、この記事が多くの方の目に止まるようになり、ある先生から否定的なご意見をいただきました。以下は上記の「大和湖のイメージに土壌の分布を重ねたもの」に対してです。

「グライ土で認められる過湿地帯の分布がよくわかりました。河川沿いに分布しています。氾濫原または後背湿地だとみられます。大和川が流れる平坦な奈良盆地にふさわしい。これを湖と呼ぶのは行き過ぎです。大雨が降ったときだけ一時的な水面が出現した領域だと考えます。また、大雨はいつの時代でも降りますから、6000年前の縄文海進と関連付けて論じたのは勇み足でした。」

というのが、専門の方のご意見であり、私もそのご意見に賛同したいと思います。ということで、

「奈良盆地には、万葉集が詠まれた時代に湖があったのですか?」の宿題に対する新之介の最終的な回答です。

回答:飛鳥時代の奈良盆地に湖があったとは考えにくいです。インターネット上には大和湖という説が散見されますが、そのようなものはなかった考えるのが一般的です。ただし、水田に一斉に水が入る季節には、奈良盆地全体がまるで大きな湖のように見えたのかもしれませんね。

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