見出し画像

オーパ!を歩く

久しぶりに図書館に立ち寄った。
私の図書館での本の探し方はゆっくりと背表紙を追いながら書架を回っていく。辞書でぱらぱらめくりながら、気になった箇所を読んでいる感じ。
何か読みたい本があれば検索することもあるが、自分が入手する情報は限られた範囲であり、むしろ足と目と手を使いながら時間をかけて書架を渡り歩くということを好んでいる。

菊地治男氏は初めて出会ったが、開高健氏のオーパ!は読みたいと思っていたので思わず、ぱらぱらと読んでみた。

開高健とオーパ!を歩く :菊池 治男|河出書房新社 (kawade.co.jp)

菊地治男氏は、20代に雑誌編集者として開高健氏と出会い、オーパー!の
アマゾンの旅に同行した。
そしてそのアマゾンの旅をした33年後に菊地治男氏は、当時進んだルートを辿りつつ、開高健氏の思考や行動パターンを裏話も含めて語っておられる。

3室に太陽牡牛座、水星があり、旅をしながら表現された文章や写真には強く惹かれ、本書も一気に読んでしまった。

その中で、私自身が過去に出会った角幡氏の書籍を通して出会った開高健氏と三島由紀夫氏との対比と同じように菊地氏も「金閣寺」を引用されておりとても驚かされた。

書くことの不純|junchan (note.com)

ブラジリアという都市がジェット機を模して造られたと聞いたとき、反射的に思い出したのは永遠の青春文学「金閣寺」の一節だった。
そこには三島由紀夫が腕によりをかけた。観念美の極致みたいな文章で、空間ではなく「時間」の海をわたる黄金の船ー人間の寝静まった夜にその金色の屋根を帆のようにふくらませ、時を越えて出航する「金閣」が描かれていた。

開高健とオーパ!を歩くから引用


角幡氏も「書くことの不純」で語られていたが、開高健氏はベトナム戦争の戦火の現場から生存して帰国し、その後に戦火なきジャングルで戦争を意識しないでいい場所として楽しもうとされていた。
そのことを同行されていた菊地氏も釣りを楽しもうとされつつ、どこかでベトナムの戦火をアマゾンのジャングルに投影されていたのかもと語られていた。

開高健氏は「輝ける闇」、「夏の闇」を発表され、「闇」の三部作最後の小説「花終る闇」は未完として死後に文芸雑誌に発表されたようだ。
私はまだ、この一連の作品は読んでいないので、本書との出会いをきっかけとして「オーパ!」も含めて読んでみたいと思った。

「オーパ!」というのがブラジルの現地の人が驚いたり感心したりするときに発する簡単詞とのこと。開高氏自身がこのタイトルを提案されたようだ。
開高氏がアマゾンの旅を通して驚いたり感動したことを表現したいと語られていたことが見事に象徴されている。
私自身、予定調和で終わらない表現に強く惹かれるので、この「オーパ!」というタイトルにはとても響くものを感じた。


本書は時代の流れにとらわれず、菊地治男の記憶を中心に語られているが、
ニューヨークの街を表現することに関しての開高健氏の話がとても興味深かった。

「俺なら、ブロードウェイで書く。ブロードウェイを縦に歩いて、それで、そのとき、そこから見えたもの、聞こえたものだけで書く」
(中略)
「しばりを設ける」ということを言っているのだと直感した。表現の向かう対象を「しぼる」ということを言っている。
そこにはないはずはない様々な制限を、制限があるからこそ、それらを逆手に取ることから、新しいものの見方が生まれる。つかみどころなく拡散するものにつかみどころができる。

開高健とオーパ!を歩くから引用


制限のある形式である俳句、制限された機能なコンデジでの写真を
通して、逆に予定調和で終わらないものを日常性の中で発見したいという私の思いとシンクロした。

制限がある中で|junchan (note.com)


アナログ的に書架を歩いて出会う本は、どこかタロットカードや夢と同じように必然的な要素を含んで出会える感じがしている。

旅の作家である開高健氏の本を集中して読んでいこうと思う。



初めての島はじめてのレモンビール

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?