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「生きること」を選ぶ

 季節のいい時期に北軽井沢の山小屋で過ごすようになって久しいが、車が運転できない私はいつも志木の自宅から大宮駅経由で北陸新幹線を利用して軽井沢駅まで向かう。「はくたか」なら軽井沢までノンストップで40分程で到着する。
 これまで長い間、車中の楽しみとして来たのは、座席に備え付けられているJR東日本の広報誌「トランヴェール」に掲載されていた、月替わりの沢木耕太郎のエッセイ「旅のつばくろ」を読むことだった。あっという間に読み終えるのだが、読み終えた内容をしばらく反芻していると40分という乗車時間がちょうどいい塩梅に心を満たしてくれる。

 沢木耕太郎については「テロルの決算」や「一瞬の夏」などの作品を読んだことがあるだけで、これまでエッセイを読む機会はほとんどなかった。車中で歯切れのいい硬質な文章で綴られたエッセイを読んでいると、どこか涼風に吹かれたように清々しい気分になる。沢木耕太郎の常人には果たし得ない「生きること」を選ぶ生き方が、読者に「かくありたい」と憧れを抱かせ、心に響くからだろう。
 他愛ないエッセイの中にも沢木耕太郎が何に拘って生きて来たのか、キラリと片鱗を見せることがある。記憶に残るエッセイを一つ紹介しよう。
 学生時代、夏休みに都心のデパートで商品の配送のアルバイトをしていた時のこと。同じアルバイトで親しくなった会社重役の息子から軽井沢の別荘に誘われ、しばし逡巡した後、理由を付けて断ったエピソードが紹介されている。ひと夏の思い出として重役家族と別荘ライフを満喫して来ればいいものを、重役家族と繋がりを持つことで一瞬たりとも何かを期待した自分が卑屈に思えたのか、自らの生き方に反するとして断っている。 

 沢木耕太郎は「岐路」と題する小文で、書き手としてこれまでの自らの歩みを振り返って次のように書いている。少々長くなるがそのまま引用する。  
 もし、私が「危機の宰相※」を優先していたら、いまの私と違う書き手になっていたことだろう。さまざまなかたちで歴史を物語るという方向に行ったかもしれない。あるいは、仕事を仕事として書くという、まさにプロフェッショナルな書き手になっていたかもしれない。しかし、私は「書くこと」の前にまず「生きること」があるという書き手の道を選んだ。間違いなく「危機の宰相」は岐路だった。「一瞬の夏※」の方に進むか、「危機の宰相」の側に向かうか。私は選ぶという意識もないままに「一瞬の夏」の方向を選んでいたのだ。もちろん、だからといってそのことに悔いがあるわけではない。

 沢木耕太郎がここで言う「生きること」を選ぶとはどのようなことを指すのだろうか。沢木耕太郎のエッセイには他の作品にも同じ趣旨の表現が用いられている箇所がある。選択を迫られた時に自らを律する基準、自らの行動規範として、迷うことなく「生きること」を選んで来たのだろう。
 沢木耕太郎がノンフィクションで取り上げた人物像を振り返ると、不当な世評を受ける人物に対する「義侠心」が根底にあり、これが沢木耕太郎を執筆に突き動かす原動力になっているのが見て取れる。沢木耕太郎が数多くの作品で繰り返し述べていることを私なりに解釈すると、自らに誠実に自ら最も大切に思う価値観や信念に基づき行動することーそれこそ「生きること」を選ぶことなのだろう。

 翻って私自身はこれまで「生きること」を選んで来たのだろうか。「仕事を仕事として」こなしていただけなのだろうか。ふと考えてしまう。会社に就職して、仕事を仕事として割り切ってこなしていたからこそ、心に負担を負うことなく厳しい決断も下せて来たのだろうか。会社では仕事を仕事として切り分けて、私生活で「生きること」を全うしようとして来たのだろうか。
 会社員として長く働いていると、仕事を仕事としてこなすだけでは済まされない選択を迫られる時がある。難しい局面に遭遇し、自らの出処進退を求められる時に「生きること」が顔を覗かせるのだ。たとえば、会社の方針に抗ってでも大切な取引先を守らねばならない時、部下の失敗の責任を自らの責任として引き取らねばならない時など。「仕事を仕事として」と「生きること」が交差する時にその人の本質が否応もなく露になるのだろう。

 沢木耕太郎は大学卒業後、就職した会社に一日だけ出社して辞めたという。会社に就職することが「生きること」を捨てたとまで言うのは言い過ぎだが、大きな会社組織で自らの意見を通すには、ある種の妥協や忖度などから避けては通れまい。そもそも仕事に「生きること」を持ち込むのは無理があるのかもしれない。「生きること」が自らに誠実に自ら最も大切に思う価値観や信念に基づき行動することだとすれば、自信が揺らぐ人も中にはいるだろう。
 「生きること」を選ぶー沢木耕太郎のこの言葉に出会った時、古希を前にして少なくとも今後、人生の岐路にあっては堂々と「生きること」を選ぶ自分でありたいと願っている。

※「危機の宰相」は、大蔵官僚としては不遇な道を辿った、池田勇人、田村敏雄、下村治の三人の「所得倍増」政策実現までのノンフィクション。文藝春秋に初稿が掲載された。
※「一瞬の夏」は混血のプロボクサー、カシアス・内藤の復活に懸けるノンフィクション。沢木耕太郎自ら、挫折したカシアス・内藤の復活を期して直接介在する形でストーリーは進行する。

※  写真は数年前に訪ねた北海道札幌市郊外、羊ケ丘にある白樺の林です。




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