珈琲 草枕 __夏目漱石の芸術論と研ぎ澄まされたマスターの美学__
___『漱石もそうですけれども、控えめなものと言いますか、中国の漢詩ですとか、和の美、といいますか、そういうものに惹かれてしまうんですよね、
ある意味で漱石の芸術論を良いと思っているのだと思うんですけれど』
物腰柔らかなマスターが、一つひとつ、丁寧に言葉を選び、紡ぐ。
レコードのクラシック音楽が流れる店内に、ぽつぽつとマスターの言葉が染み入る。
虎ノ門
オフィス街に静かに佇む草枕さんは、一見すると小料理屋のような門構え
暖簾を潜り引き戸に手をかけると、『ピタッ』と都会の喧騒が消える。
和洋折衷の店内。
文豪たちの文学から、海外文学、喫茶店に纏わる本などが棚にはずらりと並ぶ。
カウンターに腰掛けると、目の前に古本がずらり。
テーブル席は仕切りがあるので周りを気にせずひとりの時間を満喫できる。
荷物おきは丸太で、木の温もりと日本の和の美、そしてレコード、コーヒーという西洋の美が調和を生み出す独特の空間に。
美学と珈琲と
_____『ピアニストのグレンゴールドさんも草枕の芸術論に影響を受けたと言いますし…』
店名の由来の『草枕』。
その芸術論を静かに語るマスターは、柔らかい表情を浮かべる
「お店は15年前から、ということですがお客さんの層はどのような感じですか?」
_____『コロナ前はやはりオフィスに通う方々が多かったですかね。おじ様方が多かったです。今は……半々か、6:4で常連さんは男性の方が多いでしょうか…
ああ、でも…!』
はた、と目を細めて
_____『学ランを着た男子高校生が来て下さるんですよね。』
「えっ!男子高校生ですか?」
なんともしっぽりな大人な空間であるし、チェーン店のようにコーヒー1杯も決して安価でない。
まるで高校生とは結びつかないような空間だからこそ、驚愕してしまった
「その方は1人で来られるんですか?」
______『そうなんです。最初もふらっと入ってきて珈琲を注文して……なんといいますか、ここ(草枕)を大変気に入ってくれたようでして、うちは手で回す自家焙煎機を使用してるんですが、彼もそれを真似したいといって家で作ったらしいですよ』
「い、家で作れるんですか?」
驚きの連続
_____『理系みたいで、時計なんかも安いのを買ってカスタマイズするそうなんです。凄いですよね、手先が器用なようで、』
ふわと微笑むマスターの笑顔
「粋な高校生もいるんですね!」などと感嘆していたら、その話のすぐ後に制服姿の男子高校生が入店し、珈琲を注文。
思わず目を見張り、珈琲を堪能してそそくさと出ていくのをまじまじと見送ると、
_____『話していたら、ですね(笑)』
「びっくりしました…!」
______『先程の話の方は今の方ではないんですけど……来ましたね、高校生、』
なんともツウな高校生がいるものだなぁと感激してしまう。草枕さんはSNSなどもやられていないため、どのようにして草枕さんに辿り着いたのか、聞いてみたい気持ちが湧いてくる。
(いつか聞けるだろうか…?)
「お店を始められたきっかけはどのようなことだったんですか?」
______『これも大した話ではないと言いますか…あまり積極的な理由ではなかったんです。
わたくし自身、あまり社交的といいますか、外向的でないですし、ですが好きなことに囲まれていたいなぁと思いましてね。
珈琲はある意味でいつまでも絶対の答えがなくて、続けられるものだった、というのがきっかけといえばそうなるのでしょうか』
言葉少なにゆったり語るマスターのそばで、奥様が相槌を打つ。
その光景が素敵だなぁと見つめてしまう。
「創業から大切になさっていることはありますか?」
粋な高校生が立ち寄るような喫茶店。
一体マスターはどのようにこのお店を作り上げてきたのだろうか?
