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安藤敬而の恋愛短編『十月桜に君を呼ぶ』

『怪獣8号 密着! 第3部隊』が絶賛発売中の新鋭・安藤敬而のオリジナル短編を掲載します。演劇部の顧問である藪と、ただひとりの部員・鈴城は、文化祭での演目を決めかねている。しかしたまたま鈴城が手に入れた謎の戯曲が事件のはじまりだった……。最後の最後まで見逃せない、青春ミステリです。


十月桜に君を呼ぶ


 新卒で入った大手化学系メーカーは、異常なノルマと、度重なる上司のパワハラが原因で四年で辞めた。民間企業はこりごりだと悟った俺の選択が、母校である中高一貫の私立高校の教師だった。人手不足ということもあり採用はあっさりと決まった。

 教師はまことに大変な職業だと思う。社会経験のない少年少女たちを見守り、勉強を教え、部活動を監督し、時には人生の指針を与える。残業時間は多く、それに見合った給金は出ない。なるほど、これは未来ある青少年を正しく育成するという熱意のある人物にこそ相応しい職業だ。学生時代になんとなくで教職を取った人間――つまり俺なんかが就いてよい職業では決してないだろう。

 幸いにも、あるいは不幸にも、俺は企業でほどほどに手を抜き、ほどほどに頑張る方法を覚えていた。大変ではあるが、前職よりは向いていると感じた。大きな不満は仕事中に煙草が吸えないことくらいだ。まだ俺が高校生だった頃、旧体育館裏にあった喫煙スペースは今や撤去されており、校内は完全禁煙になっている。

 部活の顧問はやりたくない。残業代もたいして出ないのに働く、ましてや休日が奪われるなど論外だ。やるなら楽で、ろくに指導の必要もなく、なおかつ自分も精通している――そんな部活がいいと思っていたので、演劇部を引き継げたのは行幸だった。十年以上前、この高校の演劇部はそれなりに活発だった。高校演劇は全国大会もあり、強豪校では運動部に負けず劣らずの練習が日夜行われる。だがここ数年はコロナのせいで校内上演さえも規制が続き、部員は激減。今や風前の灯火。廃部寸前で部員のやる気もないらしい。てきとうに傍らで見ておけばいい。こんな楽な顧問はない。

 そう勘違いしていたのだ、俺って奴は。

 

 空には魚の鱗のような鰯雲が浮かび、風によって落ち葉が飛んでいる。少し肌寒い秋の日だった。この高校には新体育館と旧体育館の二つがある。新体育館は十年前に建設されたらしく、俺の高校時代にはなかったものだ。だいぶ老朽化している旧体育館の横、背後に街路樹とフェンスが広がる場所に俺はいた。パイプ椅子を置き、膝の上でノートPCを叩く。来週の授業の教材研究を進めなければならない。

「――ああ、しかしメロスよ。見てみたまえ」

 俺の正面には、旧体育館内へ入る扉があり、そこには三段の石段が組まれちょっとしたスペースになっている。その石段の上に一人の女子生徒が立っていた。肩口まで伸びたショートヘア、身長は一五〇センチにも満たず、女子の中でも小柄な方だ。しかしそんな小さな体のどこから出ているのかと思うほど、彼女の声は溌剌と響く。

 彼女は正面へ大きく手を広げた。

「ほうら、よく見たまえメロス! 君の持ってきたお弁当箱を。中身が全て零れ落ちているではないか。……ああ、なんということだセリヌンティウス。僕はこの中に寿司が入っていることなどすっかり忘れていたのだよ。勇者は酷く赤面した」

 女子生徒は石段の真ん中へと戻り、深々と頭を下げる。

 顔を上げた彼女は微笑み、椅子に座る俺に問いかける。

「どうでした、藪先生?」

「ん、あー……」俺は拍手する。「いいんじゃないか?」

「全然良くないですよ~!」演劇部ただ一人の部員、鈴城は腕で大きなバツ印を作った。「駄目ですよこれ~! なんか全然しっくりきません!」

「いや、普通に面白かったって。令和版走れメロスね。よくできてる」

「本当ですか~? このお弁当を抱えて走るメロスで本当にいいですか?」

「メロスなら教科書に載ってて基礎知識もいらんしな。まあ、いいんじゃないか」

 俺は予め鈴城から受け取っていた戯曲を見る。早い話が太宰治の『走れメロス』の現パロだ。高校生のメロスと同級生のセリヌンティウス、王様は教師という設定になっている。中学の頃から演劇をやっていたらしく、鈴城の演技は上手いし滑舌も良く聞き取りやすい。

「駄目ですよ~! 公演時間長すぎ! 役数も多すぎ! これじゃ二十分に収まらないです! 私的にはシナリオもキャラもしっくりきてないですし!」

 演劇部は夏の地区大会であえなく敗退し、三年は引退していた。部員は鈴城一人である。廃部とまではいかないが、三週間後に控える文化祭では成果発表の場を設けることが決まっている。ホールで二十分時間を取り、全校生徒の前で公演するのだ。中等部の生徒の他に一般客も多くやってくる。来年度の部費査定にも影響する重要な場だ。

 この『令和版走れメロス』は過去に演劇部の生徒が書いた脚本だ。しかし、そもそも演劇部にある脚本は大会用で一時間の公演を想定している。おまけに演者が多く、鈴城一人で上演するのは端から難しい。

「ネットに脚本が載ってるものから選べばいいんじゃないか」

「全国大会も上位は生徒や顧問創作の脚本が多いじゃないですか~。やっぱり初見の作品ってわくわくしますよね? 私も自分だけの脚本を演じたいな~って思ってるんです」

「……まあ、気持ちは分からんでもないな」

「私も脚本書こうと思ったけど、全然無理でしたし。誰かに頼めないかな~」

「素人が面白い脚本なんてそうそう書けないだろ」

「そうなんですよね。あ、藪先生が書いてくれてもいいですよ!」

「は、俺?」

「藪先生、高校の頃うちの演劇部だったんですよね? 顧問創作って大会の鉄板ですよ! 顧問の強さが演劇部の強さに直結することも多いです!」

「話聞いてたか? 素人には無理だって言ったろ」

 俺は大きく伸びをする。身体がぱきぱきと鳴った。

「まあ、どこかで妥協するしかないだろ。文化祭まで時間もないんだからな」

「む~……」と鈴城は不満げに口を尖らせる。


 演劇部の部室はおんぼろの部室棟二階の突き当たりにある。旧体育館から離れており、歩いていくのはなかなか面倒だ。生徒の下校時刻も過ぎた頃、俺はそこに一人でやって来ていた。扉を開けば、六畳の部屋に所狭しと小道具や脚本が積まれている。自分が部員だった頃と変わらない汚さだ。

「脚本か」

 書いたことがないというのは嘘だ。高校時代には演技も、脚本も、演出も経験した。十年以上前のものになるが、探せばこの山の中に自分が書いた脚本があるはずだ。鈴城に書いたことがあると言わなかった理由は――。

「まあ、面倒だしな」

 そんなことを言えば、本当に俺が書くことになってしまいそうだ。そんな面倒ごとは避けたい。引退した三年はやる気がなく、舞台に立つだけで満足といった様だったが、鈴城は違う。彼女は演劇に貪欲だった。県大会突破を目標に掲げており、日々練習に励んでいる。本気でやる演劇はスポーツと変わりない。走り込みによる肺活量の強化、声出し……そこに加えて俺が脚本を作るとなれば、いよいよ大変だ。そこそこ働く程度でよいのだ、仕事なんて。一生懸命やれ? では将軍様、それに見合う給金を出してくださいってな。

 第一、自分は真剣に脚本について学んでいたわけではない。多くの部員がそうであるように、俺でも書けるんじゃね?と根拠のない自信を抱いていた。きっと今になって読み返せば赤面ものだ。鈴城には悪いが、脚本は自力で探してもらおう。



