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「彼女のいない部屋」心の苦しみを終始映像で表した映画 まるでウルフの意識の流れのよう

 公開初日は、ドライブマイカーの濱口竜介監督と、マチュー・アルマリック監督がオンライン登壇で対談された。「彼女のいない部屋」 には、97年の年代ものの赤い車のドライブ場面がよく出て来る。それはドライブマイカーを彷彿とさせる。そして母親である女性は、子供のピアノの練習曲の録音を聴いたり、チェリー、愛している♫というアメリカの曲を聴いて夫への愛を口ずさんだりする。車の中で思索し、混乱する感情を出したりするところも、ドライブマイカーと共通するところがある。

 しかしドライブマイカーが過去を解釈しなおすことに一貫し、未来へ続けていく再生の物語であることに対し、この映画は、時間軸が過去へ行ったり未来へ飛んだりと交錯する。女性は夫の浮気で家を出たのだろうと推測される。精神的な荒廃は凄まじく、魚屋の氷に顔を突っ込んだり、バーでは見知らぬ男をマルクと夫の名前を呼んで、背後から抱きしめる。パーティで出会った男のシャツのボタンを開けて手に伝わる心臓の音を感じたりもする。奇異な行動に、C'est la vie といった距離を取りつつも温かく接する見知らぬ人たちはフランスらしい。子供たちは順調に大きくなり、それを気づかれないように遠くから見守る母親。夫も子供も彼女のいない部屋で、彼女を恋しく思い、その不在を噛み締めながらも三人で生活を進めていく。


 雪山近くのロッジにとまったシーンは夫婦仲睦ましく、幸せな記憶が描かれている。ラストでは、数ヶ月後に雪山がとけて、夫と子供二人の死体が発見される。

ここまでくるとどういった現実が起こったのかが理解できるのであるが、それまでの彼女の回想や空想というのをどう解釈してよいのかが、腑に落ちない。原作はクロディーヌ・ガレア。2003年に書かれた戯曲をマチュー・アマルリック監督が読んだ時、感動のあまり涙が止まらなくなり映画化を決定した。

 愛する者を予兆もなく奪われる喪失。幸せを積み上げてきた時間が全て失われ一人残されたものの慟哭。雪山の雪が溶けて遺体が見つかるまでの数ヶ月間、女は家族が遠くに行ったのではなく、自分が家族を捨てたのだと空想することで痛みを和らげようとする。それは狂気から自分を救う一つの手立てだったのだろう。あるいは自分一人を置いて三人とも逝ってしまった怒りを、自分が捨ててやったのだと仕返しをしていたのかもしれない。

 魚屋の氷に顔を突っ込んだり、車に積もった雪をかき分けたりするのは、家族が雪山で横たわっていることがいつも頭にあり、それに同化して苦しみを分かち合い、そして助けようとする心の叫び。苦しみや悲しみといった心の動きをモンタージュのようにして表出しているが、見るものは、一体どういうことなのか、現実がわかっても腑に落ちないところがたくさんある。特に未来を空想するシーンでは、生きていたらこうかもしれない、という妄想、期待だったのだとぼんやり解釈するが、はっきりとはわからない。そう言う意味で頭から離れない忘れがたい映画になるのかもしれないが、未来の空想で、意味不明なところもあり、煙に巻かれる感じさえする。構成が稚拙なのか、はたまた前衛なのか、ただ、喪失の苦しみ だけはしっかりと心に残った。

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