「小さな悪の華」の「裏」を読む
裏読みシリーズ第5弾です!
昔、ニコニコ動画というのが流行っているときに、とある映画を見ました。
今も流行ってるのかな?
その名も、「小さな悪の華」
サーフィンしてたらたまたま出会ったやつ。
記憶はあいまいで、時系列ははっきりとはしませんが、伝えたいのは映画の内容ではないので悪しからず。
二人の少女がキリスト教への信仰を軽侮し、サタンとの契約を結ぶなど、どんどんと宗教上の罪を犯していく物語です。
概要はこちら
ニコニコ動画の視聴者たちからは、そのエロティックな内容に対して歓喜の声があがっていましたが、最後のオチを見て、二人の少女に対する不満が沸き起こっていたのを覚えています。
散々人に迷惑をかけておきながら、最後は焼身自殺をするのですから。
私は、この映画をある一つの期待を込めてみていました。
悪の華と言えば、かの有名なボードレールの詩「悪の華」の内容が理解できるのではないかと考えたからです。とはいえ、この「小さな悪の華」がボードレールの「悪の華」からとられたものであるかどうかはわかりません。どうもWikipediaで調べてみると違うようなのです。
悪の華は、90年以上、その反キリスト的な内容から裁判にかけられていましたが、この「小さな悪の華」も、フランスでは上映が禁止され、日本とアメリカだけで行われたようですね。
断言しよう。フランスはこの作品の価値を理解していないのであると・・・。とは言え、日本の皆さんもかなりあっち目的で見ていることは確かかもしれないが・・・。
この二人の少女は、まず牛飼いの男(=牧童)のところに行きます。二人はこの牛飼いの男を馬鹿にしており、揶揄おうとしたのです。髪の黒い少女(アンヌ)は、男に対してこういいます。
「この子(ブロンドの子=ロール)、あんたに気があるんだって。」
それを聞いた牛飼いの男は、ロールを襲おうとしますが、計画通りロールは逃げ出します。そのうちに、アンヌは、柵の中の牛を全て柵の外へ逃がしてしまいます。
ロールは押し倒されてしばらく襲われてしまいますが、無事?金的を食らわせてその場を逃れます。
次に、その夜牛飼いの男が、家族と食事をとっているときに、その家を訪れます。訪れた理由は、単に様子を見るためです。
食事をとっているところを見て、またくすくすとバカにして笑います。確認すると、牧場に積んである干し草の山に、一つ一つ火をつけて回ります。
なんちゅうひどいことを・・・。
日曜日は協会に行くことになるのですが、そこで、クラッカーのようなものを食べさせられます。聖餐式(せいさんしき)のパンらしいですね。これを、何らかの呪文を唱えた後、食べるのが習わしです。
しかし、この二人の少女は、それをこっそり吐き出して、別のところに隠しておくのでした。これは、黒ミサのための準備だったのです。
ちょっと頭の弱い庭師の可愛がっている鳥を家に忍び込んで殺します。
そして、ちょっと頭の弱い庭師を牧師として、サタンとの契約を結びます。
彼女たちは、罪を犯すことを楽しんでいました。
教会で、二人のシスターが口づけをしているのを目撃したアンヌは、司祭にこのことを伝えます。その後、祭壇へ走っていき、彼女は御祈りをささげるのでした。
二人は使われていない廃屋を自分達の秘密の隠れ家にします。
ある時、近くで車がエンコしちゃい、困っている男と遭遇します。
二人はその男を自分達の隠れ家へ連れていきます。
そこでお酒をふるまうのですが、二人は服を脱いで、下着姿になり、
男の前で自分の姿態を見せつけます。アンヌが別の部屋に行っている間に、ロールはこの男に再び襲われてしまいます。
ロールは激しく抵抗をします。戻ってきたアンヌは、驚いて、傍の(多分モップみたいなものだったと思う)で男を殴り殺します。
ロールは顔を真っ赤にして、「この男が悪いのよ・・・。私を襲うから・・・。」みたいなことを言います。
とうとう二人は、殺人まで犯してしまうのでした。
純一思想家の目
この「小さな悪の華」は、良心とは何か、というものを説いた名作であると私は考えています。
