夏目零仙

夏目漱石に憧れた小学生の頃から、庄司薫、高橋和巳、村上春樹、塩野七生と読書遍歴を経て最…

夏目零仙

夏目漱石に憧れた小学生の頃から、庄司薫、高橋和巳、村上春樹、塩野七生と読書遍歴を経て最期に辿り着いたのが辻邦生です。「のちの思いに」の私家版を書くのが夢です。

最近の記事

大陸横断を夢見た日

 写真は今も手元に残る、約半世紀前にロサンゼルス郊外の小さな旅行社が募集していたアメリカ大陸横断旅行のチラシだ。裏面には募集要項が記載されている。大学生協で学生向けの海外旅行を紹介していて、大学4回生の夏休みに迷った末にこのツアーに参加することにした。  3回生の夏休みに2ヵ月かけて英国や西ヨーロッパの国々を旅行したが、とにかく一度日本を脱出したい、という思いで一杯だった。4回生になり学生時代最後の掛け替えのない夏休みを如何に過ごすか。時間が自由になる青春の真っ只中でしか体験

    • なのにあなたは京都へゆくの

       2023年も押し迫った12月16日に最後となる大学ゼミの同窓会を京都大原の野むら山荘で開催した。前回は2019年秋に開催したが、先生が開催日の数日前に体調を崩され、初めて欠席された。その後はコロナの感染が拡がり先生も92歳とご高齢なので、この会もこのまま流れ解散にしてもやむを得ないとの考えも確かにあった。しかし1976年秋に下賀茂神社の糺の森で初めて開催して以来、半世紀近く幹事を務めて来た私としては、先生をお迎えせず曖昧な形で会を終えるのは受け入れ難いことだった。今回は事務

      • ある学生の父から届いた手紙

         京都、岡崎公園は晩秋を迎えて、疎水べりの桜の紅葉がライトアップされて美しい頃だった。明るい岡崎公園を通り過ぎて、少し歩いたやや薄暗い通りの角にS君が住むアパートがあった。友人と3人で一部屋借りてシェアして暮らしていると聞いていた。  「銀行でリクルーターを務めている者ですがS君はご在宅でしょうか。」  「Sは永平寺に座禅を組みに行くと言って出掛けておりません。」 部屋の奥で物音がして人の気配がする。そのまま相手の言う事を信じていいのだろうか。部屋に踏み込むことも頭を過ったが

        • "Weak Ties"を大切に

           「人間到る処青山あり」という故事成語があるが、私の場合は語呂合わせで「人間到る処仲間あり」と常々思っている。45歳の時に勤務していた銀行が破綻して国有化されるなどピンチが続き、「金」運に恵まれたと思ったことなど一度もないが、「人」運に関しては強運の持ち主だと思っている。大勢の友人や知人に恵まれ、厳しい状況にある時も気遣ってもらってここまでやって来れたことには、本当に有難いことだと感謝している。  しかし大した能力もない私のような凡人が、どうしてこんなに素晴らしい友人、知人と

        大陸横断を夢見た日

          ポンヌフ

           自らの語学音痴ぶりを白状するようで恥ずかしいが、思わぬところでふとあることに気付き、「なるほど!」と独り言ちて、少しほっこりした気分になった思い出話をひとつご披露しよう。日々の暮らしで起こるこうしたささやかな出来事が、意外とその日一日を幸せな気分にしてくれるものですね。  あれは今から3年前の師走を迎えた頃だった。京橋にあったブリヂストン美術館がブリヂストン本社と共に近くに引っ越して、新装なったARTIZON MUSEUMを初めて訪ねた時のことだ。前年夏に大学卒業以来、4

          かっこう料理店

          しずかな湖畔の森のかげから もう起きちゃいかがと かっこうが鳴く カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ カッコウ  道案内をしてくれる息子からお店の名前を聞いた時、小学校の音楽の授業で輪唱した歌が思わず頭に浮かんだ。湖畔にあるわけではないが、帯広市郊外のかっこうがいかにも棲んでいるかのような森の中に目的の「かっこう料理店」はあった。北海道河西郡更別村字勢雄317-8。店の住所だけ見ると人を寄せ付けない僻地にあると思われるかもしれないが、帯広市中心街から車で30分程の距離に

          かっこう料理店

          オロンコ岩から

           青春は旅そのもののように思う。そして青春がいつか終わりを迎えるように、青春の旅も終わりを迎える日がやって来る。私は流氷の街ウトロで聞いた哀しい物語と共に青春の旅を終えようとしていた。  もう半世紀近くも昔のことになる。三月初めに京都に春の訪れを告げる名残雪が降り、吉田山周辺の北白川や銀閣寺道などでは、卒業を控えた学生達が軽トラックを借りてそわそわと引っ越し準備を始めていた。  私は「これで青春ともおさらばか」と思うと、自分が宝物のように大切にして来た青春の喪失感にどうにも

          オロンコ岩から

          How terribly strange to be seventy

           昭和20年代後半に生まれた私達の世代は、映画「三丁目の夕陽」で描かれたように年を追うごとに新たに開発された家電製品が家庭に入って来て、戦後の貧しさを引き摺りながらも、どこか希望に満ちた時代だった。  我が家で音楽にまつわる家電製品としてまず思い浮かぶのは、テープレコーダーだ。父がソニーの小さなテープレコーダーを買って来た日のことは、今でもよく覚えている。二歳年上の姉が音楽好きで父にせがんで買ってもらった。ガチャッとスイッチをひねるとテープを巻いたリールが厳かに回り出し、試聴

