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なのにあなたは京都へゆくの

 2023年も押し迫った12月16日に最後となる大学ゼミの同窓会を京都大原の野むら山荘で開催した。前回は2019年秋に開催したが、先生が開催日の数日前に体調を崩され、初めて欠席された。その後はコロナの感染が拡がり先生も92歳とご高齢なので、この会もこのまま流れ解散にしてもやむを得ないとの考えも確かにあった。しかし1976年秋に下賀茂神社の糺の森で初めて開催して以来、半世紀近く幹事を務めて来た私としては、先生をお迎えせず曖昧な形で会を終えるのは受け入れ難いことだった。今回は事務局を受け持つ同期のS君が頑張ってくれて、ご家族とご入居なさっているケアハウスの外出許可を取り付けて開催に漕ぎ着けることができた。
 まさにS君の逆転の発想で、外出が難しいようならお住いの近くで先生にご負担をおかけせずに開催できればと先生が入居している大原のケアハウスのすぐ近くにある山荘を探し当てて開催することになった。外出許可の条件は「会の冒頭20分間の挨拶終了後にすぐに退席すること」であったが、先生は思いの他お元気で、ご挨拶はもちろん、年次毎の集合写真にも最後まで笑顔で加わって頂いた。約束の20分を大幅に超過してしまったが、卒業生一人一人の顔をご覧になっては懐かしそうに微笑んでおられるご様子を拝見して、ご無理をお願いしてでも開催して良かったとつくづく思った。先生のご人徳もあり、日本庭園に囲まれた野むら山荘の広い座敷に40名を超す卒業生が集まり、盛会裏にお開きとなった。

 今回は折角なので、同窓会前日に京都まで行って宝ヶ池のホテルに泊まることにした。日中フリーになったので市バスで大原のバス停まで行き、遠く比叡山を眺めながら三千院や寂光院など訪ねて冬枯れの大原の里を歩いた。学生時代に苔むした庭の緑が美しい季節に一度だけ訪ねたことがあった。冬枯れの季節は初めだったが、幸い比叡おろしに吹かれることもなく温かな陽だまりの中を軽やかに散策を楽しんだ。
 ふとその時だ。高校生の時に京都での学生生活に憧れ、一年浪人して京大に入学し、北白川で下宿生活をして暮らし、就職後も京都支店に配属され、東京本店に異動後も同窓会が開かれるたび京都を訪れた、そんな長い長い京都への心の旅が明日の同窓会で終わってしまうような寂しさに見舞われた。

 今思い返せば京都への心の旅の始まりはあの曲だった。「なのにあなたは京都へゆくの」ー1971年9月にチェリッシュのデビュー曲としてリリースされて大ヒットした。私はその年、受験勉強真っ盛りの高校三年生。深夜放送を聞いているとどのチャンネルを捻ってもこの曲が流れて来た。剣道部の合宿などで京大に進んだ先輩から京都での下宿生活の楽しさを散々聞かされていた。寒い冬など吉田山の麓に出る屋台でおでんを鍋に入れてもらって下宿に持ち帰り、同じ下宿の友人と熱燗を呷りながら議論する話など聞くと何が何でも京都へ行きたくなった。哀愁を込めたこの曲が私を京都への心の旅に誘ってくれた。
 当時、大阪の府立高校は今と違って5学区に分かれ、北野高校や私の母校である天王寺高校などが毎年の東大京大の合格者数を競い合っていた。学区内の各中学校で成績上位の生徒が各学区トップの高校を目指して受験して来る。入学したのはいいが初めて自分より優秀な生徒と出会って、大半の生徒が鼻柱をへし折られて劣等感と屈辱に苛まれることになる。天王寺高校では当時、100番以内なら現役で東大か京大に合格できると言われていた。
 私のように受験校で低空飛行を続ける劣等生には、部活を言い訳にするか授業中にわざと珍回答をして笑いを取るかしか身の置き所がなかった。中学校で剣道部の主将だったので、入学後すぐに剣道部に入部した。師範の先生や先輩後輩にも恵まれ楽しい部活だった。高校三年の時、ライバル校の北野高校との定期戦に主将として勝ったのがささやかな勲章だ。 
 高校二年生の夏に三年生の先輩から主将を引き継いだが、実はある先輩が思わぬことをぼそっと言った。「剣道部の歴代主将はこれまで全員が東大か京大に進学しているんだ」どういう意味で言われているのか、すぐにはピンと来なかったが、君で途切れることがないように!との警告とも聞こえた。どうしようか、今の成績では到底無理だ。現実感がないまま京大や京都での学生生活を思い浮かべたのは、その時が初めてだった。 
 