 その日の放課後もまた、俺は旧体育館横にいた。外周を走り終えた鈴城がやって来る。鈴城は今日も別の脚本を持ってきていた。予め脚本を読み込んでいる彼女は、石段の上でそれを披露する。部室は狭いため活動できない。たった一人では放課後に部屋を借りる許可も下りないため、鈴城は旧体育館の横を勝手に占拠しているのだ。

「――以上! 藪先生、どうでした?」

 俺はノートPCから顔を上げて答える。

「あー、いいんじゃないの?」

「ちゃんと見てください~! 全然駄目だったでしょ!? 今度のもしっくりきてない!」

「自分で結論が出てんじゃねえかよ。もう時間もないし決めた方がいいぞ」

「そんなの分かってますけど~。あ、藪先生」

 鈴城は石段を下りて俺へと近づいてきた。正面に立つと、俺の頭に手を伸ばしてくる。

「なんだよ」

「頭に桜の花ついてますよ」

「え?」

 彼女の指先には、桃色の花びらがつままれている。桜の花だ。季節は秋、言うまでもなく桜はとっくに散っている。だが、鈴城は特に珍しくもないように言う。

「別れ桜ですね。もうそんな時期なんだ~」

「ワカ……なんだって?」

「え、知らないんですか? 来てください!」

 鈴城は旧体育館の裏へと歩いていく。俺はノートPCをバッグにしまい(情報漏洩の観点から常に携帯することになっている)、後をついていった。フェンスの突き当たりで角を曲がる。体育館の裏で桜が咲き誇っていた。秋から冬にかけて咲く品種、十月桜だ。

「この時期、綺麗に咲くんです! でも藪先生、知らなかったんですか? 別に最近植えられたものじゃないし、先生の高校時代からあったと思いますけど」

「十月桜自体は知ってるよ」体育館新設などの関係で人目につかぬ場所へと追いやられてしまった不遇な桜だ。「俺が言ったのは別れ桜の方だ。なんだよ、それ?」

「学園七不思議の一つですよ。中等部の頃に流行ったんです」

 鈴城は中学からの持ち上がりだ。高校で七不思議が流行るとなると少し幼い気もするが、中学生ならばまだよくあるかもしれない。

「七不思議か。懐かしいワードだな。未だにそういうのあんのか……」

「こっち来て。これ見てください」

 鈴城が連れてきたのは一番奥だ。突き当たりにある桜の樹は奇妙だった。幹が地面のところで二股に割れている。

「二股桜、通称別れ桜です! 落雷したとかですっぽり根元から割れてるんです。でもその後も生長を続けたとか。それでこの割れてるところが空っぽになってるじゃないですか?」

 鈴城が指したのは二股に割れている幹の中だ。彼女の言う通り洞になっており、中にはたくさんの枯れ葉が詰まっている。

「なんでも昔、この桜の樹の下でとある生徒が告白をしたらしいんです。でも、その告白相手とそれはもう激しく喧嘩してしまったとか。以来、この桜は別れの象徴なんですよ」

「校庭のはずれの桜の樹とくれば、恋の成就が定番じゃないか? ときメモとか」

「うわ、藪先生さすがに古すぎです! 完全におじさんじゃないですか」

「別に俺も現役世代じゃねーよ。まだ三十手前だし……」

「何歳なんですか?」

「……二十九」

「完全におじさんですよ~」さらりと鈴城は言う。「二股桜のこの部分に、別れたい人に関連する物を突っ込むと、後腐れなく綺麗さっぱり別れられるっていう噂なんです」

「ふうん」俺は穴の中を覗き込む。「若い生徒の皆さんは面白いことを考えるな」

「拗ねないでくださいよ~」

「は? 別に拗ねてないし」

「拗ねてる人の台詞だ~!」

 笑う鈴城に背中を押され、旧体育館裏を後にする。飲み会では先生方からまだまだ若いと言われ、生徒からはおじさん呼ばわりか。

 再び旧体育館横に戻った俺は椅子に座り、ノートPCを開く。鈴城はその前で演技を続けていた。自分が納得いくまで、色々な脚本を比べ続ける。だが――。

「ん~、やっぱどれもしっくりこないです!」

 鈴城は地面に脚本を並べてうんうんと唸っている。そうは言っても時間はない。さすがにそろそろ脚本は決めるべきだが――。

 そのときである。俺と鈴城の間を一人の女子生徒が通った。今までここは人気がなく、通る人物などいなかったから少し面食らってしまう。堂々と横切るその女子生徒は猫背気味で、ブレザーのポケットに手を突っ込んでいる。顔にかかる黒髪の間から怜悧な瞳が覗く。

「邪魔だよお前ら」

 それだけ言うと女子生徒は旧体育館裏へと消えていった。校則違反であるイヤリングを着けており、近寄りがたい雰囲気があった。

「……うちの高校だと珍しいタイプだな」

 一応は私立校。不良然とした不良は見かけない。

「藪先生、知らないんですか? 有名人です。文学部の暴君こと、二年の鬼薊先輩ですよ!」

「なにその二つ名? っていうか文学部?」

 偏見だが、あの見た目からは想像できない。

「はい! 鬼薊先輩、すごくいい作品を書くんですよ! 私も一度、脚本書いてくださいって頼みに行きましたから! 門前払いされちゃいましたけど」

「アグレッシブだなお前」

 しかし、わざわざ旧体育館裏までなんの用だろう。長い間ここを使っているが、今までこの場所を通った生徒など見かけなかったが。

 そんなことを考えていた矢先、俺と鈴城の間にさらに割って入った人物がいた。

「すまない、前を失礼するよ。通してくれ」

 黒髪をポニーテールに結った、目鼻立ちがすっきりとした女子生徒だ。彼女は俺と鈴城に軽くウインクをすると、旧体育館裏へ向かっていく。まるで先ほどの鬼薊という生徒をつけているかのようだ。

「……また変わった奴だな」

「あの人も有名人ですよ。文学部の風紀委員こと、二年の嫁菜先輩ですね」

「文学部なのか風紀委員なのかどっちなんだよ」

 謎の二つ名だが、言いたいことは分かる。凛々しいという形容が似合う女子生徒だった。

「嫁菜先輩もまたいい小説を書くんです! 嫁菜先輩にも脚本を書きおろしてくれないかと頼みに行ったこともあるんですけど、やっぱり門前払いでした」

「ようやるなお前」

「それはもう本気ですし。うーん。やっぱりあの二人にもう一度頼みに行こうかなあ」

 そのとき、旧体育館裏から大声が響いた。女子生徒の怒鳴り声だ。

「……なんだ?」

 まるで言い争っているかのような金切り声が響いている。言い合いはしばらく経っても収まる気配がない。さすがに様子を見るか、と思った俺は椅子から立ち上がる。

「喧嘩でしょうか?」と鈴城も俺の後をついてきた。

「さあな。まあ、よっぽどじゃなけりゃあ介入はしたくないが……」

 角を曲がり、旧体育館裏へと行く。二人の女子生徒は突き当たり、先ほど見た二股桜の方にいた。後から来た嫁菜という生徒が、鬼薊の腕を強く掴んでいる。

「鬼薊さん! どうしてあなたって人は……こんなものを……」

「お前には関係ねーよ嫁菜。放せ」

 今にも取っ組み合いになりそうな雰囲気だ。

「……よっぽど、かもな」

 周囲に他の生徒も教師も見当たらない。さすがに見て見ぬふりはできなかった。

「おいおい、お前ら何やってんだ」

 揉み合っている二人の間に入り、無理やり引き離す。鬼薊も嫁菜も、荒い息をして、互いに相手を睨みつけている。

「落ち着けって。何があったんだ?」

「……先公には関係ねーよ」

 鬼薊は俺を見て大きく舌打ちをすると、そのまま表へと歩いていく。

「鬼薊さん! 待て!」

 嫁菜が叫ぶも、鬼薊は振り向きもしない。そのまま角を曲がり消えていった。

「喧嘩か? えっと、嫁菜さん? クラスは?」

「……二Bです」

「二B……っていうと、田畑先生のクラスか。あの、鬼薊って子は?」

「彼女も同じクラスです。……すみません、先生。後生です。今のことは見なかったことにしてもらえないでしょうか。ここでは何もなかったことに」

「ご、後生……。それに見なかったことって、な……。さすがにそういうわけにも」

 嫁菜は俺に深々と頭を下げた。

「お願いします! 私たちは怪我もしていない。どうか穏便に……」

 俺はふうと息を吐く。

「……あんま派手なことすんなよ」

「はい。ありがとうございます」

 顔を上げた嫁菜は、再び深々と頭を下げた。そのまま、鬼薊が歩いていったのと同じ方向へ向かっていく。

(……大丈夫か。また顔を合わせたとたん喧嘩しなけりゃいいけど)

