見出し画像

書くことの不純

恥ずかしながら、今迄、角幡唯介氏のことは知らなかった。
先日、角幡氏の「書くことの不純」という本と出会った。
タイトルに惹きつけられ、ぱらぱらと読んでみたら、極地を旅する冒険者の本かなと読みだしたが、まったく予想した内容ではなく、その卓越した洞察力と文章力に衝撃を受けた。

書くことの不純 / 角幡 唯介【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア (kinokuniya.co.jp)


「行為は純粋で、表現は不純である」という角幡氏のメッセージは、極地での極限状態を通して得られたもので、表現することに対して核心を突いたメッセージだった。

角幡氏は、自分の内側から湧きあがる衝動に従って行動をし、その行動をもとに執筆等の表現を重ねてこられた。
ホロスコープの視点で見ると、まさに太陽意識で行動を重ねてこられたのだと思う。そしてその行動の積み重ねられる過程で、自分の内側に表現者としてのもう一人の存在を自覚され、表現者が主になって行動を促していくという側面に意識を向けられた。
表現は不純であるという背景は、表現者という立場が大衆を意識したもの、ホロスコープ視点で言えば、大衆性、人気を司る月星座の要素を含んだものだからだと思う。

角幡氏の行為者と表現者という2つの立場で揺れ動く葛藤を三島由紀夫氏や開高健氏の作品を通して、驚くばかりの深い考察をされている。
私も三島由紀夫氏の作品は好きで、本書であげられている「金閣寺」も含めてかなり読んではいたが、角幡氏のように金閣寺に登場する主人公と三島由紀夫の内面の葛藤を重ねて読みこむことまではできていなかった。

私は角幡氏自身が、極限状態での行為と表現を重ねられたことで、そこに含まれる普遍性を見事に言葉化できたからこそ、三島由紀夫氏や開高健氏における葛藤も作品を通して明確に抽出して整理できたのではないかと思う。

極地での行為などは私とは全く相容れない領域であるが、角幡氏のメッセージは、表現する立場の人に対しては、普遍的な内容として伝わってくると思う。

日常のジャーナリストとして、日々の暮らし、身近な世界を俳句、写真や文章で表現を重ねている私においても、まさに同じことが言える。
日常の行為とそれを表現する過程で、読み手というものを意識している自分は確かにいる。この部分はあまり具体的に記載すると差支えがあるので、何となく匂わす感じの表現にしたり、これ以上は曝け出せないという私の一線というのはやはり持ちつつ表現している。


角幡氏は、ある若い記者から「角幡さんの探検って社会の役に立ってないんじゃないかっていわれませんか?」という質問を受け、絶句し、そのことが本書を書くことのきっかけとなったようだ。

本書のあとがきに本居宣長のもののあはれをふめて次のように語られている。

生きることはなんなのか。それは、何かに触れ、経験し、深く感じいり、心を揺り動かされ、それを誰かに伝えることだ。本居宣長(=加藤典洋)の〔もののあはれ論〕が言うのはそういうことだ。自分の思いが誰かにも伝わり。一緒になって、本当だ、面白いね、と言ってもらえたら、この反応によってその人は救われる。その揺れ動かされた感情のなかには、その人がたどってきたすべての道が埋めこまれており、正当であると認められることの証になるからだ。だから古代人はもののあはれを歌に託したし、親は子供の年賀状を作る。
ここに人の生きることのもっとも根源的な原理と、表現の原型があると思う。私はこれからも行為を文章表現におきかえるだろうが、この表現の原型を忘れないようにして書いてゆきたい。

書くことの不純のあとがきより引用


角幡氏のすさまじいばかりの行動力の文章力が気になり、そこに働くエネルギーを知りたくて彼のホロスコープを少しだけ読ませていただいた。
太陽水瓶座であり、風のグランドトライン、カイトというアスペクトが形成され、柔らかさも兼ねた激しいエネルギーの集中を感じた。

これから角幡氏の他の著書も少しづつ読んでいきたいと思う。



さくら咲き酒屋の奥に椅子五脚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?