 高校二年生の時は悪ガキに恵まれ、夜な夜な心斎橋筋のパチンコ店を徘徊した。危うく補導されかかったことも度々あった。ちょうど心斎橋筋で実家が和装小物のお店を経営している同級生がいて、よく彼の家に泊まり込んでは徹夜でナポレオンに興じた。彼とは加藤諦三の「間違いだらけの青春」を読んで感想を伝えあったり、人生いかに生きるべきか、硬派の議論もした。
 高校三年生ともなると、生徒それぞれに学校や授業への向き合い方がはっきり分かれて来る。大学合格までの通過儀礼として高校での生活を割り切り受験勉強に邁進する生徒がいれば、受験勉強はもちろん大事だけれど思春期に甘酸っぱい恋もしてみたいと庄司薫風に迷える生徒もいる。現役合格を端から諦めていた私は心ならずも後者の一人だった。
 天王寺高校では毎年秋の体育祭で、三年生が恒例の陸上ボートと呼ばれる仮装行列を行う。私は思い立ってリボンの騎士を演じた。女装のお化粧はどういうわけかクラスのマドンナが一人手伝ってくれた。恥ずかしくて仕方なく赤面してしまった。現役合格を目指して懸命に勉強している生徒からすれば、受験が迫るこの時期に能天気にリボンの騎士を演じる私はおそらく浮いた存在だっただろう。

 国立一期校の試験開始日はその頃毎年三月三日のおひな祭りの日だった。誰かが黒板の片隅に「おひな祭りまであと○日」と大書してカウントダウンを始めた。国立一期校の試験は国語。数学、英語の主要科目に加えて、文系と理系で社会と理科からそれぞれ選択科目を選ぶ。予備校ではないので年が明けても受験科目とは関係なく授業は時間割通りに実施された。しかし選択科目以外の倫理社会などの授業では欠席が目立ち始める。日に日に出席人数が減り、担当の先生に申し訳ないくらいだった。私は先生に申し訳ないと最後まで時間割通り出席を押し通した。授業を欠席する生徒に理があるようにも思ったが、卒業を前にしてその時の教室の寒々とした光景は今も忘れられないでいる。
 おひな祭りが終わり、三月下旬に各大学で合格発表があった。もちろん私の名前はどこにもなかった。大学の入学式を控えた春休みに自然とクラスメイトと集まる機会があった。私も悪びれず参加した。ほとんどの人が希望校に合格して笑顔で集まった。私は全く知らなかったのだが、クラスのマドンナはスチュワーデスになる道を選んだと人づてに聞いた。
 「なのにあなたは京都へゆくの」は私をおいて京都へ行ってしまった恋人を想って歌う失恋ソングだ。歌詞とは意味合いは異なるが、マドンナの華やかな転進を知る一方で、京都へ憧れ、当てどもない浪人生活に入る私。
早春の光の中で「なのにあなたは京都へゆくの 京都の町はそれほどいいの この私の愛よりも」のリフレインがいつまでも心に響いた。

 (写真は「冬枯れの京都・大原、遠くに比叡山を望む」2023.12.15 撮影)

 

 

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