          How terribly strange to be seventy

          十勝六花と農民画家

           「六花の森」を訪れたのは今から9年前、ちょうど二度目の転職が決まり、新たな職場に出社するまで待機している時だった。たまたま次男がレンタカーの運転を買って出てくれ、札幌を出発して、日高山脈を挟んで隣り合う十勝南部と日高東部を時計回りに巡る旅の途中に立ち寄った。  帯広から南へ25km程走った中札内村に「六花の森」はある。広大な大地に野の草花が咲き、泉から湧き出たような美しい小川が流れている。小高い丘には数点の大きな彫刻が置かれていて景観にアクセントを与えていた。園内に点在する

          十勝六花と農民画家

          歩く歓びを知る 

           足腰を鍛えるためスマホの歩数計で6千歩=5km歩くことを日課にしている。毎日歩けば塵も積もればである。一昨年は2073千歩=1661km、去年は2333千歩=1873km、2年累計で4407千歩=3534kmを既に踏破したことになるから驚きだ。  日本全土を測量して日本地図を作製した伊能忠敬は55歳から72歳まで17年かけ、地球の円周40075kmを超える距離を歩いたという。仮に地球一周歩いたとすると、この2年間で歩いた距離を差し引き2年間の平均1767kmで割ると、もう2

          歩く歓びを知る 

          タイパの時代に

           近頃、若者の間では早送りして、曲ならサビの部分、映画ならシナリオだけ確認して了とするのが流行っているようだ。これを称してコスパならぬタイパ(タイムパフォーマンス)と呼ぶらしい。こんなことをして何が楽しいのか、昭和レトロ世代の私には理解できないでいる。果たして時間がもたらしてくれる豊かさや有難さは、何かを知る、何かを得るための効率を求めて生まれるものだろうか。  数年前のことになる。常勤で働くことを終えて、送別会など一連の行事も一段落した師走のある日、ふと思い立って上野の森

          タイパの時代に

          朗読劇に耳を澄ませて

           目白通り沿いの街路樹が美しく紅葉して、学習院大学や日本女子大学など名門大学が並ぶ文教地区に相応しい彩りを添えている。コロナ禍でオンライン開催となっていた学習院大学史料館主催の朗読劇が数年振りに対面で開催されるとあって、今日の日を指折り数えて参加した。しかも今回朗読されるのが辻邦生の作品でも私が最も好きな「春の戴冠」とあっては、辻邦生ファンを自任する私には堪らないイベントとなった。  仏文学者で作家の辻邦生が学習院大学に初めて非常勤講師として勤めたのは31歳の時。以後35年

          朗読劇に耳を澄ませて

          「生きること」を選ぶ

           季節のいい時期に北軽井沢の山小屋で過ごすようになって久しいが、車が運転できない私はいつも志木の自宅から大宮駅経由で北陸新幹線を利用して軽井沢駅まで向かう。「はくたか」なら軽井沢までノンストップで40分程で到着する。  これまで長い間、車中の楽しみとして来たのは、座席に備え付けられているJR東日本の広報誌「トランヴェール」に掲載されていた、月替わりの沢木耕太郎のエッセイ「旅のつばくろ」を読むことだった。あっという間に読み終えるのだが、読み終えた内容をしばらく反芻していると40

          「生きること」を選ぶ

          漱石山房に思う

           新宿区早稲田南町にある、漱石終焉の地に建つ漱石山房記念館。平成29年に漱石生誕150年を記念して建てられた。記念館の紹介ビデオに漱石没後、高弟の小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平の3人が漱石を偲んで語らうシーンがある。  「漱石先生と同時代に生きた我々は幸せだったな」  「そればかりか、先生に親しく教えを乞い、叱られたり、甘えたり」  「先生から師恩を受けた我々は果報者だったな」  漱石ファンの多くは漱石の遺した数々の名作に惹かれるのはもちろん、若い頃の子規との交流や漱石を慕っ

          漱石山房に思う

          天草のアトリエの窓辺から

           古希を迎える年齢ともなると、若い頃から交流のある大勢の友人知人がまるで小説や物語の登場人物のように一人一人思い浮かんで来る。情熱的な切れのいい短編小説に颯爽と登場する人もいれば、胸躍る山場があるわけではないが、淡々と綴られた長編小説に登場する名脇役のように、読み終えて爽やかな涼風を感じさせる人もいる。  木版画家、大西靖子さんとの交流はまさに後者で、ケンブリッジのサマースクールでの出会いから半世紀近く、泉から清冽な水がこんこんと湧き出ずるようにいつも私の心を癒してくれる。

          天草のアトリエの窓辺から

          小谷班で学んだこと

           昭和49年、大学二回生の20歳の夏に北海道浜中町の佐藤牧場での援農アルバイトを終えた後、かけがえのない青春の時をどう過ごすか、真剣に考えるようになった。五木寛之の「青春の門」などが広く読まれた時代で、横浜からナホトカまで船で渡り、シベリア鉄道で欧州を目指す旅に憧れる若者が増え始めた時期だ。「何でも見てやろう!」援農アルバイトの次は日本脱出が目標になった。しかし海外に行くにしても先立つものがない。家庭教師やステーキハウスのウェイター、郵便配達など掛け持ちでやってみたが、どうも

          小谷班で学んだこと