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【秦始皇帝から歴代王朝へ】伝国璽の物語―失われた玉璽の秘密

伝国璽とは、中国の歴代王朝や皇帝が正統な帝権の証として受け継いだ玉製の印章のことです。秦の始皇帝が丞相の李斯に命じて、最初に作ったとされ、その表面には「受命於天、既寿永昌」という文字が刻まれていました。

この漢文は「天から命を受けて、長寿で永く栄える」という意味です。

受命於天、既寿永昌

概要


伝国の璽は、秦から前漢、後漢と渡りましたが、後漢末期に董卓の乱で失われました。その後、魏、西晋、漢(前趙)、後趙、冉魏ぜんぎ、前燕、前秦、東晋、南朝六国と移動しましたが、五代十国時代に後晋の出帝が遼に捕らえられたときに紛失しました。以後は行方不明となり、後世の歴代王朝は模造品を伝国の璽として使いました。

清の乾隆帝が所持していたとされる模造品

✅形状とサイズ

伝国璽でんこくじは、一辺が4寸(約9cm)の四角形で、上部が丸くなった形状をしており、上部の綬ひもをかけるところには5匹の龍が彫られていて、そのうちの1匹の龍は角つのが欠けていました。

✅伝国璽と歴代王朝


秦 
始皇帝が前221年に中国を統一。秦始皇帝~三世の子嬰まで。子嬰が咸陽に入関した沛公劉邦に降伏して伝国璽を献上する。このとき同盟者であり、のちに敵対関係となる西楚覇王の項羽に渡ったという記録はない。

前漢 
高祖劉邦から歴代皇帝。皇帝の外戚の王莽が最期の皇帝候補の孺子嬰から印璽を奪う。これが禅譲に見せかけた帝位簒奪の始まりとなる。  

新 
王莽が、反乱軍討伐に向けた100万と号する(実質は40万程度)官軍が僅か1万の更始帝配下の劉秀軍に昆陽で撃破、壊滅される。錯乱する王莽は首都常安(長安)に乱入した漢の更始帝劉玄の配下らによって殺害された。伝国璽は奪われ、新は秦同様15年1代で滅亡した。

更始帝(劉玄) 
赤眉軍は一度は更始帝へ帰順したが、離反し始めたため、更始帝と対立。建武元年(25年)、赤眉軍は樊崇と徐宣が関中に侵攻し、漢宗室の劉盆子を皇帝に擁立、また、更始帝の軍内部で権力闘争があり、赤眉軍は長安に入城。投降した更始帝を殺害し、伝国璽は劉盆子に渡る。

赤眉軍 
光武帝劉秀配下の馮異・鄧禹の軍は赤眉に大敗を喫したが、馮異は兵数万を呼び戻して再戦。これに大勝して赤眉軍の八万を降伏させた。赤眉軍の劉盆子と樊崇らは、光武帝に伝国璽を差し出して降伏。隴の隗囂と蜀の公孫述を下した光武帝は、中国を再統一し漢室を復興させた。

後漢 
初代光武帝から献帝まで受け継がれた。
光武帝は、建武中元2年(西暦57年)、日本の倭国の使者へ伝国璽を模した純金の王印を授けている。これが有名な、江戸時代に発掘された、福岡県志賀島出土の金印である。今日に至るまで、長らく真贋を巡り意見が対立しているが、その結論は未だ出ていない。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」によると、このように記録されている。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

                                        — 強調引用者

Wikipediaより引用
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)
1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。


巨鹿の太平道の頭領、張角による黄巾の乱後、董卓に奪われる。後漢の献帝は、魏王曹操の子の曹丕に伝国璽を差し出して退位。後漢は滅び、魏が建国。劉備が対抗して蜀漢を建国した。

魏 
董卓の所持していたと思われる伝国の璽は、初代皇帝の文帝曹丕に渡り、元帝まで伝わるが、司馬一族によって帝位は簒奪され、武帝司馬炎が呉を滅ぼし、三国を統一する。

