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十勝六花と農民画家

 「六花の森」を訪れたのは今から9年前、ちょうど二度目の転職が決まり、新たな職場に出社するまで待機している時だった。たまたま次男がレンタカーの運転を買って出てくれ、札幌を出発して、日高山脈を挟んで隣り合う十勝南部と日高東部を時計回りに巡る旅の途中に立ち寄った。
 帯広から南へ25km程走った中札内村に「六花の森」はある。広大な大地に野の草花が咲き、泉から湧き出たような美しい小川が流れている。小高い丘には数点の大きな彫刻が置かれていて景観にアクセントを与えていた。園内に点在するクロアチアの古民家を移築した記念館の一つで、農民画家ー坂本直行(ナオユキ)の存在を初めて知った。普段は親しみを込め「チョッコウ」さんと呼ばれていたようだ。
 その時は「日高の山並みや山野草を描いた十勝の画家」ほどの印象だったが、先頃放送されたNHKBSプレミアムで、直行の歩んだ険しい道のりを知り、直行の事績や帯広で菓子店を営む小田との出会いなど改めて振り返ってみたいと思った。直行は自ら語ることはなかったようだが、坂本龍馬に繋がる家系の人物であることもその時初めて知った。

 直行は1906年に釧路で材木商を営む坂本弥太郎と直意夫妻の次男として生まれた。弥太郎は北海道の山林原野から原木を切り出して、線路に敷く枕木の生産で財を成した。1914年の釧路大火を機に一家は札幌に転居する。直行は幼い頃から野の草花などスケッチするのが好きだった。13歳の時に初めて羊蹄山に登りご来光を仰ぐ。「雲上に日が昇る美しさに全生命を揺さぶられるような感動を与えられて、その後の人生を規定する体験となった」と後に述懐している。1924年に父の勧めで北海道帝国大学農学実科に進学する。在学中は山岳部に在籍して道内の名だたる山にほとんど登るほどに熱中した。野に咲く山野草を愛した直行は卒業後、札幌で温室園芸の会社を起業するが、頼りにしていた父の資金援助が世界恐慌の煽りで期待できなくなり頓挫する。

 失意の直行は十勝の広尾に転居して、友人の牧場で働きながら牧場経営を学んだ。1936年には自ら借金をして現地で25町歩の土地を手に入れ、牧場経営を始める。電気も水道もない未開の原野だった。火山灰の痩せた土地で、しかも海流の影響で濃霧に覆われて日が射さない日も多い。採れるのはジャガイモやソバくらいで、豆すら採れなかった。
 牛や豚など飼って生計を支えたが、極貧の生活で暮らし向きは一向に良くならない。しかし厳しい生活にあっても、北の大地を150km南北に貫く日高山脈は直行の心を捉え、直行に歓びと力を与えた。白銀に輝く山並みをモルゲンロートが桃色に染めていく眺めは、直行の魂を揺さぶるほどに感動を与え、心を豊かにした。直行が生涯かけて描いた日高山脈の絵は千枚を超す。原野に咲く草花を始め、畑の土起こし、薪や子供を乗せて運ぶ馬そりなど、日々の暮らしの一コマもしばしば描いた。貧しくて画材が買えない直行は、鉛筆でノートや板にスケッチを描いた。原野の開墾に疲れ、気持ちが沈んだ時はいつもシューベルトの「冬の旅」を聞いて気を紛らせたという。
 貧しい生活を送っていても、北大山岳部の仲間が下山して訪ねて来れば気のいい直行は食事を用意して温かく迎え入れた。直行自身も時折、山仲間と日高山脈の奥深くに分け入り、幌尻岳など登山を楽しんだ。

 1956年になり、直行に大きな転機が訪れる。彫刻家の峰孝が彫刻のモデルを求めて直行宅を訪ねた。峰は直行が描いた日高山脈や山野草、牧場の暮らしのスケッチや絵画に感銘を受け、直行に札幌で個展の開催を勧めた。翌年、札幌で開催された個展では、直行の描いた山の空気を実感させるスケッチや絵画は山の愛好家に大変な反響を呼んだ。やがて直行は離農を決断して札幌にアトリエ兼住宅を設けて画業に専念する。ほどなく借金の返済も終えたという。
 直行が離農を決断する前年の1958年、帯広で菓子店「帯広千秋庵」(現在の六花亭)を営む小田豊四郎社長が直行を訪ねて「十勝で生きる子どもたちの詩心を育みたい」との思いを伝え、児童詩誌「サイロ」の創刊号より毎号の表紙絵の作成を依頼した。小田の意気に感じた直行は「元気な間はいつまでも書きます」と無償で引き受けた。実際、直行は亡くなる二カ月前まで表紙絵を描き続けたという。児童詩誌「サイロ」は60年余りに渡って継続して今も毎月発行されている。
 直行と意気投合した小田は翌年「捨てる前に一度眺めてもらえるものを描いてくれないか」と、お菓子の包み紙のデザイン作成を直行に託した。十勝六花(エゾリンドウ、ハマナシ、オオバナノエンレイソウ、カタクリ、エゾリュウキンカ、シラネアオイ)をデザインした包み紙は、皆さんご存知の通り、今や六花亭の代名詞となっている。

 直行は1982年に75歳で亡くなるが、小田は直行の死後、中札内美術村に坂本直行記念館を開館する。残念ながら小田は「六花の森」が開園する前年に90歳で亡くなったが、小田の直行に対する何物にも代え難い感謝の思いは当社に連綿と引き継がれている。記念館は「六花の森」開園後に同所に移設され、直行デッサン館、花柄包装紙館、サイロ表紙絵館、直行絶筆館を新たに設けて、直行の生前の事績を称えている。
 日高山脈と原野を人生をかけて愛した直行は、晩年、自然を描くことについて次のような言葉を遺している。「上手に書くことより、それを失いたくない気持ちの方がはるかに大切なことだと思っています」
 原野の開墾に悪戦苦闘しながらも、日高山脈や原野に咲く草花を描き続けて画家として自らの道を切り拓いた農民画家ー坂本直行。同時期に帯広で菓子店を開店し「菓道一筋」とお菓子作りに生涯を捧げた小田豊四郎。二人の心優しき人が十勝の地で出会い、意気投合して、可憐な十勝六花は夢のような大輪の花を咲かせた。

 ※写真は六花の森の泉から湧き出たような美しい小川。2014/10月撮影。

 

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