 文学部の暴君、文学部の風紀委員長。見るからに相性が悪そうだ。

「なあ鈴城。あの二人ってどういう仲……おい、鈴城?」

 鈴城は二股桜の前に立っていた。彼女は手に紙を持ち、視線はずっとそれに注がれている。俺が呼びかけても、鈴城はまるで顔を上げない。俺は鈴城の肩を叩いた。

「鈴城? お前、何読んでるんだ?」

 彼女は手元の紙から顔を上げた。その瞳はきらきらと輝いている。悪い予感がする。

「藪先生、決めました!」

 鈴城は読んでいた紙を俺に突き付ける。

「私、この戯曲を上演します!」

「……戯曲だって?」

 俺は恐る恐る鈴城から紙を受け取った。計三枚のコピー用紙。そこには縦書きで台詞、そしてト書きが綴られている。戯曲――書かれているのは演劇の脚本だ。


十月桜に君を呼ぶ


 校舎裏、満開となった二股桜の下に青年が立っている。

 青年、そわそわした様子で懐から便箋を取り出す。

 じっくりと文面を読む少年。


少年:山田将司様。いきなり手紙なんて出してすみません。あなたのこと、ずっと素敵だと思っていました。ショートホームルーム後、体育館裏の二股桜へ来ていただけますか? そこで、気持ちを伝えさせてください。


 少年、大きくガッツポーズをする。


少年:……まじかよ。まじだよこれ! 苦節十七年、ついに俺にも春が来たよ。いや、今は秋だけど! この几帳面で丁寧な字、絶対にかわいい子だよ! 字が掠れてて差出人が分からんのが気になるけど……いや、そんなそそっかしいところも愛おしい! 


(音響)土を踏む足音

 少年が上手を振り向く。

 満面の笑み……からがっくり肩を落とす。


少年:……なんだ、裕太か。どうしたんだ? ん、これからゲーセン? あー、悪い。今日は用があってな。ん、もうそれは滅茶苦茶に重大な用だよ。悪いな裕太。これから遊ぶ頻度かなり落ちるかもしれねー。大丈夫だよ、大丈夫。たとえ俺がどうなっても、お前との友情は永遠だから。アデュー!


(音響)去っていく足音

 再び便箋を取り出して読む少年。


少年:まだか、まだか……。


(音響)土を踏む足音

 少年が上手を振り向く。

 満面の笑み……からがっくり肩を落とす。


少年:……なんだ、田畑先生すか。どうしたんですか、こんなとこに来て。煙草休憩すか? え、俺に用? 裕太からここにいるって聞いた? あ、進路調査票を出してないの俺だけ? いや、明日には出しますから少々お待ちを……。はい、それじゃあ……。


(音響)去っていく足音

 ため息を吐く少年。


少年:野郎に続いて先生……。なんだよ野郎ばっか来るじゃねえか。


(音響)土を踏む足音


少年:今度こそ! ……いや、期待するな。


 少年、ゆっくりと顔を上げる。


少年:ローファー……? スカート……? おお、ついに……!


 少年、勢いよく顔を上げ、そのまま後ろに倒れ込み、叫ぶ。


少年:なんだ、頼子かよ! え、母ちゃんから伝言がある? 帰りに牛乳と卵買ってきて? いや、知らねーよ。お前が頼まれたんだからやれよ。


 少年、ゆっくりと地面から起き上がる。


少年:っていうか、なんでここが分かったんだよ。田畑先生からここにいるって聞いた? あっそ。つーかな、俺はこれから用があるんだよ。超重要な。お兄ちゃんは大人の……え、なに? 彼氏と待ち合わせてるからもう行っていいか? お前、彼氏いんの? 先月から? ……あっそ、ふーん。まあ別に? あっそ? ふーん……。



 がっくりと肩を落としている少年。

(音響)カラスの鳴き声。下校時刻十分前です、という校内アナウンス


少年:なんだ。結局こうかよ。わざわざ二股桜の前なんかに呼び出されたらさ、期待すんだろ。いいさ、俺には放課後に野郎とつるんでいるってのがお似合いなんだろ。帰りに牛乳と卵を買って……。


(音響)土を踏む足音

 少年が顔を上げる。

 花吹雪が舞う。


少年:ああ。お前は――。


「……」

 俺が二枚目まで目を通し、最後の三枚目を読もうとしたところで。

「どうですかどうですか藪先生、この戯曲!」

 横からぐぐっと、鈴城が身体を寄せてくる。

「まだ最後まで読んでねーよ」

「私もまだ二枚目までです! 藪先生に一刻も早く読んでほしかったので! さ、最後のページを捲ってください! 一緒に読みましょう!」

 鈴城は興奮気味にページを捲ろうとする。そのときだ。一陣の風が辺りを吹き抜けた。地面に広がる落ち葉を、そして俺の手にある原稿が風に舞った。

「わわわ~!? 何やってるんですか、藪せんせぇ~!」

「わ、悪い!」

 飛び散った原稿を、慌てて鈴城が追う。一枚、紙が風に舞っていく。俺はそれを追いかけたが、風はさらに強くなって、落ち葉と原稿を舞い上げる。

「ふう……。二枚はなんとか回収できました! 藪先生、あと一枚は?」

 後ろから鈴城が呼びかける。俺は何も返事ができなかった。

「藪先生? あと一枚は?」

「……一枚、フェンスの向こうに飛んでった」

「え~~~! ど、どこですか~!」

「分からん。かなり強風だったから、もうどこかいっちまった……」

「わ、私が回収したの、よりによって一枚目と二枚目ですよ! 最後の原稿! う~~~!」

 鈴城はフェンスに飛び掛かった。二メートル越えのフェンスを無理やり越えようとする。

「バ、バカ。お前何やってんだ!」

「放してください~! 私は三枚目を……オチをまだ読んでないです~!」

「もうどこかいった。とても追いつけねえよ。……すまん」

「う~~~~……」

 鈴城は消沈した声を出して、項垂れている。さすがに悪いことをした――と思っていたが、鈴城は勢いよく顔を上げた。

「いえ、問題ありません! そもそも手書きじゃなくて印刷ですし! 鬼薊先輩か嫁菜先輩が元ファイルを持っているはずですから」

「鬼薊か、嫁菜が? 待て、どういうことだ? っていうかそもそも、お前これどこで手に入れたんだ? さっきは持ってなかったよな?」

「ここですよ」鈴城が指さしたのは、二股桜の幹だ。「別れ桜の幹の洞に、くしゃくしゃになって捨てられていたんです!」

「別れ桜に?」

「この脚本いいですよ! 一人用の戯曲ですし、公演時間にも収まりそう。田畑先生に別れ桜、この学校を舞台にしてるのも気に入りました! 私にぴったり! ねえ藪先生、早く二人を追いかけましょう! 鬼薊先輩と嫁菜先輩、どちらが作者か聞かなきゃですよ! それで私がこれの続きを上演して、それで舞台は大成功です! いえい!」

