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日々是妄想: 民藝の空間で避暑する

多少ひんやりするも気持ち良い朝だったのに、日が昇るにつれて、いかにもな夏の陽射しが降り注いだ日。
駒場東大駅から民藝館までの道のりで容赦ない太陽の洗礼を受ける…午前中に移動すべきだったか…
あれ、梅雨はどうした?

聖像・仏像・彫像-柳宗悦が見た「彫刻」
@日本民藝館

陽射しが強い…蓮の葉陰でメダカが涼し気に泳ぐ

受付を済ませ、大きな引き戸を開けて玄関に入ると何故かホッとする。椅子に腰掛け汗を拭き、スリッパに履き替えた。正面の大きな階段、高い天井、木の手すりの艶やかでひんやりした手触り。
洗練された心地よい空間には、いつ来ても無理がなく自然に思えて心地よい。
同時に、ここに来ると柳宗悦という人の審美眼を嫌でも意識せざるを得ない。そこにあるものに意識を集中させるため、敢えてキャプションを付けない展示。こちらの度量が試される緊張感がちょっと快感だったりもする。まず、興味を持つこと。わからなければ自分で調べればいい。それが気づきになるから。

併設展示の中で朝鮮白磁の染付に目が止まる。
この小さな染付の壺は山梨の浅川氏から手土産として、柳にもたらされたもの。この手土産によって柳は朝鮮半島へ目を向け、西洋美術から民藝へと方向性を変えたと聞いたことがある。小さな壺からの気づきが無ければ、今日の民藝もなかったかも知れない。
同じ壺は山梨県北杜市にある浅川兄弟の資料館にも展示されていた。

小さくて見逃しそうだけど、
秋草の表現がおおらかでバランスも良い。
*写真は絵葉書から引用

彫刻という観点から神仏像や仮面、囲炉裏の自在鉤までを見せる展示で、中には縄文土偶も含まれる。彫刻は明らかに美術に含まれるけれど、展示されたあれこれは美術品として作られたものではない。祈りであったり、娯楽であったり、生活必需品だったり、ある意味で日常の中に当たり前として存在していたものと言える。これらのコレクションが伝えようとしていることは美術は特別なものではなく、生活の中にあって人々の日常を支え彩る知恵でもあるということじゃないか。それこそが民衆の藝術、柳宗悦が唱えた民藝ってことだよなと改めて納得する。
用の美、美は細部にあり。それに気づく心を整える空間。時々思いついたようにここに来たくなる理由はそこにあるかも知れない。

帰りに駒場公園に寄ろうかとも思ったけど、あまりの日差しにあっさり撤収を決断。
BUNDANに寄ってビールでも飲めば良かったか…
また今度にしよう😆

通常、展示品は撮影不可なのに木喰仏について撮影可能だった。どれもいいお顔をされていてずっと見ていたいと思いながら手を合わせて見つめた。
ボーダレスに蒐集されたあれこれがラインのように繋がる展示。感性と知識に裏付けられた審美眼の確かさ。心地よく打ちのめされて何故かホッとする。
都内の避暑地感覚でほっこりするのも悪くない。

思わず目を見て自分も手を合わせた。
たおやかな十一面観音。
自画像とも言われている。
「いいから笑いなさい、大丈夫だから。」
お不動様。火焔の表現がカッコよい。

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