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【言文不一致】書き言葉と話し言葉は、使う脳がちがう?

母は話上手だ。
私の話、父の介護、弟の近況などを、
ユーモアたっぷりに話す。
為になる話もたまに織り交ぜ、
テンポもよい。

話題が飛びすぎるのは
まあ仕方ないとして、
いつも飽きさせないトークには
圧倒されてきた。

なのに!!?

話すのではなく、
何かを書くとなると、
とたんに、面白さが消えるんです。
つまらなくなる。実に不思議。
でも、たくさんいますよね、
そんな人って。

トークではみずみずしかったり
ダイナミックだったのが、
書くとなると、
急に杓子定規になり、
小学生の作文になるんです。
借りてきた猫のよう。
実に大人しくなってしまう。

これは、カタにはまって
書こうとするから、ではないか。
うまく書けるカタがあるものだと、
昭和の゙人は無意識に思ってる節がある。
これは作文という、
学校の授業の悪弊のせいですね。
母はその典型で…。

でも、これは単に私の母一人の
問題ではないように思われる。

時々、昭和生まれの人から
手紙をもらったりすると、
この固い文章は、
このいかめしい文章は、
いったい、何時代の言葉だろう?と
クビをひねる機会がたまにある。

文章を書く脳と、
話し言葉を司る脳は、
ぜんぜん違うのではないか?
とすら思いたくなる(汗)。

それだけ、
文章を書くことが、
会話するかのようになるのは、
たいへん困難な道のりだった。

でも、「文章を書く」ことが
今ではこんなに一般になり、
誰もがブログやnoteで
畏怖ではなく、楽しく書ける時代に。
これが言文一致体ということですね。

でも、考えてみれば、
100〜150年前の日本には
言文一致体は、まだなかったか、
まだ定着していなかったか、でした。

それを思うと、
言文一致運動をしてくれた
明治の人々には感謝ですね。
夏目漱石や正岡子規や、西周、
福沢諭吉、二葉亭四迷たちに。

彼らがいなかったら、
私たちは今もまだ、
文章を書く時は、
江戸時代のように、
まわりくどい古文のような文章を
書いていたのかもしれない。
「けふ、てふてふは…」みたいな?
うん?それはそれで味があって
良かったのかもしれない?(汗)。







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