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今週の推しカルチャー!(2023/7/31〜8/6)


映画

裸足になって(ムーニア・メドゥール監督)

たとえ声を失っても、身体を通じて世界へ訴える再生と追悼の物語。

 内戦の傷跡が残る北アフリカのイスラム国家アルジェリア。
 バレエダンサーを夢見る少女フーリアは、男に階段から突き落とされて大ケガを負い、踊ることも声を出すこともできなくなってしまう。
 失意の底にいた彼女がリハビリ施設で出会ったのは、それぞれ心に傷を抱えるろう者の女性たちだった。フーリアは彼女たちにダンスを教えることで、生きる情熱を取り戻していく。

https://eiga.com/movie/99432/

 人は住む場所を選ぶとき、どんな条件で場所を決めるのだろう。
駅から近い。通勤が楽。介護があるから実家の近く。
 そんな生活に直結した理由で住む場所を選ぶ人が多いのかもしれない。

 私は断然「水の近く」に住んでいたい。川は増水が怖いけど、海や湖など、何かしら水の気配があるところがいい。
 魚座であるせいか、散歩で行ける範囲に噴水や何かしらの水源があると、私の心はリフレッシュされる。
 叶えたい夢のリストの中で「いつか窓から海が見える家に住むこと」はかなり上位に入っている。

 そんな私は、映画の冒頭、主人公・フーリアがバレエの練習をしているシーンに一瞬で虜になってしまった。彼女の鋭い真剣な眼差しにも目を奪われるが、彼女の背後に広がる青々とした海に私は釘付けとなった。
 朝陽に照らされ、燦々と輝く海に照らされて踊る一人の少女。
「この美しい場所はどこの国なんだろう。」
「自分も将来こんなところに住んでみたいなぁ。」
 そんな呑気なことを考えていた私は、この映画を通して多くのことを知ることになる。
 その美しい海は「アルジェリア」と「スペイン」にまたがる海であることを。そして、その海にはたくさんの"叶わなかった夢"が沈んでいることも。

 映画は、バレエダンサーを目指すフーリアが声と夢を失うところから始まる。バレエに全てをかけてきた彼女は「もうダンサーになれない」という現実を受け入れることができない。
 そんな彼女がリハビリ施設で出会ったのは、様々な過去を背負った"ろう者"の女性たち。手話に不慣れなフーリアだったが、彼女たちを結び付けたのは、彼女を支えてきた"ダンス"だった。

 「2023年上半期:映画ベスト10でも取り上げたが、今年の6月、アカデミー賞脚色賞を受賞したサラ・ポーリー監督の「ウーマン・トーキング 私たちの選択」という作品が公開された。

  作品のほとんどを「女性たちが話し合う」シーンで構成した「ウーマン・トーキング」は「言葉を奪い続けられた女性たちに言葉を取り戻す」という確固たる意志を感じさせるフェミニズム映画であった。

 一方「裸足になって」では、"言葉"の代わりに"ダンス"が重要な役割を果たす。

 一度はダンスを諦めたフーリアも、仲間たちにダンスを教える先生として、そして自ら振り付けを考案する振付師として、生きる意味を取り戻していく。(手話をダンスに取り入れるくだりに「フラガール」を思い出し、国を越えた連帯を勝手に感じた。)

 ダンスの発表会に向けて、練習を重ねるフーリアたち。
これだけで話が終われば「女性たちの連帯とレジリエンスを描いた爽やかな作品」となりそうだが、アルジェリアの歴史がそうはさせない。

 過去の内戦の影響から回復したとはいえない治安。街中で普通に暮らす元テロリストと、彼らを見過ごす警察官。
 そんな自国に見切りをつけて命懸けので海を渡る若者たちは、監督インタビューによると一年で400人が命を落としているそうだ。

 物語終盤、ある事件をきっかけに彼女たちの"ダンス"は全く違った意味を帯び始める。

 海に面したバルコニーで始まった映画は、同じように海を捉えて幕を下ろす。鑑賞後「こんなところに住んでみたい」なんて呑気に思うことはできなかった。
 「ウーマン・トーキング」に続く新たなるフェミニズム映画の誕生の瞬間に、ぜひ劇場で立ち会ってほしい。

 (余談なのだが、劇場パンフレットのムニア・メドゥール監督へのインタビューページで、監督の発言が「です・ます」調と「だ・である」が混在しまくっているのは何か意図があるのだろうか。)

シモーヌ フランスに最も愛された政治家(オリビエ・ダアン監督) 

