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極夜行


角幡唯介氏の「書くことの不純」を読み、そこで引用されていた夢枕獏氏の「神々の山嶺」、角幡氏の「空白の五マイル」、「極夜行」を読んだ。

書くことの不純|junchan (note.com)

フィクションではあるが、角幡唯介氏が未踏のルート、場所を追求していく姿勢が、主人公の羽生と重なり、何故、山に登るのかという自分自身への問いかけにおいても物語の中で深められている内容で、とても面白かった。

角幡氏自身の「空白の五マイル」、「極夜行」は、ノンフィクションであり、死と向き合う出来事も含めて想定外のすさまじい冒険記であった。

角幡氏は新聞記者を数年間されていたこともあり、歴史的な事実や引用文献等の調査が緻密であり、おそらく未踏の地に行かれる際も同じように周到な調査と準備をして行かれるのだろうと思った。

しかし、別の探検家の40歳の事情を読むと忘れものが酷いことも書かれていたりして、逆に親しみを感じた。

「空白の五マイル」はチベットのヤル・ツアンポー川の未踏のルートを単独で「極夜行」はグリーンランドの極地で極夜の期間に犬と単独で。

「極夜行」では闇夜の中でのツンドラ大地の移動で、後半にその闇の世界、月の支配、そして太陽のひかりに関して、原初的な体験であったと書かれていた部分がホロスコープの太陽と月という側面とも重なり、とても興味深く読ませていただいた。

闇夜の世界のにおける月の絶対的かつ抑圧的な支配力を実感し、古来、天体というものが人間にどのような本質的な力をおよぼしてきたのかを身体で認識した。そして氷床で猛烈に吹き荒れる嵐の中で死をみつめながら不意に妻の出産シーンを思い出したとき、私は人間にとって光が希望なのは誕生の瞬間に光に包まれるからであり、自分が極夜の果ても昇る太陽を憧憬してきたのも出産の追体験をしたいからだということに思い至った。

極夜行から一部引用


未踏の地に死をみつめながらの壮絶な体験を通して、身体で認識された天体の働きは、机上の学びとは明らかに異なるように思う。

私は高所恐怖症で、危険なところには近づかない臆病なタイプであるので角幡氏の生き方とは正反対の領域にはいるが、アセンダント天王星であり、ハラハラするような話には惹かれるものがあり、2冊の本も一気に読ませていただいた。

未踏の地での非日常の世界のみならず、日常においても天体、惑星の働きは私たちに働いている。
変化のない日常では、太陽の輝きも含めて与えられていることが当たり前という感覚になりがちであり、改めて、惑星の働きを日常の中で意識していくことの大切さを感じた。




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