チカムリオ(その⑧)
過去回りの旅
私は車窓に顔を押し付けるようにして、外の景色が見え始めるのを待った。今はまだ深い霧のため何も見えないが、やがてそこに自分の過去の光景が映り始めることを知っていた。
私は紳士に尋ねた。これから残された時間がどのくらあるのかわからないが、この人物には、いろいろと聞いておきたいことがあるのだった。
「そういえば、僕たちのほかにも、これに乗った人々がいるんでしたね」
紳士は私の質問に少し間を置いてから、静かに話し始めた。その間合いのよさに私は感心した。まるで大物俳優のようだ。
「幾多の人々を乗せた。子供に大人、男も女も。多くの場合、彼らの精神が夢と現実の、或いは生と死の狭間をさ迷っている間に。そんなとき、人は誰も普段見たり聞いたりできないものを垣間見ることができるのだ」
「生と死の狭間、ですか」
「うむ。乗った者は誰しも皆、窓に映った光景を見て驚いた。しかし、大人たちはなかなか信用しようとしない。彼らの精神は今まで経験したことのないものに対しては、それを受け入れる柔軟性に乏しいゆえ、それを夢や幻覚だと決めつけようとしてしまうのだ。また、偶然君たちのように、現実世界においてこれに乗った者がいたとしても、殆どの場合、自分は夢か幻を見たのだと思い込んだ。もちろん子供も」
「子供も?」
私の問いに、紳士は重々しくゆっくりと頷いた。
「子供もだ。はじめは自分が見聞きしたものを素直に受け入れるのだが、やがて成長するにしたがって、その出来事が単なる夢だったと思おうとする。そして、大抵の場合、彼らはいつの間にか忘れてしまうのだ」
「そんな・・・もしかしたら、ものすごく大切なものかもしれないのに」
「そのとおり。しかしそれこそが現実なのだ」
この問題についてはもっと話していたかったが、今はあまり時間がないように思えたので、僕はもう一つ、以前から考え続けてきたことを聞いてみることにした。
「貴方にあのとき尋ねたのですが、よく分からなかったのです。だからもう一度お聞きしたい。貴方は神なのですか、それとも・・・」
「それとも?」
ふたたび紳士は口を開いた。
「それとも、何かな」
私はそれから先を続けることができなかった。
「今からでも遅くはない。現実の世界に戻ることはできるのだよ。君はまだ若い。それに、君の心は澄んでいる。」
「澄んでいるですって?とんでもない!」
私は素っ頓狂な声を上げた。
「僕の心はひどく荒んでしまっているんです。僕はいわば人生の敗北者だ。することなすこと失敗ばかりで、今もこうしてひどい宿酔いで。
もう自分の人生には何の未練もありませんよ。僕がいる現実の世界なんて、あのとき見た世界とは比べ物にならないんだ」
紳士の声の調子が、少しだけ厳しくなった。
「人生を諦めてはいけない。これから何が待ち受けているのかは、誰にも知ることはできないのだ。それに・・・君は生きることに関して、本当に努力したと言えるのだろうか?」
私は返事に詰まった。紳士はゆっくりと語り続けた。
「人は若いときに夢を見、未来に憧れる。そして大人になり、夢を成し遂げる者もいるが、多くは途中で諦めたり、ありきたりの生活に慣れてしまい、いつの間にか夢を見たことさえ忘れてしまうのだ。見給え、窓の外を。あの頃の君は希望に燃えていたのではないかね?」
言われるままに私は窓の外を見た。其処にいたのは高校を卒業したばかりの自分の姿だった。
そのころ私は小説家になることをめざし、毎日毎日ノートに文字を書きなぐっていた。それこそペンも折れんばかりに。
将来、自分の書いた作品が人に読まれることなど考えもしなかった。
ただひたすら、本当のもの、最高のものを書こうとしていた。
人間というものの真実の姿を原稿用紙の上に写し出そうと、死に物狂いになっていたのだ。
やがて、窓の外の私はどんどん子供に戻っていった。
高校から中学。髭面から幼い顔つきに、病んだ目から、きらきら光る希望と不安を宿した瞳に・・・。
傍観者であるはずの私は、不思議な違和感に包まれていた。
『考えてみればおかしなことだ。まるでお伽噺じゃないか。だが待てよ。こうしている間にも|僕《・》の心の中で、何かが次第に、大きく豊かに膨らんでいくような気がしないか?これは一体どういうことなんだ』
僕は車窓に顔をぴったり押し付けて外の光景に見入っていた。そんな僕の耳に、紳士の重厚なバリトンの声が聞こえてきた。
「過ぎ去った日々の光景を目の当たりにして、君の心が当時の思いを取り戻しているのだよ。記憶だけではなく、今の君はそのときの心を取り戻しつつあるのだ。とても不思議な感覚だろう?」
「これが・・・この感覚が、あの頃の僕の心だったのか。何だか随分あやふやで頼りない感じがする。けれど何というか、希望に満ちているような、きらきら光っているような、とても生き生きとした感覚だ」
「人の心の一部は大人になるにつれて退化する。多くの者はそれが大人になることだと錯覚してしまうのだ。時折、昔大切にしていた心のかけらに出会ってふと立ち止まり、首を傾げるが、やがてそのまま通り過ぎてしまう。子供のときの記憶は思い出せても、最早心はそのときの自分のものではない。過去に何かを経験して、そのときどう感じたかは覚えていても、そのときの自分の心は2度と取り戻すことができないのだ」
