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チカムリオ(その2)

腕時計はちょうど午前4時を示していた。まさにあの時と同じ場所、同じ時刻にそれは出現したのだ。
 私はおぼつかない足取りで車に近寄り、おそるおそる中を覗き込んだ。

すると、ドアーが音もなく開いた。私は覚悟を決めて中に入った。そして、はやる心を懸命に押さえつけながら次の瞬間を待った。

運転席には、普通のタクシーの運転手が被るような、白いカバー付きの帽子を頭に載せた紳士が座っていたが、車内は薄暗く、私の方から彼の表情は見えなかった。

しかし、私は確信していた。今そこに座っているのは、まさしくあの時の運転手であることを。

「どちらまで」

聞き覚えのある、深く静かなバリトンが私の耳に響いた。

私は押し殺した声で、しかし相手に聞こえるようにゆっくりと発音した。

チカムリオまで行ってもらえませんか」

その瞬間だった。あの時の体験が生き生きと私の心の中に甦ったのは。私の心は30年前に飛び、私の姿も子供に戻った。そして2人の友の姿もそこにあった。あの時と同じ姿で、同じ声で・・・。



僕とキヨシとユミは大の仲良しだった。

どこへ行くにも、3人はいつでも一緒だった。互いの家も近かったし、同じ幼稚園に通い、小学校のクラスも今までずっと同じだった。

キヨシは勉強が得意だ。算数もクラスで一番だし、4年生なのに英語塾にだって通っている。

ユミはバレエを習っているので足が長くてスタイルがいい。痩せているのは、きっと練習がきついからだろう。
 僕の母は、ユミがヘプバーンに似ていると言っていた。
 ヘプバーンというのはアメリカの有名な女優だそうだ。

「寒くないかい」とキヨシがユミに話しかけた。キヨシにはそういった優しいところがある。それに女の子は参ってしまうんだ。
 僕だったらせいぜい「やーい、僕なんかあったかいんだぞ」ぐらいのことしか言えない。

今度はキヨシが自分の首に巻いていた紫色のマフラーをユミに貸した。毛糸で編んだ丈の長いやつだ。
 僕はキヨシに手袋を片方貸した。男の友達には気が利くのだ。

それにしても寒い。だってまだ午前4時前なのだから。今、キヨシの腕時計をちらっと覗いてわかった。キヨシは小学生なのにもう腕時計を持っているのだ。

僕らが立っている辺りは霧がかかっているので、まわりをよく見通すことができない。公園の電灯の明かりだけが、ぼんやりと光っている。

「もうそろそろ来てもよさそうだけどなあ」と僕は言った。しゃべりながら、自分の口がだんだん尖ってくるのがわかる。ユミは赤いオーバーのポケットから、紫色の切符を取り出しながら言った。
 「この切符には、午前4時って書いてあるわよ」
 「僕の時計は正確だよ。ゆうべ家の時計に合わせたんだからね。もちろん家の時計だって正確だしね」
 「きっと、運転手の時計が遅れているんだよ」僕は我ながらうまいことを言ったと思ったし、2人も僕の意見に同意した。

この切符を拾ったのは先週の木曜日のことだ。この公園の片隅には、よく見ないとわからないがもう一つの出入り口があり、そこから入って「幽霊屋敷」の庭を通り抜ける道が、学校への近道になっている。
 この道は僕ら3人しか使っていない。大人が入るには狭すぎるし、それにこの入口は自分たちが見つけたのだから。

幽霊屋敷というのは僕らが勝手につけた名前だが、いかにも幽霊が出そうな感じのする家なのだ。赤いレンガでできた西洋風の建物で、壁にはびっしりとツタがからまっている。
 庭は広いけれど地面には緑色のコケが生えており、真夏の暑い時でも、ここだけは薄暗くひんやりした感じだ。
 いつ来ても人の気配はないし、窓のカーテンだって、いつも閉ざされたままだ。

ユミの話によると、この家には髪の毛が真っ白で長いヒゲを生やした老人が住んでいるらしい。一度だけ、お医者さんのような白い服を着て家に入っていく後姿をみたそうだ。
 それを聞いたキヨシは、その老人はたぶんオランダ人の科学者だろうと言った。いつも思うんだけど、キヨシが言うと本当のように聞こえるから不思議だ。

で、庭を通り抜けると小さな森があり、そこを流れる小川に沿って5分ほど歩くと小学校の校庭に出るというわけだ。

僕たちにとって、幽霊屋敷の庭を通ることは非常にスリルのある冒険だった。なぜって、その科学者(?)はきっと何か恐ろしい実験をしており、見つかったら捕まえられて実験の材料にされてしまうかもしれないからだ。
 したがって、その庭を通り抜ける際は物音を立てぬよう、注意深く行動しなければならなかった。