 鈴城は紙束を抱えて笑みを浮かべる。抱えていた戯曲――『十月桜に君を呼ぶ』。鈴城はどうやら余程この脚本が気に入っているようだ。

「……いや待て。あの二人のうちどっちかが書いたってことで確定なのか?」

「はい! それはもう!」鈴城は人差し指をピンと立てた。「だって藪先生、私たちがさっき二股桜を確認したときこの原稿はなかったじゃないですか!」

「……そうだな」

「そのあと、私たち二人は旧体育館横にいました。その間にここを通ったのは先輩たち二人だけです。裏は突き当たりになっていて、道路とはフェンスで区切られてる。なおかつ、体育館から裏に出る扉はないです。あそこの二股桜に行くにはどうしても私たちの前を通る必要があるんですよ。だから書いたのは絶対にあの二人のうちのどちらかじゃないですか! あ、もしくは二人が共同で書いたって線もありますけど!」

 自分にぴったりの脚本を見つけたからか鈴城は興奮気味だ。

「……やめておいた方がいいんじゃねーか」

 そんな鈴城の気持ちに水を差すのは、若干気が引ける。

「え? どうしてですか?」

「二股桜に入ってたんだろ、これ。ってことはつまり、七不思議通りならあの二人のどっちかは知らんが、これを処分したってことだ。何か事情があるんだろ」

「まあ、それは……そうかもですけど。でも!」

「喧嘩してたのもそれが原因なんじゃねーか。まあ、結局は後腐れなく別れるなんてことは無理だったみたいだけどな。所詮、七不思議だ」

「む~」鈴城は俺をじっと睨みつけている。「藪先生、そんなこと言って、自分で動くのが面倒だと思ってるだけなんじゃないですか?」

「その思いも少しはある」

「うわっ!? そこはないって言い切りましょうよ~!」

「でも、放置しておいた方がいいって思ったのも本音だ。これ書いた奴の気持ちは分からねえが、結局は捨てたってのが全てだろう。死人の墓なんて掘り返さなくていいんだよ」

 鈴城は膨れっ面で俺を見つめる。

「……なんか分かったようなこと言いますね」

「大人なんでな。少なくともお前よりは。まあ、脚本は別のを考えておけ」

 鈴城は手元の原稿を見つめ黙り込んでしまった。俺はその場を後にする。途中で振り返ると、鈴城は、悔しそうにオチの抜けた原稿を見つめていた。



 職員室に戻った俺は、二年担任のデスクへと赴く。二B担任、田畑先生はお茶を飲みながら小テストを見直していた。あの戯曲にも田畑先生が登場人物として出ていた。

「田畑先生、少しお時間よろしいですか?」

「藪くん、どうしましたか?」

 老眼鏡の奥で、田畑先生の目がにっこりと笑う。俺が高校時代からお世話になった恩師でもある。鬼薊たちの担任は田畑先生のはずだ。二人の仲について尋ねてみると、田畑先生の眉間に皺が寄る。

「鬼薊の奴が何かしましたか? あいつも最近は大人しかったんですが……」

「最近、ですか?」

「ええ。まだ藪くんが来る前ですが荒れていましてね。中等部からの持ち上がりなんですが、何度も生徒指導を受けてました。そんな彼女を気にかけてやったのが嫁菜なんですよ。嫁菜の奴は高校からの外部入学なんですが、文学部に鬼薊を誘ったようでして。鬼薊はもともと文章が綺麗でしてね。初めはどうかと思っていたのですが、鬼薊の奴かなり馴染んでいるようで」

「なるほど、ありがとうございます。いえ、特に問題を起こしたとかいうわけではないんですよ。ちょっと演劇部の脚本を書ける候補を探してまして」

 嫁菜に言わないといった手前、喧嘩していたことは一応隠しておく。

 頭を下げて戻ろうとする俺を、田畑先生は引き留める。

「演劇部……ああ、顧問を引き継いだのでしたね。いや、それにしても感慨深いですね。あの藪くんが教師になるなど、当時は想像もしていませんでしたよ」

「……はは」

 まさか自分も教師になるとは思ってもいなかった。

「当時はほら、君たちにも中々手を焼きましたからね。君とほら、よくつるんでいた子。君たちもまたよく一緒にいて、仲が良かったですね。誰だったかな。ほら、あの……」

「笹本ですか」

「そう、笹本くんだ。連絡取りあってる? 元気にしてるのかな?」

「ええ、元気みたいですよ」

 俺は田畑先生に頭を下げ、その場を辞した。元気にしているというのは、その場を穏便に切り抜けるための嘘だ。高校時代の親友である笹本とは卒業してから一度も連絡を取っていない。奴とは高校時代に喧嘩をしたきりだ。


 自席に戻った俺は、しばし考える。今日は残りの仕事もさしてなく、今日は早めに帰ることもできる。だが、先ほどの鈴城の消沈した顔が脳裏に浮かんできた。やっと見つけた心の琴線に触れる脚本。だが形だけの顧問である俺からはやめておけと言われる。不満だろう。少なくとも、自分が鈴城の立場だったらそうだ。

「……仕方ないな」

 職員室を出て部室棟へと向かう。部室をよく探せば、どこかに一人芝居用の脚本があるかもしれない。それを鈴城が気に入るかは分からないが、選択肢として与えるくらいはしてやってもいいだろう。

 部室棟のおんぼろの階段を上って突き当たりの部屋を見て、俺は首を傾げてしまう。演劇部の扉が開きっぱなしになっている。

「鈴城、いるのか」

 部室の中を見て、俺は固まってしまう。雑然とした部屋の中央……そこにはなぜか鬼薊がいた。そして首元を掴まれ宙に浮かんでいる鈴城の姿があった。

「いやいや、ちょっとお前ら! 何やってんの」

「あ?」

 鬼薊がガンを飛ばす。

 首を掴まれている鈴城がこちらを見て、ぎこちなく笑む。

「あ、藪先生! ご、安心を。今、鬼薊先輩と平和的に話していると……こ……」

「絞め落とされる寸前じゃねーかよ!」

「……ちっ」

 鬼薊は俺を見て大きく舌打ちすると手を離した。鈴城はどさりと下に落ちる。「きゅう~」などと呻き、目をぐるぐると回している。

「藪だっけ? はん、本当にタイミングのいい先公だよ」

「鬼薊、さすがにやりすぎじゃねえのか? こいつがお前に何したよ」

 俺は鈴城を起こす。大方、鈴城は一人で調査をしようとしたのだろう。だが、ここまでくれば、はっきりとした暴行だ。さすがに、田畑先生に報告せざるを得な――。

「こいつ、喧嘩のことをチクられたくなかったら脚本を書けって脅してきやがった」

「……何やってんの、お前」

 腕の中で、鈴城が目を逸らす。なんか庇う気がなくなってきた。

「藪先生、私は目的達成のためならどんなことでもしますよ!」

「お前シンプルに問題児だな……」

 鬼薊は腰に手を当て、ふうっと息を吐く。

「あんた、こいつの顧問?」

「まあ形の上では」

「じゃあちゃんと面倒見ておけや。余計な探偵ごっこさせてんじゃねえ。金輪際、あたしにはかかわらせるなよ。ああ、それと先公、あんたもだ。さっきあったことは忘れろ。いいな」

「ごっこなんかじゃないです!」鈴城が立ち上がる。「私は真剣にこの戯曲を書いた人を探してます。鬼薊先輩、あなたか嫁菜先輩のどちらかがこれを捨てたことは確実です!」

「知らねーよ。あたしは無関係だ」

「じゃあ、どうして旧体育館裏へ? 七不思議を知っていたからじゃないんですか?」

「桜が綺麗だったから見に行ったんだよ、悪いか? だいたいなんだ、別れ桜って。初耳だわそんなの。……もう帰らせてもらうぜ。二度とあたしのとこには来るなよ」

「たとえ断られたとしても私は行きますよ!」

「~~~! しつけえな。そんなにぶっ飛ばされてえか?」

「前にも言いましたよね。鬼薊先輩、私はあなたの描く物語が好きなんです。昨年の季刊誌、『恋の魔法は0時になっても解けてくれない』だって、すごく情緒に溢れた物語で――」