「あの、すみませんが、最終目的地のチカムリオに行ったときの様子は見えないのでしょうか。どうにもあのときのことが思い出せないんです」
私は窓から顔を離し、運転席の方を向いて尋ねた。
「チカムリオに関する記憶は君たちの心には殆ど残っていないのだよ。あのときも説明したはずだが。この車の内部には、ここで見聞きしたことを記憶できない力が働いているのだが、特にあの場所にはそれが強いのだ。磁場のようなものと言えば、少しはわかり易いかな」
「それでは、僕が今まで見ていたものは・・・」
「この車はいわば、心の旅路をたどる乗り物なのだよ」
『心の旅路?たしか、そんな題名の古い洋画があったっけ』
「あのときにも言ったはずだが、この車は、はるか昔から・・・人間の歴史が始まったそのときから存在しているのだ。その時代、その場所に合わせた形をとりながらね。旧約聖書に登場したこともある。君の時代の好事家達は、それがUFOだと信じとるらしいがね、実はこの車のことさ」
「あ、あの、窓と車輪の付いた、火を吐く乗り物のことですか?知ってますよ。確かエゼキエル書でしたね。実は僕、カソリック系の高校に通っていたんで、旧約聖書を勉強したことがあるんです。テレビなんかでも面白おかしく取り上げられていたっけ」
「この国では妖怪として恐れられ、朧車という迷惑至極な名をつけられたこともある。それよりずっと古い時代の天ノ磐舟のほうが、まだましだった。」
『オボログルマ?確かそれ、水木しげるの描いた漫画に出ていたぞ。そうそう、江戸時代に描かれたという「百鬼夜行図」にもあったっけ』
僕は心の中でそう呟いた。
「うむ。その類の絵を書き残した彼らもまた、この車に乗り、その体験を一部覚えていた者たちなのだ」
「え、僕今何か言いましたか?それともあなたは人の心が読み取れるんですか?」
「心を読む・・・かね。そう、君の時代では、既に不可能なことだったな。皮肉なことに、人類の黎明期ならば誰でもみな造作なくできたことであったが。本来、言葉というものは、全く不必要な道具だとは思わんかね?言葉を作ってしまったがゆえ、人間はそれに頼り、自らの持つ大切な能力を失う羽目になったのだよ」
「あの、すみません。一つだけ聞きたいのですが。確か前回も聞いたと思うけれど、こいつは・・・」
僕は車内をぐるっと見渡してから尋ねた。
「その・・・タイム・マシンですかね」
「時空間跳躍。君たちの言葉でいうならば“タイムトラベル”は可能だ。現に君が今体験しとるじゃないか」
「やっぱりそうなのか!」
「ちょっと待った。君たちの考える時空間移動は、すでに決定されてしまった時間の流れの中を行き来するというものだ。しかし、それは誤りだ。彼らが見る未来は、言わば“見せかけの未来”に過ぎないし、同様に、過去も彼らがそう思い込んでいる過去に過ぎないのだ」
「すみません。もう一度お聞きします。貴方はいったい誰なんですか?」
「私かね?私はずっとこれを運転し続けている者さ。筆舌に尽くし難いほど遥かなる過去から、悠久の未来まで。そう、どれだけ時間がかかろうとも、君たちが完全に覚醒するまでの間は、ひたすら時の狭間を行き来する定めにあるのだ」
『まるで観世音菩薩みたいだな。でも、ちっともそれらしくない・・・』
「ふふん、外見で人を判断しちゃいかんよ君」
「げっ、ま、また?僕の考えたことがわかるんですか!」
「一般的には、今の君が属している宇宙においては、過去の出来事は既に起こってしまったが故に変えることができない。しかし未来はあくまでも未来なのだ。何が起こるかは、至高の存在でさえ予測できない。尤も、あのお方が何かを予測され給うことは決してあり得ないが。それから、老婆心ながらもうひとつ言っておこうか。安易に名前をつけないようにな。名前をつけてしまうと、もうそれそのものになってしまうのでな。」
「ちょ、ちょっと待ってください。それなら未来はどうやって決定されるんですか。そこの所がよく分からないんだ。一寸先は闇なのか、それとも、前々から決まっていることなのか」
「君たちがあの日窓の外に見た光景は、その時点で君たち自身に起こり得る未来のうちで、最も可能性の高いものが写し出されただけに過ぎないのだ。だから、注意深く観察していたなら、あのとき見た光景と後で実際に起こった出来事が、細部で色々と食い違っていたことに気が付いたはずだがね。人によっては、劇的に違った未来を経験する場合もあるのだよ」
「なんですって?じゃあ、未来は変更可能ってことじゃないですか」
「ふふ、少しニュアンスが違うな。つまり、君たちの未来というものは、常に膨大な選択肢を伴っているのさ。たとえば君が知らない町を歩いていて、とある交差点にたどり着いたとしよう。別にどこへ行くあてもないとき、君はどの道を選ぶだろうか?」
「それは・・・そんなことわかるわけないじゃないですか。当てずっぽうに選ぶしかないでしょう」
「そこに答が隠されているのだよ」
「え?・・・あ、そうか!つまり、僕が行き着くところは予め決まっているんだ。だけど、どの道を通っていくかは、僕に任されている・・・」
「ご名答」
(続く)
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