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義母の雑煮を食べながら思うこと

年が開けた。

自粛の反動のせいか、新しい年への期待のせいか、新年のカウントダウンの花火はいつにも増して素晴らしかった。ハワイの大晦日の風物詩である打ち上げ花火や爆竹は許可証があれば買うことができる。毎年、多くの人たちがこの日の為に何百ドルも花火に費やすらしい。家の庭先から、あるいは道路脇で綺麗な打ち上げ花火が大音量と共に上がるのだ。屋根のすぐ上で、しだれ柳や菊の花火が咲くので火事にならないかと不安にもなる。

いつもならワイキキのホテルが上げる花火を、観光客と共にビーチで見るロコ達も、今年は中止でそれが出来ない。行き場を失った人々はフリーウェイの路肩に車をずらーっと停めて、民家から上がる360度大パノラマの花火鑑賞を楽しんでいた。


ゆっくり起きた元旦の朝、私たち家族は義母の家でお雑煮を食べるのが恒例になっている。夫の母、ヤエコは不出来な嫁の私に一度たりとも嫌みも恨みつらみも言ったことの無い、とっても出来た人である。

先祖は新潟からの移民で日系3世のヤエコが作る美味しいお雑煮は、ごった煮のように色々なものが入っている。私の日本の母が作る関東のおすましのようなお雑煮とは全く違う。ハワイは三つ葉の代わりに水菜を沢山いれる。さらに驚いたのは、汁に濡れた餅にきな粉をつけて食べる。お雑煮の餅で安倍川餅も一緒に楽しもうってやつだ。ヤエコの両親か祖父母から受け継いだのだろう。

ハワイの日系人は日本ではもう、あまり見られなくなった慣習をきちんと守りつづけている。一歳の子供の誕生日には一升餅をかつがせて歩かせる。ヤエコは暮れには親戚と餅つき機で餅を作るので鏡餅を買う事もない。更には、お供え餅の一つを元旦に愛車のダッシュボードに置く。交通安全祈願だ。私は車に置く餅は聞いた事も見たこともなかったが、ヤエコは慣習をやめる事はない。

100%日本人の血が流れているヤエコは日本語を話さない。アメリカ生まれのアメリカ育ちなら終活もアメリカ式だ。子供がいても世話にはならない、迷惑はかけないという心構えだ。義父が亡くなって数年後、一人で暮らしていたヤエコは大きな家を売って今のコンドミニアムにダウンサイズした。そして、介護付き老人ホームのウエイティングリストに自分の名前を入れた。息子である私の夫たち兄弟は自分たちが生まれ育った家をヤエコが売る時、思うところがあったようだが彼女の意思を尊重した。自分の家も持ち、頼りになりそうな子供たちがいても、こういう選択をするヤエコを、そして、それを受け入れる夫たちを見て、これがアメリカ人なんだなあ...と思った。

ヤエコは本当にいい人で、私が若い時に同居した時も嫁姑問題はなかった。私が夫と口論になって、その場にいたヤエコの考えを私が聞いたら彼女は答える代わりに背中を向けた。「第三者は口出ししない」とヤエコの背中が語っていた。私が仕事を続けられたのもヤエコが私の子供たちのベビーシッターをしてくれたからだ。こんなヤエコの老後の面倒は嫁の私が...と言いたかったが、私には日本にも老いた母がいるので難しかった。もし、母に何かあったらいつでも日本に飛んでいかなければならないからだ。

暮れにヤエコからメッセージが来た。次のお正月までには老人ホームに入居する順番がくるかもしれない。もし、そうなったら私が元旦のお雑煮作りを代わってできるかと。日本の核家族で育った私はハワイに嫁いでヤエコからたくさんの事を学んだ。

これから先もずっとヤエコの作ったお雑煮を家族皆で食べていきたい。でも、時間は止められないし、そうやって世代は変わっていく。だからこそ、ヤエコが受け継いできた慣習を出来るだけ私たちが受け継いでいく事が大切なのだ。

ヤエコが作った最後になるかもしれないお雑煮を食べながら、こんな事を思った元旦だった。


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