【ザ・今さら】「えんとつ町のプペル」について思ったことをそのまま書いてみる
ちょっと前に読者の方から、メールで質問をいただきました。いつも読んでくださって、ありがとうございます。しかしメール質問への回答へのメール質問とはおもしろい。
おでこの冷汗を拭いながら震える指で書きますが、私は「えんとつ町のプペル」を観ていません。でも岡田斗司夫さんの動画は見ました。正直いうとけっこう共感して「あー、それそれ」と思った。
要するに彼はプペルを見ない理由について、以下の3点を挙げている。うん。分かるぞ。非常に分かる。
・感動ポルノだから
・二次創作がない(心底面白いと思う人はいないから)
・思想性が低い(反論がなく、一方的なテーマ)
ただ個人的に、この作品がおもしろかったかどうかを議論すること自体が無駄な気はしています。エンタメもアートも、感じ方は人それぞれなのでね。片方の正義でしゃべるのってどうなのかしら。
つまりそれこそが「思想性が低い」という岡田さんの意見の通りなんでしょうね。私のなかでは、この「思想性が低い」ってのがいちばんピンときたんです。それは作品だけでなく、作者周りも含めて。
なので今回は作品の良し悪しは、すみません、答えられませんが、岡田さんの意見の「作品における思想性の低さ」を、自己解釈してもうちょい深めに書いてみます。めっちゃ今さらなので、スルーしていただいても大丈夫です。
岡田さんが言う「思想性の低さ」とは
岡田さんの動画では「思想性が低い理由」について「正義に対する反論がないから」と言っている。このことに関しては、日本動画協会の出口治明さんの「アニメの歴史」でも言及されていた話だ。
岡田さんはマーベルの例を出して「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」以来、アイアンマンとキャプテン・アメリカは互いの正義感の相違がある、といっている。
さらに最近「ジョーカー」という映画で「悪役には悪役の正義がある」という話がトレンドになった。つまり「正義のぶつかり」を作品内で描くことで、あらゆる思想が深く見えてくるというわけです。
プペルの場合は、他サイトのあらすじを見ると以下のような設定。
舞台となるえんとつ町は、煙突から出る大量の煙のせいで夜空が見えなくなっている。主人公の少年ルビッチは、その町でも夜空には星があることを信じている。だけど、周りにはそんなものがあるわけがないと笑われてしまう。なかには「ねえよ」と暴力を働く者さえいる。
この構図はたしかに岡田さんの思想性の話でいうと、低いと言わざるを得ない。
またこの主人公は幼い子どもだ。さらに子ども夢を馬鹿にする「異端審問官」が大人である。これらの設定により「100%主人公が正」という見方しかできない仕組みなんですね。
この設定に「卑怯だ」という記事もありますが、個人的には卑怯ではないとは思う。よくある手法だし、商業映画としては「わかりやすさ戦略」がないとヒットしないので、大いにありですよね。
岡田さんの動画に出てくる「感動ポルノ」、つまり「どうだこれで泣けるんだろ」的な演出も、商業映画ではよくある手法ですよね。キャッチコピーにも「大人も泣ける」という常套句が入っている。うん感動はないけど分かりやすいぞ。
ここまで情報を得ると「何も考えずに泣ける」をコンセプトにしていることは、見なくても分かります。でも「何も考えずに泣けること」を求めている人もいるよね。だからいいんです。これで。
「思想がない」は作者とファンという三次元まで波及している
この「思想がない」、つまり「反対勢力がいない」という話を三次元にまで進めていきましょう。西野さんはこの作品でとても正直なマーケティング戦略をとっていましたよね。一部を書きます。
・オンラインサロンメンバーにスタンディングオベーションを指示する
・1投稿15円でレビューサイトに★5を依頼する
今は大衆によるSNS投稿の印象によって作品のヒットが決まる時代なので、印象操作をするのもいいんじゃないでしょうか。その良し悪しではなく、言いたいのは、マーケティング活動の裏は「プペルは無条件で良い作品だと思わせたい」という考えがあるということだ。つまりハナから反対意見を極限まで受け入れたくない、と考えている。
