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私が、40年 願い続けてきた 緩和ケアについて ✨




みなさん、こんばんは。


じゅんママと、まなの、二人三脚で

jun-manaです。



今日は、いつもと違う テーマです。

よろしくお願いします。


ちなみに、上の写真は、父と母です。

無言のメッセージを感じた写真なので。


私が、18才の時から 40年

願い続けてきた、祈り続けてきた

緩和ケア に ついての お話です。


あ~、年齢が ばれてしまいましたね。
😅



緩和ケア


みなさんは、なんとなく 聞いたことが

ありますか?

ご自分や 家族 が、病気を経験したこと

が ある人は、知っているかと思います。




では…。



私は、高校を卒業して、看護師になる

ために、ある全寮制の看護学校に

入学した。


1年生だけで、20名程度。

濃厚教育で、ある意味、 軍隊みたいな

学校だった。

どこの 看護学校より、古い体質であり、

伝統がある とも言える。


いまは、時代も 違って、かなり雰囲気

は 変わったと想像する。



私は、小さな時から、からだが とても

弱かった。


からだも 弱い、プラス 家庭環境が

大変 悪かったせいか、自律神経の

交感神経が 常に 働いていたのか?


ゆっくり、階段を上がっても、すぐに

脈拍が、1分間に160回。


たぶん、血圧も高かったのではないか

と思う。



体育は、命がけだった。

準備運動だけで、死にそうだった。



朝、起きただけで、脈拍、120以上。

5秒に1回のあくび。

酸素欠乏していたのか…?


走れない!


なにをしても、しんどすぎる。

水泳の授業では、沈んでいく~😭



とにかく、生きるのが、きつかった。

つらくて、ひとり 泣いた日は、数知れず。

ほんとに、いろいろあった。


でも、学校は、休まなかった。

なぜなら、1日でも 休むと 、もう

行けなくなりそうな気がしたから。


それに、

家庭的にも、親に そんな しんどさを

話せるような 雰囲気は、まったく

なかった。



しかし、夢だけは、デッカイ‼️



小さな時から、すごく、感受性が強い。


その私が、小学校 低学年に思い巡らして

いた夢は、



家のない人も、病気の人も、障害の人

も、子どもも、おじいちゃん おばあちゃん

も…

身寄りのない 人たちの家みたいな、施設

のようなものを、つくりたいと思っていた。



私は、かなり 変わった 子どもだった?と

思う。



日本のどこかで…世界のどこかで、いま

この瞬間に 泣いてる人が いるんじゃない

かな…と思い、涙が、自然に流れてくる。



なんで、そんなことを思い、涙が出るのか

わからなくて、そんな自分を 持て余して

いた。

真剣に、悩んでいた時期もあった。


そんな 私が、とりあえず、看護師に

なろうと思ったわけである。



話は、もどる。


無事、看護学校 1年生の 戴帽式も

終わった。


私の戴帽式の言葉。


心身ともに、悩み 苦しむ 患者さんと

ともに 悩み

ともに 希望を見つけ、ともに 喜べる

看護師になりたいです!



確か、そんな感じの言葉だった。


私の言う、希望とは、たとえ、死を

迎えようとも、生きてきてよかった!と

最期に 患者さんが 思えるような…という

意味であった。


しかし、1年生の終わりだったかな?

実習で、私は、癌病棟に行った。


病院は、寮のすぐ近くにあった。


病棟につながる ドアを開ける。


うっ 😣


異臭が すごい !


いろんな 匂いが、混じっていたのだろう。


あんな 匂いは、後にも先にも、経験する

ことがないようなものであった。

中に入り、2~3分したら、慣れてくる。


痛い…。

痛い…。


しんどい…。



死にたい…。


そんな、声が、あちらこちらから

聞こえてきた。


付き添いの 家族の人も、疲れた顔。


なんとか してあげたい…。


でも、学生1年生の私は、患者さんの

話を聞かせてもらったり、清拭すること

くらいしか、 まだ、出来なかった。



ある皮膚癌の まだ 30代の 男性。

確か、子ども 3人いたと思う。


学生さん、話を聞いてくれますか?



はい、もちろんです。

聞かせてください。


私は、ベッドの横にある 椅子にすわった。



先日、3回目の 手術だったんだ。

それが、麻酔が まるで 効いていない

みたいで!


あまりの痛さに、看護師さんの手を

ずっと、握りしめていたんだ。


手術も、3回目となると、もう、家族も

来てくれなかったよ…。



全身麻酔では なかったんだろう。


でも、痛いなら、医師も、なんとか

してあげたら いいのに!


心の中で、そう 思わずには いられなかった。




奥さんも、子ども 3人もいるし、なにか

都合があったのだろう。



でも、患者さんは、とても つらくて、

さみしかったんだよね。


話を聞きながら、うなずき、ただ、そばに

いることしかできない 自分が 悔しかった。



その患者さんは、1ヶ月後くらいに

亡くなられた。



まだ、ほかに いろんな患者さんがいた。



私は、寮に帰ってからも、患者さんの

ことを 祈るように なっていた。


病院の中と、外では、別世界であった。



癌患者さんでさえ、緩和ケアが ほんとに

まだまだまだ の時代であった。


私は、その実習で、癌患者さんだけで

なく、すべてのターミナルケアの専門

の看護師になりたい!