最初は罪を犯すことを心から楽しみ、一心同体のように生活をしていたアンヌとロールですが、私はある時点から、おや?と思うようになりました。
それは、二人のシスターが口づけをしているのをアンヌが目撃し、涙を流しながら司祭にそのことを告げた時のことです。このとき、彼女は何かに傷ついて、ボロボロと涙を流しました。そして、祭壇(サタンじゃないやつ)にお祈りを行うのです。あれだけ背徳的な行為を続け、それを楽しんでいた子が、こういう行動を咄嗟に起こすのを奇妙に思いました。
最後に、隠れ家で自分を襲った男を殺した時には、アンヌもロールも、顔が真っ赤になり、今までのように罪を犯すことを楽しむという感覚はなくなっていました。
そのため、今までの罪を償うと言う意味、そして、自分の罪への意識から逃れたいと思い、学校の劇の流れそのままに、本当に焼身自殺をしてしまいます。
では、なぜ二人の少女はこのような行動をとったのでしょうか。
キーワードは「良心とは何か?」ということです。
私たちは、人を傷つけたとわかったとき、はっとして、自分も傷ついていくことがありませんか?人を傷つけると、逆に自分も傷つくのです。
最初は楽しんで人をいじめていた人間が、段々とその「いじめ」を行った罪を自覚し始め、逆に自分自身がその経験によって苦しめられるようなものです。
良心がない人間は、何が問題なのかというと、自分が罪を犯すことにストップがきかなくなるのです。
例えば最近有名なワードとなっているサイコパスは、良心が欠如した存在として知られています。
たとえば、サイコパスとして疑いがかかった、有名な北九州連続殺人事件の犯人である松永太は、良心が欠如した存在として知られています。
良心が欠如してしまうと、自分の犯している罪を自覚できないのです。ですから、自分から自分の行動にストップをかけることができません。
ただ、良心があっても、一つだけ自分が傷つかないルートがあります。
それは、良心を麻痺させることです。つまり、心への麻酔です。
どういうことかというと、自分の考えは正しい。正しいから、相手が私から叱られたり、攻撃されるのも全部相手が悪いのだ、と考えることです。
例えば、ロシアのプーチンやミャンマーのミン・アウン・フラインとか、イスラエルのネタニヤフとか、中国の習近平、北朝鮮の金正恩とか、彼らはひょっとすると良心があるのかもしれませんが、胸の中で自分の行為は全て国のため、国民のため、という正当化を行い、良心を麻痺させている可能性があります。
ただ、麻痺は麻痺にしかすぎず、傷がついて行っていることに変わりはありません。
追記:もう一つありました。そもそも悪いことだと思っていなかった、という場合もあります。まだ若くて、中学生くらいの年頃だと、悪いこととそうではないこととの区別がつきませんからね。この子たちもこれくらいの年頃だったので、共通する点はあるかもしれません。
さて、話を戻します。二人の少女は、罪を犯し続けて、次第に自分の心は、気が付かないうちに傷ついていきました。そうして、物語の終盤に差し掛かるにつれて、その傷ついた心が、どうしても抑えきれなくなり、最後の殺人で、それはピークを迎えます。そのため、胸が苦しくなり、顔が紅潮し、息が切れ、涙が自然とこぼれ、いてもたってもいられなくなってしまうのでした。
つまり、単に悪いことをしているからと言って、その人間に良心がないとは限らない。
罪を犯して、罪を犯して、罪を犯して、知らぬ間に、傷つき、傷つき、傷ついて、やがて息が切れ始め、顔が紅潮し、自然と涙がこぼれ、いてもたってもいられなくなり、最後は神に救いを求め始める。最後の最後に咲く1輪の華。それが、良心という「悪の華」であった。
というのが、この作者のいいたいことだったのだと考えます。
ということは、自分に良心があるのかどうかは、人をきずつけてみないとわからないということでもあるのですね。う~ん。深い!
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