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「障害」という言葉自体が障害なのだと気がついて……

去年の8月、僕は「発達障害(ADHD)」という診断を受けた。僕のことをよく知ってくれている人は、(えっ、一体どこが?)という想いを抱くだろう。つまるところ、そういうことなのである。

「障害者」という呼称は、「健常者」が正常で、「障害者」が異常かのような価値観を、“グロテスク”に具現化したのだ。例えば、身体的障害者を初めて見る時、他の多くの人とは違うその姿に「気持ち悪い」という感想を抱くかもしれない。ただ、その気持ちを抱くこと自体は自然なことだと思う。初めて見るものに対して恐怖するのは、動物的本能であるから。
だけど、今を生きる私たちは、そこまで無知ではない。この世には様々に多様な個性を持って生まれてきた人が大勢いることを知っているし、また知らなければいけないと思う。知って、さらに多くの人に伝えていかなければならない。今より持続可能で誰ひとり取り残されない社会を実現する為に。

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「障害」を理由に差別し排除しようとするのは、ダーウィンの進化論で言う自然淘汰から見ればそうなのかもしれない。羽が折れた鳥は飛べないし、ひれを失った魚は泳げない。だが、それはあくまでも人類が“ただの”生物であれば、の話だ。高度に知能を発達させた人類には、その自然淘汰を他の生物と同様に当て嵌めるのは無理があると思う。人類には、その生物的ハンディを強みに変えられるだけの知恵があるし、テクノロジーがあるし、『心』がある。僕はそう信じている。

「障害」を個性と捉えよう、というのは良いとして、その個性をカテゴライズし認知しておくのは、私たち多様な個性を持ったひとりひとりが集団として社会的に生きていく為に大切である。例えば身体障害であれば、四肢欠損・視覚障害・聴覚障害などは良く知られている。一方で精神障がいは、外見で判断がつきづらく、一般的に理解が進んでいないことも多い。身近なもので言うとうつ病があるが、統合失調症や双極性障害、てんかん、高次脳機能障害などがある。名前だけは聞いたことあるものの、具体的な様子はイメージできない人がほとんどではないだろうか。僕が診断された発達障害も、昨今よくテレビなどで取り上げられるようになったが、大人の発達障害は依然として知られていないと感じる。発達障害にもいろいろとあって、ADHD(注意欠陥多動性障害)やLD(学習障害)、広汎性発達障害、アスペルガー障害などがある。ここまでくると知識だけで理解し個性と捉えるのは些か難しいように思う。

じゃあどうするのか? 答えは簡単。この世は目に見える現実が全てではなく、ひとりひとりの個性が尊重し合って、多様性を認め合う中で育まれる社会なのだ、という認識を持つこと。その認識を育む環境づくり、教育を、物心ついた頃から行っていくことが重要である。これがまた難しいんだけれど、気付いた人が率先して周りから少しずつ始めるしかない。

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僕は、自分が「障害者」と認定されて、初めて「障害」を個性だと思えた。頭では分かっていても、どこか「障害者」を差別していた自分がいたことに気がついた。(一体僕のどこが「障害」と言うんだ?)その想いが、まさに今まで僕が「障害者」としていた人たちの想いなのだと知った。

期間はわずかだが、認知症の高齢者と過ごした。重度の精神障害、知的障害の人と過ごした。そして今、社会に認められることなく苦しんでいる高次脳機能障害の方や精神障害の方たちと一緒に仕事をしている。みんなひとりとして同じ人間はいなくて、個性にあふれている。

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