マジョリティは、どうしたらマイノリティに目を向け、考えるようになる?-ジェンダー問題から思うこと-

はじめに

 
 私は、「男性」である。身体も男性として割り振られ、性自認も男性として生きている。つまり、シスジェンダーだ。また、ヘテロセクシュアルでもある。
 このアイデンティティは、日本社会においてマジョリティである。(少なくとも私はそう感じている)そんな自分は、この社会で相当な優位性を無自覚的に与えられている。

ジェンダー問題は、「男性」の問題


 それに気づいたのは、大学1年の時だ。授業の中で、上野千鶴子さんのある本を読む機会があった。それを読んだ私は、相当な衝撃を受けた。「女性」が構造の中で、どれほど抑圧されてきたかということ。その抑圧の「加害者」の一員として、私も組み込まれていること。そして、これからの時代のジェンダー問題は、「男性」が考えなければならないということ。これまで漠然と考えていたジェンダーが、切実で身近なものとして、私の前に現れた。


 私は、そこからジェンダーについて勉強するようになった。その中で、1つ考えなければならないと感じたのは、構造的暴力についてである。ジェンダーが問題となるのは、全く自分の知らないところで決められた「男性」「女性」というものから、勝手に優遇や差別が行われることである。そして、差別は多くの場合「女性」が被ることになる。現在においても、「男性」=「公」(会社や政治など)、「女性」=「私」(家事やケアなど)という考え方が、日本においては根強いためである。「女性」がこれを逸脱すれば「名誉男性」となるか、経済的に苦しくなることが多い。このように構造的暴力は、「男性」から「女性」に多く向けられる。


 少し補足すると「男性」や「女性」は、人間が後から作ったものである。人間が根源的に備えているものではない。誕生時に外から見た性器の形状によって、医師が「男性」「女性」のどちらかに割り振る。それをもとに、それぞれ「男性」「女性」として社会の中で、教育されていく。つまり、「男性」「女性」とは、人が成長する中で形づくられていくものなのだ。それを考えれば、クィアジェンダーという存在も社会が作っているものだと分かる。

 これまでのことをまとめてみる。まず「男性」「女性」とは、人々が作り上げたものである。その中で生まれてきた人々は、それぞれ外見から判断されて、教育される。しかし、その作り上げたものは、「男性」=「公」、「女性」=「私」という本来全く関係のない図式である。そして、それが構造的暴力に繋がり、現在のジェンダー問題へとつながっている。

 そのようなことを勉強すると、私はどういう状況に置かれているかに気付く。私は、最初に述べたように「男性」である。その時点で、クィアジェンダーというマイノリティではない。また、「公」の場面においても当たり前のような顔をしていられるだろう。「女性」が「名誉男性」にならなければならないのも、経済的に苦しくなるのも、「公」においてマイノリティだからである。
 それは初めにも述べたことに繋がる。すなわち、勝手に与えられた「男性」というマジョリティに位置する。そして、それに相当な特権性があるという不思議な状況にあるのだ。

マジョリティはどうすれば?(私の感想)

 

 以上のように、ジェンダー問題の一側面を見てきた。私は、上野さんの本で書かれていた、これからのジェンダー問題は「男性」が考えるものだというメッセージがとても印象的だった。それは、当たり前と言えば当たり前の話である。こうした大きな問題は、マジョリティとなる存在が考えなければ解決しようがないからだ。

 私は、マジョリティである者としての一種の義務感から、ジェンダーについて少しではあるが勉強してきた。しかし、現在の状況としてジェンダー問題について取り組む人びとは、多くが「女性」である。「男性」はいまだに本当の意味で考えようとしていない人が大半だ。(ポストフェミニズム、「女尊男卑」の言説などを見れば明らかである)

 このことは、多くの人々がジェンダーの問題を、構造的暴力として捉えきれていないことによるのではないかと思う。そうした構造が見えていないからこそ、「生きづらい世の中になった」などと平気で言ってのけられるのだろう。「男性」が「生きやすい」世の中であった時、その負担はどこに行っているのかは言うまでもない。

 ただし、ジェンダーの問題は身体を伴うため、構造が見えづらいという部分もある。「男性」が「女性」を守りたいのは本能から来るものだ、という考え方は、身体的な要素から構造が見えにくくなっている例の1つとして挙げられる。もちろん、「男性」「女性」自体が人間の生みだしたものである以上、このような考え方は成立しない。この考え方自体が、人工物である。そうした考え方がもう少し広まっていけば、「男性」のジェンダーへの意識自体も少し変わってくるのではないかと思う。

 しかし、このようなマジョリティの関心(=本当に検討しようという姿勢)が向けられない事象は、数多くある。日本に住む外国人の人が直面する問題にもマジョリティは、目を向けない。そこにも、構造的暴力を見ていないという状況がある。

 と、ここまで長々と書いてきたが、社会構造の問題だという観点で見れば、こうしたマジョリティもマイノリティに目を向け、本当に考えるようになるのではないか。私は研究者でもないが、その観点からマジョリティの1人として考えられる部分は、考えないといけないなと思っている。そしてそれがマジョリティとしての責任であるとも思っている。



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