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アラフォーOLがキャリアについて振り返る 2

今日も一日お疲れ様です、おうちOLです(`∀’)ノ

キャリアについて振り返るというよりも
昔の思い出に浸るという方が
合ってるかもしれないですが、
私の今の仕事に至るまでの経緯に触れようと思うと
学生時代から遡っていかないと繋がらない、、、!

ということで、
しばし昔話にお付き合いくださいませ_|\○_

前回のお話はこちら↓


ダンス・ダンス・ダンス

さて、大学入学早々ダンススタジオに
毎日通い始めた若かりし頃の私。
基礎となるバレエから、ジャズ、モダン、
ヒップホップ、、、
と一通りレッスンを受けてました。

スタジオフリーパスなるもので大学生の
習い事にしては高額な月謝に
私のバイト代は全て消えました。

そして、シンクロナイズドスイミングをやってきた自分に一番しっくりくる動きが
モダンダンスでした。
コンテンポラリーダンスともいうかな。

私の大好きなリモンダンスカンパニー:
リモンテクニックというリモンさんが編み出したモダンダンスのテクニックです。

細々とレッスン以外にも
ワークショップを受けに行ったり、
ショーや公演などに出演したり、
ダンスにのめり込みました。
シンクロではこんなに練習したいと思ったことが
なかったのに、です。

そして、大学2年生になりお世話になっていた
ダンススタジオでドイツの芸術大学
ダンス科との交換プログラムがあり、
行ってみませんか?と声をかけてもらいました。

こんなチャンスは滅多にない!ということで
両親に相談するよりも先に自分で行くと
決めてしまい、
「行きます!」と先方へ返事をしてから、
両親に事後相談しました。
ドイツへ行くなら、
時期的に大学を休学しなければならない
というのに。

この時は既に、両親との関係はかなり悪化していて
私がダンスにのめり込んで行く事に両親は
大反対していたんですよ。
(親との関係やダンススタジオでの
出来事に関しては、また別途記事にしようと
思います。長くなるんで。汗)

そんな我儘な私に両親は激怒しつつも、
「あんたはもう、自分で決めたら
何を言っても聞かないから、、」と
半ば諦められつつ、でも、
ドイツへ行く時は渡航費を少しカバーしてくれたり
陰ながら見守ってくれていました。

いわゆる標準のレールから外れた時

今思うとドイツへ行くことになった瞬間、
大学へ行って就職活動をして、社会人になるという
標準ルートから外れてしまったんだろうなと
思います。

むしろ自分の進路とか今後のキャリアに支障があるかもしれないとか
考える事もなくダンスに打ち込んでました。
今に全集中!てな感じです。それこそ猪突猛進!

ドイツの行き先のヒントはこの風景
当時の写真がどこにあるか不明なんですよ、なんせ当時は「写るんです」時代。

大学では英語を専攻していたので、
全くドイツ語の知識はゼロ。
ドイツに一人で3ヶ月滞在する事になり、
どうなるかという心配はありましたが、
住めば都と言いますか
何とかなりました。

滞在先としては、マンスリーの寮みたいな
家具付きの施設に滞在していました。
(学校の寮がなかったので。)
建物の上層部分はホテルだったみたい。

生活で大変だったのは食事、水回りですね。
キッチン・シャワー・トイレが共同だったので
それはそれは海外生活の洗礼を受けました。

みんな使い方が汚い٩(๑`н´๑)۶
萎えるぐらいトイレが汚かったので、
1回のホテルロビーのトイレを使ってました。

食事は、ひたすらパスタか
オーツの薄いパンにnutella塗って食べてました。
(このパンはドイツに在住の方はお馴染みですよね)

腹持ちがいいんですよ


ドイツの人は年配の方を除けば、結構皆さん英語も分かってくれるし
ダンスクラスは英語での授業だったので、
とりあえずついて行くことができました。

平日は昼過ぎまでずっとダンスの授業があり、
土曜日はたまに隣町の大学まで
ダンスのクラスを飛び込みで
受講させて貰ってました。

そして週末は友達とディスコ(死語) クラブへ
繰り出し、なんかずっと踊っている毎日だったな、今思えば。

結構衝撃的だったのは、
更衣室が男女共同だったこと。
フツーに皆んな男女一緒に着替えてました。
アーティスティックなコミュニティーには
今で言うLGBTQの人たちの割合が多くなりますし、
私が言った大学も然り、
皆んな男とか女とか言ったラベルを
定義することなく、オープンな環境で素敵だー!と目からウロコでしたよ。

で、フツーに穴の空いたレオタードを
着ている人たちがいて、今まで世間体とか、
「こんな格好してたらどう思われるだろう」とか
気にしていた自分がすっかりアホらしくなり、
価値観が変わりました。

余談ですが何だかんだ3ヶ月もいると、
ドイツ語の簡単な挨拶や
単語を少しは覚えてくるもんですね。
この時に覚えた単語は、
今でもまだ結構覚えています。
ドイツから帰国した後、大学に復学し
せっかくだから第二言語では
ドイツ語を選択しました。

複数の草鞋を履いた時代

そんなこんなで、盛り沢山のドイツ滞在が
無事終わりました。

パンパンに詰まった大型スーツケースに
もう一つ馬鹿でかいバッグで両手は塞がり、
でっかいコートを着た状態で
地元の駅に降り立った私を
母が迎えにきてくれていました。

この時母は、

嗚呼、この子はどこに行っても生きていけるだろう

by おうちOL母こころの声

と思ったそうです。

ダンス以外にドイツで何を学んだのかと聞かれれば
ぶっちゃけこれと言って無い気がするが、
ある種の逞しさと神経の図太さはここで
身につけた気がする。

既に帰国後には、就活はしないことを決め、
大学を卒業したらダンサーとダンスを教えることをしたいと考えていた。

そのため、
ダンスのクラスを持ち始めたのもこの頃です。
しかし、いかんせんダンスだけでは悲しいことに
食べていけなかったんだな。
バイトを複数掛け持ちして、
何足も草鞋を履いてました。

当時のMy草鞋コレクション👇順不同
1.高校3年生の時から働いていたレストランの
ホール係
2. 夜行バスまたは早朝バスの点呼係
3. ポイントカード加盟店の営業
4. オフィスで事務

あ、忘れてたけど上の4つに加え、
ダンスインストラクターをしつつ
自分のためにダンスレッスンを受けるなど
していたので
今では考えられない体力おばけでした。我ながら。

バイトを選ぶときに何でもいいやー!って
思ったわけではなく
一応自分なりに考えました。
ホール係は、観察眼を養うため。
営業はコミュニケーション能力を養うため。
事務はオフィス作業を経験するため。
点呼係は完全に時間に融通が効くから(笑)

全部バイトではあったけど、
どれも長い期間続けていたので
「継続は力なり」は本当なんだなと実感しました。

草鞋コレクション公開したところで、
今回はこれで終わりましょうか。

で、あなたは結局今何してる人なのさ?と
気になってくれたあなた。
よかったら自己紹介をご覧くださいね!

ではまた続きは次回にて。

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