一人の女性の人生を追体験して知る「伝える」ことの尊さ。

 1974年、パリ。カトリック人口が多数を占め、男性議員ばかりのフランス国会で、シモーヌ・ベイユは圧倒的な反対意見をはねのけて中絶法の可決を実現させる。
 1979年には女性として初めて欧州議会議長に選出され、理事たちの猛反対にあいながらも「女性の権利委員会」を設置。
 女性のみならず、移民やエイズ患者、刑務所の囚人など、弱者の人権のために闘い続けた。その不屈の意志は、かつて16歳で家族とともにアウシュビッツ収容所に送られたという過去の体験の中で培われたものだった。 

https://eiga.com/movie/98672/

 昨年末、『あのこと』というフランス映画を鑑賞した。

 1960年代のフランス。自分の意思に反して妊娠させられてしまった大学生の主人公は、自身の将来のため中絶することを決意する。しかし、当時のフランスでは中絶=犯罪とされ、彼女を助けることは罪を犯すことと同義だった・・・

 恥ずかしながら、私は『あのこと』を観て初めて「中絶が合法でなかった地域・時代がある」ことを知った。
 それから10年余りが過ぎた1975年、フランスでも中絶が合法化された。
その法整備に尽力したのが、今回取り上げる映画「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」の主人公シモーヌ・ヴェイユだ。(成立した法は彼女の名を取り、通称「ヴェイユ法」と呼ばれている。)

 今回の映画は、この「ヴェイユ法が成立するまでのシモーヌの闘いの記録を描いた作品なんだろうな」と思って映画館へ向かった私の予想は、あっさり裏切られることになる。 
 140分の長尺を持って描かれるのは「シモーヌ・ヴェイユ」という一人の女性の人生そのもの。彼女は2017年に亡くなっているが、その前に出版された彼女の自叙伝をベースに作られた映画らしい。

 彼女の89年に及ぶ人生を一本の映画にするのだから、てっきり誕生から徐々に成長していくのかと思いきや、この映画はそうはいかない。

 映画が始まってまもなく、前述の「ヴェイユ法」の成立の瞬間が描かれると、舞台は戦後すぐの1946年へと巻き戻される。さらに1975年、1950年、1994年と時代も場所も様々な場所へと観客は飛ばされる。
 そんな調子で時系列がシャッフルされた形で物語が進むものだから、こちらは話についていくだけで必死である。
 「フランスの方からしたら全部知っていることなのかもしれないけど、全く彼女の人生を知らない人間には厳しいぞ。少し予習してくればよかったな」などと思っていたのだが、ある瞬間からシャッフル演出の意図がわかり始める。
 ユダヤ人である彼女は、第二次世界大戦中、強制収容所に収容されていたのだ。

 戦争が終わり、収容所から生き延びたシモーヌ。
 その後、子どもを授かったときも、大切な人と過ごす日々にも、収容所時代の記憶が影を落とす。どうしようもなく付き纏う記憶に眠れない夜もあったシモーヌだが、仕事の方はメキメキと結果を残していた。

 まだ女性弁護士が少ない時代に司法官となり、フランスの保健大臣となった後は、欧州議会選挙に出馬して当選。
 その間、刑務所の劣悪な衛生環境の改善に尽力し、エイズ全盛期には患者と同室し、二人っきりでの対談を敢行。男性からの猛批判を浴びながらの「女性の権利委員会」の設立。そして前述の「ヴェイユ法」の制定。

 常にマイノリティ側の視点に立ち、立場の弱い人たちに手を差し伸べ続ける強さは「アウシュヴィッツのようなことを二度と起こさない」という彼女の確固たる想いに支えられていたことを、このシャッフル演出のおかげでより強く体感できたように思う。

 一人の女性の闘いと復活というフェミニズム映画の要素と「反戦」としてのメッセージを明確に打ち出した本作は、まさに今の時代に、そしてこの8月という大切なタイミングに劇場で観ていただきたい一作である。

 特に、アメリカ合衆国最高裁判事となったルース・ベイダー・ギンズバーグの誕生を描いた「ビリーブ 未来への大逆転」が好きな方にはぜひオススメしたい。

書籍

憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき(著:マシュー・ウィリアムズ・訳:中里京子)

 メディアでは政治家がマイノリティに対して差別的・または無知な発言を行い、SNS上では、心ある人間が書いているとは思えないようなメッセージをヘイターが当事者に送りつけ、何の罪もない者の命が奪われる。