西晋 
武帝は、天下を統一して慢心し、中国全土に結婚禁止令を発令する。後宮に美女を1万人などいう酒色に溺れた武帝のために、膨大な増税に民百姓は苦しめられ、国政は大いに乱れた。291年、武帝死後、八王の乱が勃発する。306年まで、この王族の内戦は続いた。311年、これを機と見た匈奴の漢は、南下して、永嘉の乱を起こした。漢(のちの前趙)の劉曜と王弥、石勒により、首都洛陽を落とされ、西晋の懐帝は玉璽とともに平陽に連行、拉致された。恵帝の皇后羊氏に至っては劉曜の妻とされた。次の懐帝は生かされたものの、劉聡により奴僕の服装をさせられ、厠(便所)のフタの開け閉め係、酒宴で酒を注ぐ役や杯洗い、劉聡外出の際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ、人々からは晋皇帝のなれの果てと嘲り笑われて、屈辱を嘗めつくした後の313年1月に処刑された。次の皇帝の愍帝も懐帝同様の扱いをされて殺される。こうして西晋は武帝司馬炎の血統が全て途絶え、事実上滅亡した。いっぽう、西晋の皇族であった司馬睿は江南で皇帝に即位。これを東晋と呼び、以降は「東晋五胡十六国時代」と呼ばれる漢民族と異民族の入り乱れた中国は大乱立状態となる。

漢(のちの国号は前趙) 
歴代皇帝が所持。五代目の皇帝劉曜が石勒に長安を落とされ、伝国の璽は奪われた。

後趙こうちょう
初代元帝の石勒から歴代皇帝へ。4人の皇帝が所持していたが、石勒の養子で漢民族の冉閔(ぜんびん)に滅ぼされて伝国の璽は奪われた。

冉魏ぜんぎ
初代皇帝の冉閔は羌族の姚襄の軍に大敗。そしてこの混乱を突いて4月に前燕の慕容恪らが幽州から南下して冉魏を打ち破り、冉閔は処刑された。伝国の璽は前燕にわたる。352年5月、東晋は前燕の慕容評に加勢した。東晋の濮陽郡太守、戴施は救援を要請する前に先に伝国璽(伝国璽は元々西晋にあったが、永嘉の乱により前趙の手に落ち、後趙を経て冉魏に渡っていた)を差し出すよう要求した。戴施は蔣幹を説得して伝国璽を建康に送らせた。

前燕 
370年9月、前秦は6万の軍を動かして前燕に攻勢をかけ、前燕も40万の軍を慕容評に与えて対戦させた。11月には前秦の苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落し、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した。

東晋~南朝宋(劉宋)、南朝斉、南朝梁、南朝陳の歴代南朝。
陳が隋によって滅亡、隋が中国を統一した。

隋 
589年、陳から伝国璽は、初代文帝へと伝授されるが、二代目の煬帝が重臣の宇文化及に殺害され、隋の恭帝侑は李淵に禅譲し、伝国の璽は唐に渡る。

唐 
歴代皇帝が所持したが、黄巣の乱後、唐は朱全忠(後梁の太祖)に滅ぼされて伝国璽は後梁の太祖に渡る。

後梁こうりょう
歴代皇帝。後梁政権の勢力は甚だ脆弱であり、その範囲は中国全土には及ばず、後梁は後唐によって滅ぼされ、3代16年の短命をもってあっけなく滅んだ。

後唐
歴代皇帝。936年、後晋軍は李従珂を戦いで破り、後唐を滅ぼした。(後唐の滅亡)

後晋
944年12月、遼によって開封は落城し、少帝(石重貴)は契丹(のちの遼)に拉致されて後晋は滅亡。戦争の混乱の中で、伝国の璽はこの時に完全に紛失した。

✅伝国璽が引き継がれたと思われる期間

前221年~944年まで。 1165年間。

以上のように、伝国璽は後晋の出帝しゅってい・すいていが遼に捕まった時に失われた。その後は見つからず、新たに作られた偽物が使われた。その後、北宋、南宋、元へと伝わる。

1368年、元は紅巾の乱から台頭した、朱元璋率いる明の北伐によって、首都北京を落とされたが、朱元璋は『もはや伝国璽は無意味で必要ない』として受け取らなかったという。北へ逃亡した北元が後金に降った時に、その偽物が後金のホンタイジに渡った。ホンタイジは伝国璽を持って中華皇帝になり、大清国を建てて明と戦った。

