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【推薦図書】誰でも運命の本がありますよね?私はサリンジャーの…

運命という言葉を信じますか?

恋愛においては、
学生時代の恋人は私にとり
運命の人だったかもしれない。

その人とのちに結婚した訳でも
ないのですが、
あの在日韓国人の女性と
付き合っていなければ、
鷺沢萠や柳美里も知らない
全然違う人生を選んでいたろうと
思うんです。

それならば、
運命の本というものは
あるでしょうか?

大学生として東京に上京し、
まだ、本の虫になる前、
もし、運命の本と
出会っていなければ、
私はリア充青年として、
テニスサークルに入って、
恋愛を楽しんでいたかもしれない。

なのに、まだどちらに
転ぶともしれない段階だった時期は
きっとあったはずなんです。

上京して、
マンモス大学に通いだした頃、
私はあまりに空恐ろしくて
5月はほとんど、
下痢にたたられ、
大学に行けなくなった。

そんな時に、
最寄駅の井荻駅前にあった本屋で
私は1冊の本を棚に見つけた。
それはあまりにベタだけど、
太宰治の『人間失格』だった。

あの出会いがなければ、
私は陰キャにもならず、
明るい大学生になっていたかも
しれない。

うん、
待てよ。
太宰治の『人間失格』では
なかったかもしれない。

あれは、吉本ばななの
『キッチン』だったかもしれない。

あれ?
その記憶も怪しいなあ。

大学1年の夏休みは
池袋のデパートで働いて
彼女まで作ったじゃないか?

まだ、あの頃は
メンタルもこじらせて
いなかったような気がする。
私はいつから、人生を
こじらせていったんだろう?

私にとり、
人生をこじらせたのは、
藤原新也さんの
衝撃的な写真集『メメントモリ』を
読んでからだったかもしれない。

大学で学ぶより、
部屋で反俗的な本を読む日々を
選んだのは、
サリンジャー『フラニーとゾーイ』
だったかもしれない。
あの、世の中の醜さに辟易し、
なんとか、自分という、
小さくて無力な存在を
どうしたら特別な存在にできるかで
頭をいっぱいにしている
若きフラニーに、
私はゾッコンになったのでした。
サリンジャーといえば、
私には、ライ麦畑でもなければ、
ナインストーリーズでもなく、
フラニーの儚い無垢さ!でした。

ということは、
世の中で、特別な存在になるために
大学を休み続け、
読書に耽るようになった、
運命の本は、どうも
『フラニーとゾーイ』 だったらしい。

私はフラニーに共鳴した後、
何人かの友人に電話をして
フラニーの素晴らしさを
説こうとしたものの、
まだ大学1年生の前半期には
友人で『フラニーとゾーイ』を
読んでた人はいなかった。

そこで、私は勝手に、
彼らを、
魂の中に無垢さを気付かない俗物だと、
心でののしりながら、
無垢さを追い求めることにした。

たぶん、この世に
『フラニーとゾーイ』が
もしもなかったならば、
私は全然ちがう人生だったに違いない。

きっと本好きな人のあいだでは
サリンジャーに
人生を狂わされた人は
多いでしょう。

自分は特別な存在である
という思い込みが、
その後の人生をどんなに
生きづらく狂おしくするかは、
読書で人生をこじらせた方々が
みな苦しむところですね?

サリンジャー、、、、
罪作りな作家です、全く。

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