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【読書】作品は、作家から切り離して味わうべきと言うけれど

「作家と作品は、切り離して
鑑賞すべきだ。
その私生活やスキャンダルは
作品理解のさまたげである。」

読者は本来、
そうしたマインドセットで
小説を読むべきであり、
太宰治は浮気性だったとか、
石川啄木は浪費家だったとか、
三島由紀夫は自己顕示欲求や
承認欲求のかたまりだった、
といったプロフィールは
果たして、作品理解に
どれくらい役に立っているだろう?

とまあ、日頃は 
作家のプロフィールを
あれこれ書いている私には
口にする資格はあるのかって
怪しむ方もいますよね(汗)。

でも、文学好きでも、
とにかく文春砲みたいに
ゲスいスキャンダルめいた話ばかり
言ったり書いたりしてる人を
見ると、ちょっと辟易します。

井上◯▲は、担当編集者は
必ず若い女性にしろと要求してた、
といった、本当に下らない話を
得意げに語る人がいるんです。

どこでそんな裏話を
仕入れて来るんだろう?

まあ、そんな作家にまつわる
スキャンダルはさておき、
私は作品のことを
あれこれ言いたいのです。

では、どうして、
作品は作家から独立して味わう
べきだなんて話が理想論として
語られるのでしょう。

たとえば、
百田尚樹が旧ツイッターで
どんなにヘイトスピーチを
投稿しようとも、
作品は作品で
面白いなら、ちゃんと
評価すべきだということかしら?

また、たとえある殺人犯が捕まって、
刑務所でドストエフスキーに出会い、
改心して、小説を書いて、
それが優れていたならば、
やはり評価すべきだ、
ということでしょうか。

かつて19歳でピストルを
手に入れたことから、
殺人をおかした永山則夫という
死刑囚兼小説家がいたのです。

彼の小説が新人文学賞をとり、
日本文芸家協会に入会をするか?
という運びになった時に、
突如、永山則夫の入会は拒否されました。

それに激怒して、
文芸家協会を退会したのが、
中上健次や、筒井康隆、
柄谷行人らでした。

あくまで作品は作品であり、
殺人犯の作品だから読むに値しない
というのは、
人権、いや、小説家権を認めない、
ということになるのではないか?
誰にも、小説家になる権利はあるぞ!
そう中上健次らは言いたかったのです。

なるほど、作品は
書いた人間が誰であれ、
様々な読者に読まれる価値が
あるものだ、ということかしら。

私は同じ和歌山出身ということで
中上健次にひいきしがちです。
だから、この騒ぎの時は、
中上健次はかっこいいな、と
思いましたが、
永山則夫に殺された人の遺族は
はたして、独立した気持ちで
永山則夫の作品を読めるでしょうか。

たぶん、今、私が書いている話は
これから先も永遠に
問われ続ける問題にちがいありません。
私が名答を提示できるような
話ではないでしょう。

殺人犯に比べたら、
石川啄木の浪費ぐせ、なんて
かわいいものですね。

小説家の裏話やスキャンダルでも、
軽いレベルから、重いレベルまで
色々とあるようですね。

ちなみに、
私は百田尚樹氏のヘイトスピーチには
同意できず、甚だ不快感しかなく、
そんなことをする人の作品を
読もうとは思えません。
とことん器が小さくできてるようです、
私は…。トホホ。
許してください、
百田尚樹ファンの方々よ。

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