______『大切に……うーん、……』
この質問にはマスターは暫く沈黙してしまった。
マスターの中で様々なことが逡巡しているように見えて、恐らく確固たるモットーや理念を掲げてというよりも、
自らのうちに秘めたる『何か』を大切になさっているのだと感じ取れた
その『何か』を探るべく、マスターの言葉を待つ。
「ここは変わっていないとか、変えていない、或いは変えた、などあれば……」
______『うーん……少しずつ譲っている部分があると思うんです』
そこでゆっくりマスターの口から言葉が紡がれる。
【譲っている】
その言葉を補足するように
______『これをやりたいと思っても、どうしても物理的、資金的にできないこともあって……
それが譲っている……つまり、味とやりたいことと、可能な限りのことをしている、と言いますか……』
お金をかけようと思えばかけられる機材や設備も、できることは限られている。
その中で
______『やりたいことはやる。やりたくないことはやらない、
そんな感じでしょうか……』
言葉は柔らかいが、ボワッと心の中に炎が滾るような凛とした姿勢が私にぐわりと突き刺さる。
【やりたくないことはやらない】
簡単そうで、最も難しいことだ。
それがこのお店のサービスや空間の根幹を成している、そう感じる。
______『あとはそうですね、素材に最善な調理をしてあるものが好きで。たとえば蕎麦とか豆腐とか、珈琲もですけれど、プロセスが重なっていくのが良くてですね、
その中に関わるというのがいいのかもしれません。』
珈琲も淹れ方だけでなく、焙煎、豆の選出、最果てには農園、農家まで多くのプロセスを積まなければ珈琲として形にならない。
農家まで行こうと思えば行きたい気持ちもあるが、それも無理なことですから、とはにかむ。
できることをしている、と語ったことはここに行き着いているのだと感じた。
珈琲は白が美しい
マスターの姿で1番印象的であったのが、淹れた珈琲をカップに注ぎ、ソーサーの上に乗っける瞬間の手つき。
我が子を送るかのような視線。
ソーサーとカップの正面にズレがないか、微調整を加えてお盆に乗せる。
スプーンの位置、カップとソーサーに対する絶対的な完全性。
"先程マスターの口から語られた言葉以上に、この仕草と目線にこそ、草枕の魅力が凝縮されている___!"
そう感じて、注文が来る度に、カップに注ぎ、ソーサーと合わせ、我が子の背をそっと押すように両手を最後まで添える1連を目に焼きつける。
______『お待たせしました、』
丁寧にお出ししてくださった珈琲は『本日の珈琲』(700円)
この日はエチオピア。
程よい酸味と苦味はネルドリップで丁寧に淹れられた賜物。
カップを丁寧に扱うその様子がどうしても気になり、「カップのこだわりはあるんですか?」とお伺いすると
______『コーヒーは白が美しいと言いますから、大倉陶園さんのものを使っています。青の染付けも綺麗ですし、割合丈夫でいいんですよ』
本当は私自身は陶芸の方に興味があるんですけれども、と苦笑しながら、好きな陶芸作家さんの話などもしてくださった。
______『カウンターの照明の鉢は河井寛次郎のものなんです。元々灰皿だったんですが、こうしていると皆さん気づかれないんです(笑)』
戸田焼きや小林佐和子さんという東京藝大の工芸科を出た作家さんの展示を見に行くという。
______『身の回りにある小さなものから、センスや感性を磨きたいと思っているんです。』
なにか大きなことをして、というのではなく、と語るのもマスターの静かな熱情の現れ。
憧れの
_____『私の憧れた珈琲店がありまして、』
そう言って1冊の本を見せてくださった。
_____『大坊珈琲店というところなんですが、大坊勝次さんという方がやられていた喫茶店でして、美しいでしょう?』
大坊珈琲店は、1975年に南青山の青山通り沿いのビルの2階にオープン。
岩手県出身の大坊勝次氏は、18歳で上京後、珈琲店で基礎を学んだあとに夫婦で独立開業。
手廻し焙煎器による自家焙煎、ネルドリップで時間をかけてゆっくり淹れる珈琲が多くのファンを魅了した名店。
大坊勝次さんがこだわって出版したサイン入りの本を大切に抱えるマスターのいじらしさ。
_____『こんな風に出来たらいいんですけれど、なにせお金もかかりますし、(笑)』
今はこれで精一杯だと言いながら、
それでも大坊珈琲店の美学もまた草枕には詰まっている。
_____『あそこに美味しい珈琲屋さんがあったね、って言われるくらいでいいんです、
私の名前を売りたいわけではないので……
客商売をしていながら、営業したくないといいますか、恥ずかしさもあるんですが……(笑)』
誰かの記憶に、少しでも残っていたら嬉しい。
その謙虚な気持ちと姿勢が、草枕に来るお客さんの心を掴んで離さないのだと思う。
2013年に閉店した大坊珈琲店も、こうして誰かの心に残る喫茶店となっている。
きっとこれから先、草枕も誰かの___少なくとも私と、ふらりと現れた高校生には___記憶に残る、素敵な喫茶店になる。
たとえ実在しない存在になってしまったとしても。
こうして一人ひとりの思い出の中に、栞を挟むように、そっと差し込まれる珈琲店。
草枕でしか味わえない、独特の和洋折衷の品のある空間に、皆さんも1度足を運んで見てほしい。
恥ずかしげに微笑むマスターの笑顔がまた見たい。
店舗情報: 草枕
アクセス▶︎ 内幸町駅、虎ノ門駅から徒歩5分
営業時間▶︎ 10:00-18:00
https://www.instagram.com/junkissa_and_i/
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