 「こんなことを何度、そしていつまで続けるのだろうか。」

 ヘイターに抵抗することにも、失われた命を嘆き悲しむことにも疲れていた私の頭の中には、いくつもの疑問が浮かんでいた。

「そもそも、人はなぜヘイトな行動を取るんだ?」
「そういった行動を取る人と取らない人の違いは何なんだ?」
「ストレス解消のためにやっているのか?」
「もしストレス解消が目的なのであれば、そこにヘイト=憎悪という"感情"は付随しているのか?」

 とめどなく湧き出る疑問の答えを求めて手に取ったのが、マシュー・ウィリアムズ氏著の「憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき(河出書房新社:2023)」である。

 作者のマシュー・ウィリアムズは、英国で暮らす白人男性。この本は、彼のある告白から始まる。
 大学卒業をひかえ友人たちと飲んでいたマシューは、パブを出たところを3人の男たちに襲撃された。ゲイであった彼は、襲撃の瞬間、これが「ヘイトクライム」であることを悟った。

その後、何日も何週間も、暴行の記憶に立ち戻ることになった。
 この一件は私の思考をすっかり支配し、しまいにはそれ以外のことが何も考えられなくなってしまった。(略)
 あの日、私は何かを失った。今でもそれを取り戻す事は二度とできないように思う。

「憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき」P.10,11

 一命を取り留めたマシューは、己の人生をかけて「人が憎悪=ヘイトな行いへ走るのはなぜかなのか」を研究することにする。

 時には自身の脳に電極を差し込み「ヘイト」の正体を探り、現在では英国政府の政策提言を行うまでになったマシュー。
 そんな彼の長年にわたる研究と調査の結果がまとめられたのが、日本語で386ページに及ぶ本書だ。

 中でも印象的だったのは、元はイギリスで出版された本にもかかわらず、2016年に神奈川県で発生した「津久井やまゆり園」の事件を取り上げている点だ。
 それも、少し触れる程度ではなく、いくつか取り上げられている各国のヘイトクライム事一例として細かに事件の内容が語られている。

 犯人がどのような心理で行為に至ったのかを掘り下げるのかと思いきや、マシューは日本政府のヘイトクライムへの態度を糾弾する。

 日本の警察当局は、相模原障害者施設における大量殺人事件において、加害者が書面や供述を通して、障害者は消えてなくなったほうがいい、と告白していたにもかかわらず、この事件を障害者に対するヘイトクライムとはみなしていない。

「憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき」P.61

 日本政府が上記のような態度を取る理由を、マシューは以下のように解説する。

 日本を含む一部の諸国がヘイトクライムの統計をまったく公表していない理由の一端は憎悪の動機による犯罪を違法行為とみなすこと、あるいはそのような犯罪をより重い罪にということを政府が繰り返し拒絶していることにある。

「憎悪の科学 偏見が暴力に変わるとき」P.61

 今週の記事はお恥ずかしい続きで恐縮なのだが「他国では犯罪の動機が憎悪=ヘイトに起因すると認められる場合、罪が重くなる」ということを私は知らなかった。

 そのような法律が制定されている国では、法の存在自体がヘイトクライムへの抑止力になっている。また、実際に犯罪が起きた際に「その犯罪がヘイトクライムであったかどうか」を集計している国はヘイトクライム対策で良好な成果を上げているという。

  自分が住んでいる国にも関わらず、他国に比べてどのようなところが劣っているのかをもっと知りたいと改めて思った章であった。

 このように、日本を含むあらゆる国の事例や、ヘイトを防ぐにはどうすれば良いかの提案が豊富に紹介されている。

 私としては本書を読んだおかげで「この政治家の発言は、無知に基づく者ではなく、票を集めるためにわざと差別的な発言をしている」場合や「このリプライはストレス解消のために飛ばしているだけで、エビデンスの有無についてまで考慮せずに反射的にやっているだけだな」など、怒りに捉われず一歩引いたところからヘイトと対面できるようになったと思う。

 また、映画やドラマなどのカルチャーにおいても、制作者がどのような意図でキャラクターにヘイトな行動を取らせているのかを解き明かすにも役立つ一冊のように思われる。

 止むことのないヘイトに疲れてしまった方、どのように戦うのが効果的かを知りたい方、ヘイトな発言をやめたいのにやめられなくて悩んでいる方、お子さんが将来ヘイターにならないか心配な方など、あらゆる方にオススメしたい一冊である。

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text by シンタニジュン(Twitter / Threads



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