と、強く思った。



しかし、その願いも むなしく、私は、

いろいろあって、心身ともに ボロボロに

なって、看護学校を辞めることになって

しまった。



あまりにも、はっきりとした目的が

あったので、辞めてから、半年は

電車に 乗っていても、どこにいても、


ひとり 泣いた。


その話は、このへんで…。



つまり、私が、緩和ケアに強い関心を

持ったのが、18才の時であり、その

願いや、思いは、今も色あせること

なく、むしろ、より はっきりとした

ものに なっている。



父は、私が、10代の時に 特定疾患に

なった。


父は、昔から、大酒飲みで 1日 一升

飲み、家の中は、いつも、だれかが

泣いてる状態。


私は、娘なのに、1度も かわいがって

もらった記憶は、ゼロ。


そんな父であったが、私は、仕事を都合

つけては、病院に連れて行っていた。



その父も、90才まで 介護をして、約2年前

に、なんとか天国に送った。


母は、アルツハイマーになり、今も、在宅

介護をしている。



つまり、病院に関わることが、あまりにも

多く、そのなかで、また いろいろ 感じたり

考えさせられたのだ。



父は、特定疾患になってから、ほとんど

寝たきりに近い 状態だった。


そんな 父も、高齢になり、あることが

きっかけで、まったくの 寝たきり状態

になり、かなり やせ細り 、寿命も近い

のが、予想された。




ある日、39度の熱が 出て、苦しんで

いたので、救急車で 病院に運ばれた。



肺炎だった。


そこで、痰 吸入を 1日に 何度もされる

わけである。

それをしないと、苦しいのであるが、

父は、吸入をする 看護師を見ては

いやいや ‼️ と、手を振りながら、

拒否していた。



しかし、もちろん、そうはいかない。

容赦なく、ある時は 鼻から、また ある時は、

口から 管を入れられるわけである。



確かに、いやだろうな~😣

つらそう 😭



そんな 毎日が 続き 、約 1ヶ月以上 入院

したあげくに、退院して、3日後か4日後

に、亡くなった。


どこにも、針が 入らないのに、無理に

刺しこんだような 点滴。


あれだけ、退院するときには、すべての

管を 外しておいてください!と、頼んで

おいたのに、尿管をつけたまま、帰された。



私は、思った。



父は、もう、寿命は 長くは なかった。

それが、肺炎になり、苦しんだ末に

退院して、すぐに 亡くなったわけだ。



父は、苦しむ 必要は、あったのだろうか?


父だけではないだろう。


癌でなくても、他の病気でも、緩和ケア

として、 なんとか 不必要な 苦しみを

味わうことなく、また、静かに安らかに

家族や医療従事者と、最期を迎えること

は、できないのだろうか…。



生きてる以上、がんばらないと いけない

のだろうか ?


私が、言っているのは、安楽死のこと

ではない。

実際、日本では、認められていない。



安楽死と、緩和ケアは、まったくの

別ものである。

ただ、緩和ケアを うまく使えれば、

ほんとの意味での、先進国医療では

ないだろうか…。



ほんとに、最後まで、点滴はいるのだろ

うか?


人が、死に近づくとき、食欲もなくなり

からだの水分を使いきっていくのが

自然では ないだろうか…。



点滴や、胃ろうで、パンパンに浮腫に

なったりする。

私には、ある意味、拷問にさえ 感じる。



胃ろうは、必要であるなら、とても

大切な方法である。


しかし、寿命が 見えてきている 患者さん

には、どうなのだろうか…。



いま、一度、頭も しっかりしているうちに

伝える手段が あるうちに、自分の最期の

ことを しっかりと、家族に伝え、理解して

もらう必要性を、思わずにはいられない。



緩和ケア


癌患者さんは、もちろんのこと、他の

疾患の患者さん、ひいては、必要である

ならば に 限定されるが、精神疾患の

患者さんにも、対応してもらえるよう

になることを、私は、願う。



そのためにも、お医者さんや、看護師さん

患者さん、家族さん、すべての人たちに

正しい 緩和ケアを知っていただきたいと

願ってやまない。


そう言っている 私も、専門家ではないの

で、感じたことを話してるだけではある。



すべてのことは、相手の立場になって

考えるところから、はじまると思っている。



人生は、いろいろあって、どんな人も

一生懸命に生きている。

だからこそ、最期の時くらい、自分らしく

生きるために、また、家族や、家族が

いなくても、まわりの人たちと 安らかな

時間を過ごすために…。



ひとりでも、たくさんの患者さんが

微笑んで この世を 卒業 できることが

普通になる日が きますように…✴️










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