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【1万円札紙幣・第1章】隋の煬帝をブチ切れさせた聖徳太子の叡智と魅力。


みなさん、わたしのnoteをご覧いただきまして、ありがとうございます😀


私たちは、当たり前のようにお金のために働いています。

そのお金の象徴といえば、1956年に聖徳太子から現在の福沢諭吉まで発行された1万円札です。
来年、2024年からの一万円札の新しい顔は、渋沢栄一です。

近年はキャッシュレス化が進み、お札を見る機会もぐっと減りましたが、改めてこの3人の偉人に注目したいと思います。

1万円札のこと。

肖像画が使用された3人の主張とは?

聖徳太子は、仏教の普及に貢献し、十七条憲法を制定するなど、日本の歴史に大きな影響を与えた人物。1956年から1万円札に描かれている。

福沢諭吉は、日本の教育者、ジャーナリスト、政治理論家である。近代化と国家の独立を唱えた。日本の代表的な私立大学である慶應義塾大学を創設したことで知られている。1984年以降、10,000円札には彼の顔が描かれている。

渋沢栄一は、明治日本の代表的なビジネスリーダーであり、起業家であった。近代日本の発展に大きな役割を果たし、多くの大企業、銀行、鉄道の設立に貢献したと言われています。2024年から10,000円札に描かれる予定です。

3人の偉業を讃えるだけでなく、共通しているのは「公共事業への取り組み」です。

聖徳太子は公益のために宗教を広めようとし、福沢は弟子たちに学問と知識を愛する心を植え付けようとし、渋沢は近代日本の建設に努めた。この3人の人物は非常に尊敬されており、尊敬と承認の証として1万円札に顔が描かれることになったのです。

結論として、1万円札は日本のお金の象徴であり、1956年の最初の発行以来、聖徳太子、福沢諭吉、そして、これからも渋沢栄一という3人の偉人を称えていくことでしょう。

聖徳太子、福沢諭吉、渋沢栄一の3人は、いずれも公益事業に尽力し、後世の人々のためにより良い日本を築こうとした人物。

この記事は、彼らの思い出を称えるとともに、公務の重要性と公益のために身を捧げることの大切さを再認識させるものです。

今回は、それらを踏まえて、その第1章として、聖徳太子について書いていきます。


紙幣の肖像としての聖徳太子


聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣五千円紙幣一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。

特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。


聖徳太子の生涯とその主張。中国・隋煬帝への国書。


日本の聖徳太子は、政治改革や外交行為で知られる歴史上の人物である。607年、中国の隋の2代皇帝・煬帝に国書を送り、中国の支配から日本が独立することを宣言したことで知られている。この国書は日本外交の礎となったとされ、現在でも研究されている。今回は、皇帝に宛てた国書から見える聖徳太子の生涯と主張について探ってみよう。


聖徳太子の生涯


聖徳太子は、西暦574年に日本で生また。皇族であり、飛鳥時代の推古天皇の摂政を務めた。摂政として、皇室支配の基礎を築いた偉大な改革者として記憶されている。また、仏教を強く支持し、日本各地に多くの仏教施設を設立した。さらに、彼は多作で、彼の作品は今日でも研究され、賞賛されている。

隋の皇帝に宛てた国書



607年、聖徳太子は中国の隋の皇帝に国書を送った。この国書は、日本が中国の支配から独立することを宣言したものであった。聖徳太子はこの手紙の中で、日本の主権と、他国との外交関係を独自に行うことを宣言した。また、日本が中国とは異なる独自の国家であることを主張。この書簡は、日本の外交政策の基礎となるものであり、その言葉は現在でも研究されている。

日本の王から煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼有らば、復た以て聞する勿かれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。

なお、煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出処」「日没処」との記述に対してではない。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった。

小野妹子(中国名:蘇因高)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。


その他の聖徳太子の主張



国書のほかにも、聖徳太子は生前、さまざまな主張をしています。日本は中国や他の国と対等であり、そのように尊重されるべきであると考えた。また、外交政策として平和友好を主張し、中国や他の国との平和的な関係を提唱した。また、宗教の自由と寛容を主張し、仏教と神道の相互尊重と理解を提唱した。さらに、教育の重要性を説き、すべての国民が国家標準の教育を受けるべきであるとした。

おわりに



聖徳太子は偉大な改革者であり、政治的指導者であり、学者であった。中国の隋の煬帝に宛てた国書は、日本の中国支配からの独立を宣言し、日本の外交政策の礎となったと考えられている。また、平和と友好の外交政策を打ち出し、宗教の自由と寛容を提唱し、教育の重要性を説いた。今日に至るまで、彼の作品は賞賛され、研究され、その遺産は記憶されている。

聖徳太子を題材とした作品

小説

漫画

テレビドラマ


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