1644年、明末の反乱軍の首魁である李自成によって、首都北京が陥落。明の崇禎帝は自殺し明は滅ぼされ、李自成は順を建国し皇帝を称した。ところが、間もなく清の順治帝の叔父ドルゴン、明から寝返った山海関を守備する呉三桂と明の遺臣の連合軍が、李自成の「順」を破り順治帝が北京に入関し、李自成は地元の自警団に殺害された。これによって順は滅ぶ(順の40日天下)。清は辛亥革命で倒されるまで、中華帝国最後の王朝となった。
秦・始皇帝から数えて2133年。清・宣統帝溥儀は最期の皇帝となり、ラスト・エンペラーと呼ばれていることは、余りにも有名な話である。

始皇帝が皇帝即位時に言い放った言葉「秦皇帝は、一世、二世と万世に渡って継続するものである」と豪語した皇帝制度は、王朝を変え、皇族が目まぐるしく変遷しつつも継続されたが、ここに完全に終結を迎えた。

順は中国の正統国家なのか??

順は長期安定した政権としての基礎を築く以前に崩壊、滅亡している。そのため、清および中華民国中華人民共和国のいずれでも順については正史が編纂されていない。歴代王朝のように「順」と省略して呼ばず、正式名称の「大順国」で通して表記されることもある。

しかし明は清により滅亡したのではなく、順の建国を宣言した李自成の勢力により滅亡したことは歴史的事実である。その後清は簒奪者李自成の打倒を大義名分としてその勢力を滅ぼした後に中国支配に着手している。そのため李自成の順を地方政権としてでなく、明清交代期に存在した短命王朝として扱うべきであると言う意見も存在する。

また中国では共産党による階級闘争史観の影響により農民反乱により政権を打倒した李自成を高く評価する傾向もある。

Wikipediaより引用

✅伝国璽のエピソード

『漢書元后伝』によると、前漢末期には、王莽が帝位を簒奪しようとしました。その際、太皇太后であり、玉璽を保管していた伯母の王政君(孝元太皇太后)に、玉璽を渡すように求める使者を送りました。

しかし、これに激怒した王政君は、王莽を「(漢の皇帝のおかげで今の私たちがあるのを忘れた)恩知らず」と厳しく非難し、使者に向けて伝国璽を投げつけました。そのため、伝国璽のつまみの部分にあたる龍の角の一部が欠けてしまいました。

後に、金でその部分を補修したと言われています。これは本物の伝国璽である証拠とされていますが、確定的ではありません。

また、後漢末期に曹丕が献帝に対し禅譲を迫った際にも、曹丕の妹である献帝の皇后の曹節が同様の行動をとって、伝国璽を投げつけたという似たような逸話が『後漢書曹皇后紀』にも記載されています。

✅伝国璽のゆくえ

後漢末期、呉の孫堅は董卓を討つ際、洛陽の焼け野原から伝国璽を見つけたと言われています(『三国志』『孫堅伝』の注にある『呉書』による)。

その後、袁術は皇帝を自称する際、孫堅の妻である呉夫人を拘束し、伝国璽を奪いました(『三国志』『孫堅伝』の注にある『山陽公載記』による)。

しかし、『三国志』の注釈を見ると、裴松之は孫堅は忠義の士であり、玉璽を隠すはずがないと述べています。

また、『三国志演義』でも、孫堅は洛陽で伝国の玉璽を入手したエピソードが描かれており、孫堅の死後、長子の孫策は伝国の玉璽を袁術に渡し、独立のための兵を借り受けました。

その後、袁術は伝国の玉璽を手に入れたために皇帝を僭称することになります。

まとめ

伝国璽は、中国の歴代王朝の正統性を象徴する玉製の印章です。秦の始皇帝が霊鳥の巣から見つけた宝玉で作ったとされ、その後は漢や魏などに受け継がれました。

しかし、五代十国時代に後晋の出帝が遼に捕らわれた際に失われ、その後の王朝は模造品を使っていました。伝国璽には、王莽や曹丕が皇帝になろうとした時に投げられて角が欠けたという逸話や、孫堅が洛陽で見つけたが袁術に奪われたという話など、様々な歴史的なエピソードがあります。

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