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ポンヌフ

 自らの語学音痴ぶりを白状するようで恥ずかしいが、思わぬところでふとあることに気付き、「なるほど!」と独り言ちて、少しほっこりした気分になった思い出話をひとつご披露しよう。日々の暮らしで起こるこうしたささやかな出来事が、意外とその日一日を幸せな気分にしてくれるものですね。

 あれは今から3年前の師走を迎えた頃だった。京橋にあったブリヂストン美術館がブリヂストン本社と共に近くに引っ越して、新装なったARTIZON MUSEUMを初めて訪ねた時のことだ。前年夏に大学卒業以来、40年余り続けた常勤の仕事にようやく終止符を打ち、ちょうど一息ついた時期だった。
 その日の企画展は「琳派と印象派」。大胆な組み合わせを考えたものである。琳派は17世紀初めの俵屋宗達、18世紀初めの尾形光琳らによって日本の都であった京都の町人文化として生まれ、19世紀初めに酒井抱一や鈴木其一らによって将軍のお膝元の江戸に引き継がれた。一方の印象派は19世紀後半のフランス、パリを中心に、マネやモネ、ドガやルノアール、セザンヌらによって、日常的な経験を通して受ける印象や市民生活の喜びを率直に表現する、新しく起こったヨーロッパの近代美術だった。東西の美術を「都市文化」というキーワードで再考する意欲的な企画展だった。

 常勤の仕事を卒業して最初に一番有難いと思ったことは、混み合う土日を避けてのんびり平日午後に美術館や庭園など訪ねられることだ。絵画を見ることが好きで美術館にはまめに足を運んで来たが、これまでは混み合う休日にしか行けないので、人気のある作品の前では押せ押せで後頭部を眺めるしかなく、残念な思いがしたものだ。好きな作品の前で一対一で向き合って絵画と対話するような機会に恵まれることはまずなかった。
 幸いにも新しい美術館では事前予約制を導入していた。人気の企画展なので平日予約制といっても多少混み合っているものと覚悟して行ったが、展示室にいる人は比較的少なく、一点、一点、ゆっくり解説を読みながら絵画を堪能することができた。

 案内に従って琳派の展示室から順々に巡り、印象派の展示室に入って、作品の解説を読みつつある作品を眺めていて、しばらくして冒頭で紹介した「ある事」に気付いた。その作品は、印象派を代表する一人、カミーユ・ピサロが晩年の1902年に制作した「Le Pont-Neuf」だった。都市の街並みが絵画の新しいモチーフとして登場した頃で、ホテルの窓からセーヌ川に架かる橋を行き交う群衆など、勃興する市民生活の一端を繰り返し描いた。

 解説にある作品名「Le Pont-Neuf」には「ポンヌフ」とカタカナで日本語のルビが振られ、フランス語で「新しい橋」の意味であると記されていた。
自分の鈍い脳みそがおもむろに稼働し始めた。
 「ポンヌフ? 以前どこかで見た記憶がある。うーむ、どこだったけ!」
しばらく措いてから、思わず手を打ってニヤリとしてしまった。
 「そうだったのか。どこかで見たと思っていたが、新橋駅銀座口にあった立ち食いソバ店の看板に違いない!立ち食いソバ店にどうしてお洒落なカタカナの名前が付いているのか不思議に思っていたが、「新橋」と「ポンヌフ=新しい橋」と洒落て見せていたのか。こりゃ座布団一枚!」
 エスプリの効いた店名についぞ気付かないまま、サラリーマンの聖地、新橋駅まで毎日通勤する生活を終えてしまったが、お店もその後閉店してしまったようで残念である。

 ポンヌフは16世紀から17世紀にかけて建設されたもので、パリに現存する最古の橋とされる。「ポンヌフの恋人」など恋愛映画の舞台ともなっている。一方の新橋は汐留川に架かっていた東海道の橋、「新橋」に由来するという。昭和30年代に汐留川が埋め立てられて橋の機能が消失、橋の名残となる御影石製の親柱も昭和40年までに撤去されたという。
 同じ「新しい橋」を示す言葉でも、フランス語と日本語でどうしてこんなにもブランドイメージ?に差が付いたのだろう。片やセーヌ川に架かる恋人が落ち合う場所、片やサラリーマンの聖地で飲み会の待ち合わせ場所。語の響きの違い? はたまた、橋の歴史や立地の違い?
 これからは飲み会などで新橋で落ち合う時、「ポンヌフのめぐり逢い」と洒落て誘ってみようッと!

<写真は、カミーユ・ピサロ(1830~1903年)が描いたLe Pont-Neufの一部>

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