さて、それで、いつものようにそこを通って学校へ行く途中、庭の中でユミがこの切符を見つけたのだった。
 ユミは3人の中で一番背が低いし、細かいことによく気がつくから当たり前だと僕は思う。しかも、ユミの話によれば、暗い小径の隅でキラキラと虹色に輝いて見えたっていうんだ。僕とキヨシは気がつかなかったけれど。

切符は回数券のように6枚つながっていて、1枚ずつ切り離せるようになっており、裏も表も紫色だった。
 紙でできてるようだが、パウチでもしてるかのように表面はツルツルだった。表側(?)には外国語のような文字が並んでいたけれど、全然読めない。キヨシは古代インド語に似ていると言った。
 そうしているうちに、切符を光に透かして見たり、色々な角度から眺めていたユミが小さく叫んだ。

「ねえ、見て!こうやって、斜めの角度で見ると日本語になるわ」

僕たちはユミの真似をして色々な角度で切符を眺めてみた。すると、何かの拍子に外国語だと思っていた文字が、日本語に変化して見えたんだ。

「ほんとだ。角度によって、日本語に見えるときがあるよ!一体全体、なぜなんだろう。インクの関係かな?」

やがて、3人で協力して解読した結果、切符に書かれている文字を全部読むことに成功した。そこにはこう書かれていた・・・。

チカムリオ行き(往復)毎日午前4時 坂の上公園発 有効期間:本日より1週間以内」

坂の上公園とはこの公園のことだ。朝の4時とはずいぶん早い。有効期間についてだが、「本日」というのがよくわからない。ユミは、今日見つけたのだから、今日から1週間有効だろうと言った。

僕らが行ってみることに決めた理由は、これがきっとタダで乗れる切符だと思ったのと、いちど3人で、親に内緒でちょっとした冒険がしてみたいと思っていたからだった。
 チカムリオなんて駅はJRにも私鉄にもないと思う。キヨシは外国かも知れないと言ったが、それにしては、バスやタクシーでは絶対に行けないはずだし、僕は遊園地か何かの名前だろうと思う。

今キヨシが、さっき僕が貸した手袋をユミに貸してやった。本当にキヨシはうまくやっていると思う。ユミがキヨシを好きになるのも当たり前だ。

僕がそんなことを考えていると、いきなりキヨシが僕の横腹を突いた。同時に、ユミが小さく叫び声を上げ、霧の中を指さした。

・・・ふと、目を凝らすと、公園の広場の中央に、突然1台の自動車が現れたように見えた。いや、もしかすると、ずっとそこに停まっていたのかもしれない。
 というのは、たった今、急に霧が晴れたからだ。

その自動車はどうやらタクシーのようだ。黒塗りできれいに磨いてあり、艶はあるがずいぶん古めかしく見えた。
 キヨシがあれはオースチンだとささやいた。外国の高級車だそうだ。
 僕らは恐る恐る近づいていった。
 すると、後ろのドアが音もなく開いた。
 僕はドアに軽く手をかけたまま、どうしたらよいか迷っていた。
 何だかとても不安だったのだ。

と、その時だった。

「どちらまで」

運転手のおじさんが、こちらを振り向かずに話しかけてきたのだ。
 僕はおずおずとタクシーの中を覗き込んでたずねた。

「すみません、あの・・・この切符、使えるんでしょうか」
 すぐにキヨシが「使えませんよね、こんなの」と口をはさんだ。

僕たちは知らず知らずのうちに、運転手さんの機嫌をうかがうような態度をとっていた。だって、もしもこの切符がニセモノだったら、朝っぱらから変な子供たちにからかわれたと怒り出すかもしれないからだ。
 それに第一、切符でタクシーに乗るなんてことができるんだろうか。

しかし、運転手さんはこちらを振り向きもせずに「紫色か。チカムリオ行き特別優待券だな」と、独り言みたいにつぶやいた。

僕たちは車の外で突っ立ったままだったが、このとき急にエンジンの音が大きくなったので、慌てて中に乗り込んだ。
 外は寒かったし、いいかんげん待ちくたびれていたからだ。
 こんなときは誰だってそうしただろう。

全員タクシーに乗り終えてドアが自然に閉まると、運転手のおじさんはこんなことを言った。

「さて、それでは、過去回りで行くかね、それとも未来回りにするかね」


(続く)

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