見出し画像

【正義】「困ってる人を助ける」という考えは間違っている?

「困ってる人を助けたい」という考えは、
なぜか毎回よくない結果になってしまう。
どうしてでしょうね?
ボランティアには、何度も
トライしては失敗ばかり…。

点字新聞の手助け。
精神障がい者の子供のための
クッキング教室の先生、
広島に折り鶴を贈る会、
在日韓国朝鮮人の差別を考える会、
中国残留孤児・日本語教師ボランティア。
保護猫ボランティア、、、、、。

最初は「正義心」から勇んで飛び込んでは、
現状の凄さ、ひもじさに
ショックを受けたり、こじれたり、
時には参加者と険悪になったり…。

どの時も、共通してたのは、
自分の中で勝手に一方的に、
「困っている人を助けよう」という
厄介なマインドになってたことかしら?
ダサい勘違い野郎ですね。いや、
それだけでは済まない…。

それがですね、
今度は自分がうつ病で会社を休み
復帰しても人並みに働くことはできず、
編集も営業部もできず、
今は総務部預かりという待遇で
のんびりやらせてもらっています。

私こそが今「困ってる人」になって
周りに助けてもらってるんです。
いやあ、日々恵まれています。

でも、それは同僚と同僚の間柄として
助けてもらっている(んだと思うんです)。

これに、相手が「メンタル疾患の人には
優しくしなくては!」という正義心が
猛烈にあると、こちらとしては
モヤモヤした感情が起こります。
正直、気持ち良いものではなく…。

その人と私との人間関係で
つながってるのがいいんです。
そこへ「うつ病で困っているから
優しくする」という「正義」「大儀」が
人間関係に加わると、
私個人のためではないんだ?と
急に醒めてしまいます。

「困ってる人」とひと括りに
されていることが妙に悲しいのです。

そして、私はかつて、
それをしていたのです。
日テレの24時間テレビが昔から、
痛々しくてうまくは見れなかったのも、
あの一連の番組企画の根底に
「困ってる人を助けよう」という
ひと括り感があるからでしょうね。
今、書いてて初めて自分で
腑に落ちました。汗。

ええ、ここから話は一気に
本の話になってしまいますが、
大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』
『オキナワ・ノート』も
そうしたひと括り感があります。
大江健三郎は広島にも沖縄にも
縁がないからあくまで、
部外者ですが、
なぜか「正義」のために
「正義」を求めて必死に
関わろうとする不自然さ。
読みながらずっと、そこに頭が行き、
中身が入ってこなかった…(笑)。

それは障がい者の本でも
戦争の被害者の本でも時々感じる、
うさん臭さの元凶も
これかもしれませんね。

「困ってる人を助ける」で人を
一緒くたにしてはならないんですね。

ああ、今までどんな
ボランティアをやっても
すぐに挫折してた理由が
初めて言語化できました。
日本語教師だけは楽しかったので
2年も続いたんですが。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?