つまりこれ、とても面白いのは作品中だけでなく、三次元でのマーケティングも「無思想」に近づいているわけです。
「反対意見を出しにくい雰囲気の構築」は西野さんに限らず、中田敦彦さん、カジサックさん、堀江さん、鴨頭さん、前田さん、今は亡き箕輪さんなど……”あの界隈の人たち”に共通するブランディングだと思う。「すごい人」をSNS効果で演出するんですね。ですので、かなりサクラもいるはずだが、それも戦略なのでね。
この記事を書くにあたって彼らのYouTubeのコメント欄を見たんですけど、とてもおもしろい。激賞している人のコメント履歴を遡ると、どの動画も同じような言葉で称賛している。
つまり1つひとつのコンテンツを見極めて自分の頭で考えることは、もはやほぼないんですね。ある種、盲目的になっているわけだ。ですけど、それも決して悪いことじゃないんですよね。それで毎日が楽しいんなら、たった一度の人生を、彼らに依存しながら送るべきだと思う。
さらに話を進めよう。この思想性が低い世界は、コメント欄だけでなく、オンラインサロンの空気感をそのまま表しているような気がしてならない。プペルの上映中に「サロンメンバーが自発的にチラシをポスティングする」というアクションがあったのは、本当にすごいと思う。
「〇〇さんについていきます」という声しかないのが、オンラインサロンの特徴ですよね。思想がほとんどない世界。それがプペルにも表れているのかなぁ、なんて思ったりしています。
思想がないは「オタクがいない」という世界に近い
ではこの前提を踏まえて、さらに解釈したい。思想性が低いという世界は「オタクがいない」に近い気もするんですね。自分で徹底的に調べて、答えのないところに答えを出すのがオタクの喜びだと思うんですが、それがないんですよね。単方向だけの声だけを得て何となく腹落ちして分かった気になるわけですよ。得たものは知識ではなく、ひとりの意見に近い。
これも今回の記事で調べたんですが、西野さんは昔ホリエモン共著の書籍で「にわかでもいいじゃないか」と書いていて、ファンはそこにも共感してるのだと思う。
にわかでもいい、にはめちゃ共感してるけど、そもそも「にわかレベルでしか知らないコト」って、そんな必要じゃないのではないか……とも思ったり。好きなことを突き詰めてれば、自然とみんなオタクになるはずですよね。
そこで「周りで西野さんとか中田さんを崇拝している人の共通点」に自分なりに気づいたんですよ。彼らはみんな抽象的なマクロ的なものの見方しかできないんじゃないかと。これは面白いなぁ、と思いますね。
例えば「起業してこんな事業をやりたい~」とか「好きなことで生きていきたい~」とかは口癖のように言うけど「顧客のジョブ解析」とか「STPのやり方」のような「具体的なアクションの手段」は知らないしできないんですよ。
でも抽象的マクロの「生き方」とか「思考法」という「なんか壮大なビジョン」はすんごい語れる。一長一短ですので、どっちがスゴイとかはないけど、特徴としてあるなぁ、と。昔、マネーの虎で撃沈した「数字見れないけど経営者になりたい人」を思い出したな。
岡田さん自身のコミュニティに思想性があるか、といわれると
今回は岡田さんの動画をもとに、プペル周りについて書いてみました。ただ、最後に書きたいのは「オンラインサロンをかなり早めに始めたのが岡田さん自身」なんですね。彼はオタクの王様であり、ものすごいアニメやマンガに対する知識がある方です。
しかしさっきの例でいうと、おそらく彼のサロンに入る人に、オタクはいないと思う。果たしてそのコミュニティに思想性があるかと言われると、う〜んという感じ。入ってないからわかんないけど。
ただオンラインサロンに入会している人は思想性なんて求めちゃいないですよね。それ以上のバリューを感じているんだからそれでいいんです。例えば西野さんの努力に対するリスペクトとかですかね。それも彼のブランディング戦略のなせる技ですよ。すごいと思います。
ということで、プペルの感想は書けなかったけれど、今回は「プペルというコミュニティ」について考えてみたことを書いてみました。逆にプペルを観たくなってきたぜ。
しかし良くも悪くもこれだけ話題になったことで、商業映画としては「勝ち」だと思います。以上!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?