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朗読劇に耳を澄ませて

 目白通り沿いの街路樹が美しく紅葉して、学習院大学や日本女子大学など名門大学が並ぶ文教地区に相応しい彩りを添えている。コロナ禍でオンライン開催となっていた学習院大学史料館主催の朗読劇が数年振りに対面で開催されるとあって、今日の日を指折り数えて参加した。しかも今回朗読されるのが辻邦生の作品でも私が最も好きな「春の戴冠」とあっては、辻邦生ファンを自任する私には堪らないイベントとなった。

 仏文学者で作家の辻邦生が学習院大学に初めて非常勤講師として勤めたのは31歳の時。以後35年間、同大学で教鞭を執った。2万点を超える辻邦生関係資料も史料館に寄託されている。史料館では辻邦生没後、その事績を称えて辻邦生に関する展覧会や講演会などを随時開催している。私は2004年に開催された辻邦生展記念講演会で、幸いにも生前の辻佐保子夫人の講演を聞く機会に恵まれた。
 辻邦生の父親はジャーナリストで薩摩琵琶の奏者でもあった。音楽家の家庭で育ったのが影響してか、辻邦生は想像力の力を信じ、想像力を掻き立てる言葉と言葉が紡ぐ響きを大切にした。朗読劇の試みは辻邦生のそうした志向に沿ったもので、「声でつむぐ辻文学」として2016年より演者を希望する高校生や大学生を全国から募って開催されている。

 作品を解説した学習院大学の中条教授の話では、「春の戴冠」は原稿用紙にして4千枚を超える長編小説で、今回は前編として前半2千枚を対象に専門家の手を借りて脚本と演出を仕上げたとのことであった。
 小説ではルネッサンス期のフィオレンツァを舞台に数多くの人物が登場するが、朗読劇では次の3人の登場人物に焦点を絞り、物語が進行する。 
「フェデリゴ」古典語教師。幼馴染の画家サンドロの生涯を回想する語り手で、サンドロの最も良き理解者。
「サンドロ・ボッティチェルリ」画業の中に人間の生の根源を追及する。
「シモネッタ」フィオレンツァの春の象徴。騎馬祭で主席貴婦人を務め、勝者ジュリアーノにスミレの花冠を授ける。

 前編の冒頭は語り手のフェデリゴが幼馴染のサンドロや花の都と謳われたフィオレンツァを回想するシーンから始まる。画家サンドロは、いかにしたらものの永遠の姿をとどめることができるかー神的なものを描き出すことに思い悩む。騎馬祭の馬上槍試合でジュリア―ノが勝利して、互いに愛し合う主席貴婦人のシモネッタが勝者ジュリアーノにスミレの花冠を授けるところで一気にクライマックスを迎える。しかし幸せな時は長くは続かず事態は暗転する。サンドロは病状が悪化する花の化身、シモネッタの美しさをこの世に永遠にとどめたいと渾身の力をふるう。シモネッタが早世しジュリアーノも陰謀で暗殺されて、花の都と謳われ栄華を極めたフィオレンツァも徐々に暗い世相に覆われて行くこととなる。

 朗読劇を会場で聞くのは初めてだったが、演劇と違って舞台装置も登場人物の動きや特徴づける衣装もない。静かな空間で聴覚だけを頼りに、耳を澄ませ想像力を膨らませて、マイクに向かう若い人の声を聞く。普段老人同士の会話に馴染んでいると、老人特有のくぐもった低い声に耳が慣れてしまっているためか、若い人の新鮮な声の響きに驚いてしまう。静かに耳を澄ませて物語を聞いていると、不思議なことに15世紀半ばのフィオレンツァの街角にまるで自分がいるように思えてくる。騎馬祭ではシモネッタ役の女子学生の甘美な声が、何と瑞々しく会場に響いたことか。

 朗読劇を終えて、朗読をした6名の学生が司会者に促されて、舞台挨拶に立った。市井の人々の声を伝える役回りを演じた、大学で声楽を学んでいる男子学生は、今回のテーマでもある音楽・ことば・物語が共鳴する素晴らしさを説いた。サンドロ役の女子学生は「ぜひ一度フィレンツェを訪ねて現地で本物のボッティチェリの絵画を見たい」と。シモネッタ役の女子学生は「私の声が本物のシモネッタの声だと思って頂けたらうれしいです」と初々しく述べた。  
 フェデリゴ役を演じた女子学生を司会者が紹介する際、ちょっとしたドラマがあった。司会者はおそらく史料館の職員で朗読劇に参加する学生を親身になって見守って来た方なのだろう。「彼女は高校生の時からこの朗読劇に参加してくれています。来春、卒業されるので、今回が最後の朗読劇になります」と言いかけた途端、感極まって言葉に詰まってしまった。様々な思いが脳裏を過ぎったのだろう。青春から社会に巣立つキーワード「卒業」の一言に300名を超す観客がしばし胸を熱くした。
 
 舞台挨拶も終わって、演者6名が会場出口に一列に並んで、観客一人一人に感謝の気持ちを述べて見送っている。観客は演者を労い、思い思いの感想を告げているのだろう。「春の戴冠」は青春小説でもある。青春時代に「春の戴冠」を読んだ世代の観客がまさに青春の真っ只中にいる学生の若々しい声で物語を聞く。素晴らしい出会いではないか。演者と観客の会話の花が咲き、辻邦生のオールドファンと学生達の世代を超えた格好の交流の場ともなった。

 辻邦生が学習院大学に遺した事績は大きく、没後も清冽な水が湧く泉のような存在である。永遠のアルカディアー辻邦生の真骨頂であろう。 

※写真は2008年12月28日、損保ジャパン東郷青児美術館で開催された丸紅創業150周年記念コレクション展で展示された、日本にある唯一のサンドロ・ボッティチェリの作品「美しきシモネッタ」の絵葉書を写真に撮ったものです。ちょうど「春の戴冠」を読み終えた頃、新聞でシモネッタの肖像画が展示されていることを知り、慌てて最終日に駆けつけ幸運にも拝見できた懐かしい思い出です!






 


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