「わーーーーー!」

 鬼薊が吠えた。顔は真っ赤になっている。

「てめえ急にタイトル言うんじゃねえ、殺すぞ!」

「何度でも言います! 『恋の魔法は0時になっても解けてくれない』は素敵な――」

「うおーーーーー!」

 鬼薊は拳を大きく振り上げた。殺さんばかりの勢いだ。その間に俺は割って入る。

「はいストップ。さすがに暴力は駄目。それと鈴城、お前も刺激するようなこと言わない」

「刺激? でも私は本当に好きで……」

「お前が好きだっていう気持ちは分かった。でもそれはそれとして、相手が言われたら嫌だって気持ちも本当かもしれないだろ? お前の心の中に留めておけよ」

「む、むむむ……。で、でも私は……」

 鈴城はしばし考え込む。納得いっていないようだ。

 先に折れたのは、鬼薊の方だった。上げた拳を下ろし、ふうと息を吐く。

「別にいいよ。急にタイトル言われたからかっとなっちまっただけだ。あんま慣れてなくてな。作品を褒められるのは。その、すげー、ありがたい」

「照れ隠しだったのか……」

 鬼薊は横にいる俺を、赤面した顔で見た。

「……悪いかよ。あたしの見た目でこんな物語書いて。……今の時代は、男だって、成人女性だって、プリキュアになれる。いいだろ、あたしが夢見がちな物語を書いたってさ」

「いや、見てないから知らんが……。詳しいな……」

「……! 妹が見てて、たまたま知ったんだよ!」

「そ、そうか……」

 絶対にたまたまではなさそうだ。間違いなくこいつはプリキュアを見ている。

「と、とにかくだ。あたしはそんな戯曲、書いた覚えはない。他の奴が捨てたんだろ」

「となると……後から来た嫁菜先輩ですか?」

「嫁菜じゃねーよ」鬼薊は言下に否定した。

「? どうしてそう言えるんですか」

「一目瞭然だろ。あいつの書いた文章はもっと綺麗で澄んでいる」

 そのまま彼女は部室を出ていった。扉が勢いよく音を立てて閉まる。

 残された部屋で、鈴城はぽつりと呟く。

「……鬼薊先輩、別れ桜って言ってました」

「え? お前が言ったんじゃないのか?」

「私は七不思議としか言ってないですよ。知らないなんて嘘なんです。やっぱり鬼薊先輩は、別れ桜のために行ったんです」

「……」

 確かに旧体育館裏へ桜を見に行った、というのは都合が良すぎるだろう。そしてそれには裏へ行ったもう一人の人物――嫁菜がかかわっているはずだ。


「……そうか。私にさっきの話を聞きたいと」

 演劇部とは違い綺麗に片付いた文学部の部室。壁際に設置されているデスクの前に座る嫁菜は、来訪者である俺たちを見て言った。

「はい」鈴城が頷く。「普段、人通りのない旧体育館裏へわざわざ二人が来たんです。喧嘩といい、あそこで何があったんですか?」

「……目撃されてしまった以上、説明責任は果たしておくべきだろうね」

 額に手を当て、嫁菜はふうと息を吐く。

「鬼薊さんはね、最近スランプなんだよ」

「スランプ、ですか?」

「うん。文化祭で出す部誌の原稿、鬼薊さんはまだそれが全然完成していなくてね。最近はかなり荒れているんだよ。先生と鈴城さん、あなたたちにも失礼があったようだけど、許してほしい。普段はあそこまで攻撃的ではないんだけれどね……」

「それで、嫁菜さんは鬼薊さんを追っていた……ということですか」

「彼女のことが気がかりでね。部活にも出ないでどこへ行くんだろうとつけていたわけさ」

「話が見えてきましたね」鈴城は手にしていた原稿を前に出した。「ということは、この原稿は鬼薊さんが書いたものなんですね! スランプに陥っていて、ようやく捻りだしたものを捨てた……ということでしょうか。私は好きですけどね」

「……桜に捨てられていたというその原稿、読ませてくれるかい?」

 受け取った二枚目までの原稿を読むと、嫁菜は言った。

「ありがとう。この文章は、鬼薊さんが書いたものじゃないね」

「え? どうしてそう思うんですか?」

「読めば分かるよ。彼女の文才を見出したのは私だからね。鬼薊さんが得意とするのは、女性主人公のファンタジーに満ちた物語。部誌に載っていない没原稿まで読んできたけど、さすがに毛色が違いすぎるね。彼女らしくない」

「スランプに陥っていたからこそ、がらりと変えたんじゃないですか?」

「その可能性も低いんじゃないかな。ここの一文を見てほしい。『もうそれは滅茶苦茶に重大な用だよ』という台詞があるね。彼女ならばここの漢字はひらく。平仮名でめちゃくちゃと表現するだろうね」

「それは誰が作者か悟らせないために意図的に変えて――」

「待った、鈴城。それはさすがに無理だろう」後ろから話を聞いていた俺は我慢できずに口を出す。「そもそも捨てられていた原稿だ。誰かに読まれる、ましてや作者が誰かを特定されるなんて想定していなかったはずだ。さすがに遠回りすぎる手法だろ」

「むむむ……」鈴城は受け取った原稿を読み返す。「それじゃあちなみに、嫁菜先輩はこの一文をどう表記しますか? 嫁菜先輩の作品、昨年の部誌の『リア王の教室』――私たちの、高校生の等身大の感情を書いた現代が舞台の物語でした。高校生という立場でここまで俯瞰して、なおかつリアリティをもって書けるんだってすごかったです! 難読漢字も多く使われていた印象ですけど」

 鈴城がさらりと嫁菜の書いた作品のタイトルを出すことに驚く。脚本を依頼したこともあると言っていたし、本当にファンのようだ。

 嫁菜は少し気恥ずかしそうに笑う。

「お褒めの言葉をどうも。……私ならばそうだね。『滅茶苦茶』と表記するかな」

「それならこれを書いたのは、やっぱり嫁菜先輩なんじゃ――」

「でも、私が書いたものではないよ。この戯曲は文体が軽めだろう?」

「戯曲用にあえて軽めにしたんじゃないですか?」

「まあ、やろうと思えばできるけど……。困ったね。私は私がこれを書いていないことを知っている。否定することしかできないのだけれど……」

 あなたが作者だろうと問い詰める鈴城、そしてそれを否定する嫁菜。確たる証拠もなく、否定材料もない。話は平行線である。


 話がまとまらず強引に居残り続けようとする鈴城を、俺は首根っこを掴んで無理やり連れだした。演劇部の部室に戻ると、鈴城は腕を組み、不満そうな顔で座る。

「結局、嫁菜先輩も鬼薊先輩もどっちも自分じゃないと否定してます。そんなはずはないんです! あそこを訪れたのは二人しかいない。どちらかが捨てたのは確実なんです」

「もういいんじゃねーのか。どっちが捨てたにせよ隠しておきたいってことなんだろ」

「……いや、でもそれにしてはおかしいような?」鈴城は首を傾げた。「鬼薊先輩は、これは嫁菜先輩の文章ではないと言ってました。嫁菜先輩も、これは鬼薊先輩の文章ではないと。どうしてそんなことを言ったんでしょう?」

「どうしてって、そりゃそう思ったからだろう?」

「立場を置き換えてみましょう。仮に藪先生が容疑者だったとします」

「俺が? なんで……」

「仮にですってば。容疑者が藪先生の他にもう一人いる。でも、藪先生は藪先生が犯人ではないと知っている。その場合、犯人は誰ですか?」

「……何言ってんだ? お前が今言っただろう。容疑者が二人で、俺が犯人じゃないなら、そりゃもう一人の容疑者が犯人だろ?」

 2-1=1、そんなことは小学生でも分かる。

「その通りです! つまり、鬼薊先輩が捨てていない場合は嫁菜先輩が、嫁菜先輩が捨てていない場合は鬼薊先輩が犯人なわけです! そうしたときに、無実ではない人物はこう主張しますよね。『俺は犯人じゃないんだから、あいつが犯人だ』って。でも、違うんです。鬼薊先輩も、嫁菜先輩も、これはあいつの文章じゃないと言っています」

 ――嫁菜じゃねーよ。

 ――この文章は、鬼薊さんが書いたものじゃないと私は思うな。

「……確かにな」

「自分じゃないと否定しておきながら、もう片方でもないと否定する。これって相当不自然じゃないですか?」

「2-2=0にしてるようなもんだな」

「考えられるのは二人が庇い合っている可能性、つまり共謀です。この戯曲は二人の合作だったんです。それを、片方が二股桜に捨てた。それが意味するところってつまり――」

「決別だな」

「そうなんです。あの二人って相当仲が良いみたいですし。だからその決別を私たちにばれたくなかったと考えれば、辻褄は合いますよね」

「いずれにせよ、二人の合作だとしたら作ってもらうのは難しいだろ。諦めた方がいいな」

「う~ん、でも! 私はこの戯曲がいいと思ってるんですよ~!」

 手をわきわきと動かし、鈴城は叫ぶ。

「……っていうかそもそも、そんなにいい戯曲かこれ? オチも分からんしな」

「酷い言い草です! めちゃくちゃいいじゃないですか。特にこの二股桜で――」

 はっと、鈴城が何か閃いたように原稿を手に取った。戯曲を頭から読み返す。

「鈴城?」

「そうか。そういうことだったんですね!」

 鈴城は叫ぶと部室から飛び出していった。つい先ほど、鬼薊にボコボコにされていた様子が目に浮かぶ。また何か余計なトラブルを起こすのではないか。そうなった場合、責任を取らされるのは顧問である俺だ。

「何やってんだアイツ……」

 余計なトラブルを起こしてくれるなよ。俺は廊下へと出た。前を行く鈴城は駆け足で階段を下りていく。その後をついていくが、みるみる距離が離されていく。十代の体力恐るべし。彼女が向かっていたのは旧体育館の裏だ。二股桜の前に鈴城はいた。

「あれ藪先生? どうしたんですか、そんな荒い息をして?」

 鈴城はきょとんと首を傾げる。息一つ切らしていない。

「運動なんて久しくしてねえんだよ……。ど、どうしたんだ急に」

「これを見てください。二股桜の中に落ちてました」

 鈴城が示したものを見て、俺は思わず顔を顰める。

「それって……ライターか? なんでそんなとこに……」

「その通りです。さあ、鬼薊先輩と嫁菜先輩を呼びましょう。解決編です!」



「一年……いいかげん、かかわるなって言ったんだけどな」

 校門から帰ろうとしている鬼薊を捕まえたのがついさっきのこと。呼び出された鬼薊はぽきぽきと指を鳴らして、ものすごい剣幕で鈴城を睨みつけている。

「お、鬼薊先輩、落ち着いてください! ここまで大人しく付いてきてくれたのに……」

「表でボコりゃあ騒がれるだろ? でも、ここなら誰も来ねえしな」

「いやいや、この藪先生が見えないんですか!」

 と鈴城は後ろに立つ俺を指さす。

「そんな日和見の昼行灯がいたところで何の役に立つよ」

 生徒から昼行灯呼ばわりされてしまっている。

「生徒からあんなこと言われてますよ! 何とかしてください日和見先生!」

「顧問辞めてもいいんだぞ、鈴城」

「鬼薊さん! 何してるんだ!」

 凛とした声が響いた。声の方を見れば、嫁菜が肩をいからせながらやって来る。

「あなた、またそんなことをやって……」

「まだ暴力は振るってねえし、お前には関係ねえよ」

 またもや言い争う二人を前に、鈴城が手を叩く。

「喧嘩はストップです、お二人とも! 私の話を聞いてください!」鬼薊と嫁菜は、鈴城に視線をやる。「いやいや、人目に付かない体育館裏って色々なイベントがありますよね。定番で言えば呼び出しての告白。あとはそう、不良たちが人目を避けて、これを吸うとか」

 鈴城がブレザーのポケットから取り出したのは、煙草である。

「……それは」

 嫁菜の顔が青くなる。

「その幹の洞を漁ったら出てきました。誰かによって隠されていたようですね」

 無言の鬼薊を、嫁菜は睨みつける。

「鬼薊さん! あなた、まだこんなものを隠し持って……」

 睨み合う嫁菜と鬼薊。

 やがて鬼薊はふうっと息を吐いて、鈴城の持っていた煙草を取り上げた。

「一杯食わされたな、こりゃあ」

「何を言っているんだ!」嫁菜は声を震わせた。「そんなものばっか吸って! 何度も言ってるだろう、もうやめろって! どうしてあなたって人は――」

「一杯食わされたのはお前だよ、嫁菜。この煙草、あたしのじゃない。ハイライトの青だろ。メンソールしか吸えないんだよ、あたしは」

「え? は、はいらい……?」

 ぽかんとする嫁菜を前に、俺は鬼薊の手から煙草を取り上げる。

「俺のだよ、これは」

「はーい。それは私が藪先生から借りたものです!」

 威勢よく手を挙げた鈴城を見て、鬼薊は大きく舌打ちをした。

「カマかけるとはやってくれるじゃねーか、一年」

 嫁菜は茫然としているが、状況が分からないのは俺も同じだ。

「説明しろよ、鈴城。なんで急に俺の煙草を借りたんだ?」

「嫁菜先輩から証言が必要だったので。そもそも鬼薊先輩はどうして旧体育館裏へとやって来たのか。それは二股桜の洞に煙草を隠すためだったんです。そして、彼女を追ってきた嫁菜先輩は洞を漁り、煙草を見つけた。言い争いになったというわけです。煙草は嫁菜先輩が持ち帰ったんでしょうね。友人の素行不良を隠すためにです。ただ――」鈴城はさっき見つけたライターをポケットから取り出す。「底に落ちてたライターまでは回収し損ねたようですね」

「……そうだよ」嫁菜は顔を逸らす。「知ってるだろう。前に、鬼薊さんは生徒指導を受けているんだ。その際に、ここで煙草を吸ってたこともあったらしい。再びそんなことがばれたら……もう。だから、私は……」

 震え声を出す嫁菜に、鈴城は話しかける。

「ところで嫁菜先輩。どうして鬼薊先輩はこんな樹の洞に煙草を入れたと思いますか?」

「なんでって、それは隠れて、ここで吸うため……」

「二股桜の七不思議はご存じですか?」

「……七不思議? なんだい、それは?」

 ぽかんと呆ける嫁菜をよそに、鬼薊はばつが悪そうにそっぽを向く。

「中等部から持ち上がりの鬼薊先輩はもちろんご存じですよね! ぱっかりと割れている桜になぞらえて、別れ桜という七不思議があるんです。この洞に物を入れれば、それと後腐れなく別れられるっていう。だから私はこう思うんです。鬼薊先輩は隠したんじゃない。むしろ煙草と決別――禁煙したかったんじゃないかって」

「……なんだって?」

 嫁菜が鬼薊を向く。鬼薊は俯き、ばつが悪そうに頬を掻く。

「鬼薊さん、なんで……。そう言ってくれればよかったじゃないか。私が非難したときに、七不思議のことも、吸う気なんてなかったってことも」

「言い訳なんかねーよ。禁煙しようとしてたとして、あたしが煙草を持ち歩いてたことは事実だしな。イラついて、一時は誘惑に負けてたってことだ」

「でも、吸ってなかったんですよね?」

「ああ……」鬼薊は俺の方を見つめた。「結局は先公に見つかっちまってる。もう駄目だ」

「……ごめん、鬼薊さん。私はあなたを疑ってた」と嫁菜。「先生、無理なお願いとは思っています。でも彼女は煙草を吸ってない。本当です。嘘なんて吐かない。どうか……」

「大丈夫です、ご安心を!」鈴城が叫んだ。「藪先生は教師として本当に最悪な面倒くさがりなので、ここで見たことは全てなかったことにしてくれます。ね、藪先生?」

「負の信頼感がすごいな」事実、その通りではある。「煙草は身体に悪い。金もかかる。少なくとも未成年の間はもう二度と吸うな」

「……端からそのつもりだよ」

「それならよし。俺は何も見てない」

 俺が答えると、鈴城の奴はぱちぱちと拍手した。

「さすが藪先生です! 教師として最低です! 本当に教職取ってるんですか? 一刻も早く首になった方がいいです!」

「顧問辞めるぞ、お前」

 ぼろくそな言われようだ。まあ言われても仕方ない行為をしているのは自覚している。

「ささ、邪魔な要素は全て片付きました。今まで二人は、煙草のことがばれるから桜の樹についてはひた隠しにしていましたね。でも煙草のことが問題ないと分かった以上、ようやく真実を語れます。誰がこの原稿をあの桜の中へと捨てたのか!」鈴城は原稿を取り出した。「さ、まず鬼薊先輩に聞きましょう。これを捨てたのはあなたですか?」

「……いや」鬼薊はかぶりを振る。「初めに言った通りだ。あたしは捨ててない。っていうか、あたしが煙草を捨てたときには、何もなかったぞ?」

 鬼薊ではない。鈴城は次いで、嫁菜に目を向ける。

「それでは嫁菜先輩。この原稿を捨てたのは、あなたですか?」

「いいや」嫁菜もまたかぶりを振る。「私も捨ててない。というか―」

 二人のうちどちらかが犯人。もしくは共謀――どちらも犯人。だが鈴城はあのとき、もう一つの可能性を指摘すべきだった。組み合わせはもう一つある。つまりは容疑者二人のうち、どちらもやっていないという可能性。

「私が行ったときには、既に原稿はあった。桜の幹の中を漁ったときに、奥底から出てきた。……だからそれは、初めからそこに捨てられていたんじゃないか?」

 鈴城が俺の方を向く。

「前提が間違っていたんです。私が二股桜を覗き込んだときには、既に原稿は捨てられていた。それが中を漁った嫁菜先輩により引っ張りだされ、上に上がってきただけなんです。でも、煙草を隠したかった嫁菜先輩とすれば、洞を漁ったことなんて言えない。その結果、まるで二人のうちどちらかが捨てたように見えた」

 鈴城は俺を指さした。

「これを書いて捨てたの、藪先生でしょ?」

 その場に沈黙が流れる。フェンスの間を通る風の音が、やけにうるさく聞こえた。

「……はは、何を言ってんだか」

 俺は顔を逸らして笑う。笑顔は引きつっていたかもしれない。

「さっき、藪先生の頭には桜の花びらがついてましたよね?」

 ――あ、藪先生! 頭に桜の花がついてますよ。

「あれって実は既に二股桜を訪れた帰りだったんでしょう? 私が来る前に藪先生は旧体育館裏へと行っていたんです。そして洞の奥にこの原稿を捨てた!」

「……風が強かったし、花びらは裏から飛んできただけだろ。言いがかりだ」

「それ以外にもありますよ。この戯曲、少し変なところがあると思うんですよ。現実の描写と明らかに矛盾しているところがあるんです。ほら、ここを読んでください。田畑先生が来るじゃないですか」


少年:……なんだ、田畑先生すか。どうしたんですか、こんなとこに来て。煙草休憩すか? え、俺に用? 裕太からここにいるって聞いた? あ、進路調査票を出してないの俺だけ? いや、明日には出しますから少々お待ちを……。はい、それじゃあ……。


「これ、田畑先生が体育館裏に来て喫煙するってどういう描写なんですか? 鬼薊先輩、以前まだ煙草を吸ってたとき、田畑先生をここで見かけたことは?」

「いや……」鬼薊は首を振る。「あたし以外は、見たことねーな」

「初めは煙草なんて吸いそうもない田畑先生が喫煙するっていうギャグ描写かと思いました。でも、違います。この旧体育館裏って昔は喫煙スペースがあったんです。それこそもう十年以上も前の話ですけど」

 そうだ。俺が高校生の頃はまだ校内に喫煙スペースがあった。

「あとこれ、二股桜があるところを体育館裏って書いてますよね。でも今ではもう旧体育館裏という呼称になってます。そして新体育館が建造されたのは十年前。つまりは、この文章が書かれたのは少なくとも十年以上は前なんじゃないかって。この学校出身で、なおかつ十年以上前を知る人ってなると数は限られてますよね。この学校出身の先生でしょうか? しかもその中で多少演劇の経験があり脚本を書けるとなると――」

「もういい、分かった」

 俺は観念して手を挙げる。言い訳をしようと思えばできる。だが一度、鈴城の奴から疑われた以上、何をしても無駄だろう。事実、それを書いたのも捨てたのも俺なのだから。

「俺だよ。その戯曲を書いたのも、捨てたのもな」

「なんで捨てたんだよ?」そう言ったのは鬼薊だ。「別にそんな悪い戯曲じゃあねーと思うぜ。捨てるほどのこたあねーだろうがよ」

「……鈴城の奴が戯曲を探してるって聞いて、そういや昔に書いたのがあったなって思い出してな。部室の棚の奥漁ったら見つかったよ。まあ、当時は結構自信を持ってたけど、今読み返したら無理だ。赤面した。で、見るに堪えないから捨てたってだけの話だ。後腐れなく、別れたくてな……」

「嘘です!」鈴城が叫ぶ。「あのとき、藪先生は二股桜の七不思議を知らないって言いました。それなのに後腐れなく別れるためにあんなところへ捨てた?」

「鬼薊みたいに知らん振りをしたんだよ。万一知ってたら俺が疑われただろ?」

「ダウトです! この戯曲、もう一つおかしいところがあるんですよ。この主人公をラブレターで呼び出した相手が何故二股桜の前を指定したのかということ」鈴城は桜を指さした。「二股桜の七不思議は後腐れなく別れられる――ここで告白をするのは変な話ですよね? ときメモじゃないんですから」

「単に目印として、普通に桜の前に呼び出したんじゃないかい?」と嫁菜。

「いや、それはねーな」と鬼薊。「この主人公の台詞――『わざわざ二股桜の前なんかに呼び出されたらさ、期待すんだろ』とある。これは七不思議を認知している書き方だよな?」

「そうです。主人公は七不思議を知ってるんですよ!」と鈴城。

「……」

 演劇部の問題児、文学部の風紀委員、文学部の暴君により作品の読解が始まっていた。

「少なくとも主人公は告白と二股桜を前向きに結び付けているように思います。ねえ、藪先生。七不思議なんて所詮生徒の噂話。結構短いスパンで変わっていくと思うんですよ。もしかして昔は、ここって別の噂話があったりしません?」

「別の噂話……?」鬼薊が顔を顰める。

「……」

 俺は二股桜を見つめた。桜は二つにぱっきりと分かれている。鈴城から二股桜の話を聞いて驚いた。つまりは、どう解釈するかの違いなのだ。根元を見ればそれは二つになり、別れの象徴となる。だが、逆に上から見れば――。

「当時は結び桜と、そう呼ばれていた。ここで結ばれたものは底でしっかりくっついているから、その後は何があっても別れないってな。縁結びの場所だよ、ここは」

 それを見て、鈴城はふむと頷く。

「なるほど! だからあの人は、主人公をここへ呼び出したんですね」

「あ?」

「私には分かってますよ。この戯曲の結末――誰が主人公を呼び出したのかは」

「……なんだと?」

 分かるはずがない。コピーはないし、三枚目の原稿はないのだ。

「だってそうでしょう。この主人公の下を三人の人物が訪れています。最後に来たのは妹。彼女はその前に来た田畑先生から主人公が旧体育館裏にいると知った。その田畑先生は、主人公の友人である裕太くんから情報を知った。じゃあ、その裕太くんは? 彼はどういう手段で、主人公が旧体育館裏にいると知ったんですか?」

「……」

「彼は初めから、知っていたんじゃないですか? 主人公がそこにいることを」

 俺はポケットからくしゃくしゃになった紙束を出す。フェンスの向こうに飛んでったなんてのは嘘だ。俺はあのとき紙に追いついて、それをポケットに突っ込んだ。

「ほらよ。続きが読みたいんだろ。大したオチじゃないけどな」

 戯曲の続きはこうだ。放課後、しびれを切らして帰ろうとする主人公の前に、彼は現れる。彼を見て主人公は驚くが、やがて全てを理解する。


少年:ああ、裕太。どうしたんだよ。ゲーセン行くんじゃなかったのか? それとも取り残された俺を笑いに……。大事なことを伝えたい? なんだよ改まって。……え、告白? お前がどうしてそのこと知って……。え? まじで? まじで、これ書いたのお前? じゃあ、さっき来たのも……。あー……。


 少年は額に手を当て、空を見上げる。


少年:お前の字、すげー綺麗なのな。知らんかったわ。どうして初めに来たときに言ってくれなかったんだよ。……馬鹿だな。笑うわけないだろ。うん、分かった。聞くよ。


 少年はじっと正面を見据える。


少年:嬉しいよ。そうだな。伝えてくれて、ありがとう。それだけですごく嬉しいよ。


(照明)フェイドアウト 



 下校時刻十分前を告げる鐘が鳴っている。鬼薊たちと別れた鈴城と俺は部室にいた。くしゃくしゃになった戯曲を何度も読んで、鈴城は言う。

「いい戯曲じゃないですか。私、これすごく好きです」

「そいつはありがとう。十七歳の藪くんもきっと喜んでるわ」

「藪先生の若い頃っていまいち想像できないですけれど」

「まあ少なくとも、今よりもう少しやる気はあったんじゃねえかな」

「この戯曲もそのときに?」

「……ああ。俺がいたときはまだ演劇部の人数も多くてな。演劇部でやる演目以外にも用意させてもらえたんだよ。それ用に、俺が書いて、自分で演じた」

 俺には親友がいた。マジョリティに属してはいないことを、彼は打ち明けてくれた。彼には好意を寄せる人物がいたが、思いを伝える勇気はないようだった。彼の恋路を知ったとき、応援したいと思った。だから戯曲を書いた。彼を勇気づけられるような戯曲を。笑いを取るために田畑先生の名はそのまま使ったが、それ以外は架空の名だ。

 俺はその親友を会場に呼んだ。客の入りは上々。空気は悪くなった。ところどころに入れたギャグにも、客席からはくすくすと笑い声があがった。

 徐々にボルテージは上がっていく。

 そしてラスト。

 ラブレターの差出人が主人公の親友と判明したところで――。

「爆笑が起こったよ」

「……」

「会場中が未だかつてない爆笑の渦。文化祭の浮ついた雰囲気もあったんだろうな。クラスメイトも結構盛り上げてくれてさ。どいつもこいつも手を叩いて笑ってたね。まあ、そりゃあそうだよな。ホモネタなんて高校生にとっちゃあ、ただの面白ネタの一つだよ。親御さんでさえ、つられて笑ってる人もいた。でも――当人にとってはそうじゃない」

 未だにはっきりと覚えている。客席中央。周りが笑う中、一人だけ俯いてじっとしていた親友――笹本の姿を。あいつは最後まで顔を上げなかった。周囲の全員に笑われて、親友からそんな劇を見せられ、彼はどんな気持ちだったのだろう。

「卒業まで、二度と会話はしなかったよ」

 ふと思う。当時、別れ桜なんて七不思議は一切なかった。その七不思議の元ネタとなったのは、もしかして俺の劇なのかもしれない。

「もう分かっただろ鈴城。俺はこの戯曲はもう二度と上演したくないんだ」

 鈴城が何か演目を探していると言ったときに、一人用の脚本があることを思い出して探し当てた。よくもまあ、部室に残っていたものだと思う。俺の演劇人生で最も客受けした、最も忌まわしい作品。十年以上振りに読み返したが、あのときの苦い記憶がフラッシュバックし、耐えられなかった。だから俺はこの脚本を捨てた。

「結び桜に、ですか?」

「……」

「ゴミ箱じゃなくてわざわざあんなとこに捨てるなんて、藪先生は未練があったんでしょう。この脚本にですか? いや、そうじゃなくて、喧嘩した親ゆ――」

「とにかくだ!」俺は鈴城の言葉をかき消すように叫ぶ。「悪いけど、別の脚本にしてくれるか。探す協力くらいはしてやる」

 俺は鈴城の手から原稿を取り上げようとするが、彼女はそれをひょいと避ける。

「嫌で~す。私はこれを演ります!」

「なんで……」

 鈴城は口に指を当て、ウインクをした。

「一目惚れです!」

「お前な……。俺は仮にも作者で……」

「違います! 作者は藪先生じゃありません!」

「はあ? 何を言って……」

「これを書いたのは、当時高校生だった藪先生なんですから! まだやる気のあった高校生の藪くん。だから、今の藪先生じゃないです。上演許可を貰うなら当時の彼にですよ!」

「屁理屈にもなってない難癖だな」俺は俯いて、ため息を吐く。「鈴城。お前、少しは他人の気持ちを汲むことを覚えてくれないか。その作品は俺にとって――鈴城?」

 突如、呼びかけてもなんの反応もしなくなる。顔を上げれば鈴城が立っていた。薄暗い部室の中、窓から差し込む夕陽を背にしている。

「鈴し――」

 言葉が出てこない。なぜなら、そこに立っているのが俺には鈴城に見えなかった。首に手を当てどこか気恥ずかしそうにしている姿は、普段の騒々しい彼女とはかけ離れている。まるでそう、告白の場面に立ち会っている少年のような――。

 やがて彼女、否、彼は真っすぐに俺を見た。

 風が吹き、桜の花が舞い散る。

「伝えてくれてありがとう。それだけですごく嬉しいよ」

 桜の前に立つ少年の声が響く。気恥ずかしそうで、気まずそうで、でも確かに目の前の相手に感謝を伝えなければと、真正面から向き合った、そんな感情が籠もった声音。

「あ……」

 当時の俺の理想、劇で本当にやりたかった姿。それを遥かに超える実在した主人公が目の前にいた。目の前の彼が、いや彼女が相好を崩す。彼女は自分を指さしてにやりと笑った。

「藪先生、どうでした?」

「あ、いや。」

「どうでした?」

 鈴城が迫る。俺はこくこくと頷く。

「……ああ。すごかった。お前、なんなんだよ。いつもよりめちゃくちゃ演技、上手いじゃねえか。聞いてないぞ、そんなの」

「でしょでしょ? えへへ、だって私、読んだ瞬間にこれピンときましたもん! 演じたいってそう思えたんです。あ、藪先生が演じたときはなんで笑いが起こったか分かりますか?」

 鈴城は俺の顔にびしっと指を突き付けた。

「それはね、藪先生の演技が下手だったからです!」

「……」

 すごく身も蓋もないことを言われた。

「でも、私だったらできますよ。当時の藪くんが書きたかったこと、伝えたかったこと――全部を舞台で表せます! だから藪先生、私やっぱりこれを演じます!」

 ほどほどに働くのが俺のモットーだ。忙しい部活の顧問などやりたくもない。仮にここで承諾すれば、この後も鈴城に付き合わされることは必至だ。なし崩し的に演出などまで付き合わされるかもしれない。頷いても何もよいことなどない。それなのに――。

「……しょうがねえな。それだけやりたいなら勝手にしろ」

「わーい! 勝手にします!」

 両手を挙げてはしゃぐ鈴城を見て、ため息を吐く。どうして頷いてしまったのか。鈴城の言うように当時の俺の期待に応えたいと思ったからか。それとも単純に、目の前のこいつの演技をもっと見てみたいと思ったからか――。

「さーてと、照明と音響は誰に手伝ってもらいましょう。あ、嫁菜先輩と鬼薊先輩がいいですかね? 今回の煙草の件で脅は……じゃなくて協力をしてもらいましょう!」

「いい性格してるな本当に……」

 いずれにせよ、今年の秋は忙しくなりそうである。