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マジョリティに擬態するために文化を捨てた話

私はいつもどこか居心地が悪い。家、学校、友達、SNS、社会に出てからも。いや、社会に出てからのほうがよっぽど。何者かになりたくて認められたくて、でも息を潜めて生きてる。

日本生まれ、日本育ち、日本国籍、いわゆる日本人。この国で不自由なく暮らしていくためのステイタスであり、私が持ってるもの。そして苦しんできた原因のひとつ。

「普通」ではない人間に対して、お世辞にも優しいとは言えない国、日本。日本人らしく生きれば生きるほど息苦しいほどに居心地が悪い。当事者として経験してきた私の主観。


日本人だけど普通の日本人ではなくて、外国人でもなくて、ダブルでも帰国子女でもない。でも日本人と一言では片付けることができない私が、「普通の日本人」になりたくて異文化を捨ててきた話です。

少し長いけれど、マジョリティにもマイノリティにもどこにも属せない人間のこれまでの人生にゆるりとお付き合いください。私も語尾を崩したり崩さなかったり自由にゆるりと話します。

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「日本人」の定義はなんだと思いますか。

日本生まれ、日本育ち、日本国籍、日本語話者、名前、日本人ぽい顔立ち、肌や髪や瞳の色…

あなたはどういうところで「日本人」としてアイデンティティを持ち、そして他者を日本人だと判断していますか。

日本生まれ 日本育ち 日本国籍 日本語話者 で、いわゆる白人や黒人ぽい名前と容姿の人は?

海外生まれ 海外育ち 海外国籍 片言の日本語話者 で、いわゆる日本人ぽい名前と容姿の人は?


私の両親は後者である。ちなみに前者は日本人、後者は外国人。

とはいえ私の両親はもう何十年も前に日本に帰化したから日本人だけど。詳しいことは割愛するけれど、海外に住む日本人コミュニティ内で結婚していたために血統的にも(という言い方が正しいかは分からないが)日本人。

国籍と、血統は日本人。育ちが海外だから言語と文化は外国人。そんな両親の話。

まずは祖父の代から。

俺は牧場主になる!と言ってそこそこ出世していた警察を辞めて海外移民した父方の祖父(海賊王になりたいみたいな漠然とした夢でキャリアを捨てるな祖父)と、祖父を追いかけて出生地主義の国で結婚、妊娠、子育てをした祖母。

祖父のこと軽くディスったけど、移民として渡航した先で成功して、牧場主という夢を叶えて、さらに事業拡大させて、メイドさんを数人雇うくらいには成功してたのですごい人だとは思う。ただし母国に全財産のほぼすべて置いてきて日本観光に来てるうちにお金から宝石から土地まで盗まれてるからやっぱりディスりたい。

母方のほうも似たような経緯で海外へ移民した。理由詳しくは知らないけれど。そういう話をする前に亡くなってしまったから。ただ父方ほど成功はしなかったらしい。小学校まで山道を2時間歩いてたという話は耳がタコになるほど聞いた。途中で蛇や暴れ牛に遭遇したり、橋が崩れて死にかける等々のデンジャラス通学路。かなり田舎の方で貧しく暮らしていたそう。(それでも現在の母の実家はプール付きの広い家だから解せない。小学生のときに一度行ったけど、玄関がうちのリビングくらいあった。)

両家とも海外で日本人と結婚して子を成して、そしてその子…つまるところ私の両親は揃って日本に帰化した。当たり前に日本人ぽい容姿。両家ともにいつかは日本に帰るかもしれないからと名前も日本のもので育っていた。

黙っていればいつでもどこでも日本人と判断されてきた。私はそれがとにかく苦しかった。見た目でマイノリティだと気がついてもらえないのである。

両親がたどたどしい日本語を喋り始めた途端、笑顔が凍りつく窓口のお姉さんを何十回、何百回と母の横で見てきた。銀行で、病院で、市役所で。

急に冷たくなる営業の男性も父の横でたくさん見てきた。カーディーラーで、携帯ショップで、家電量販店で、他にも様々な契約の場で。

筆記体でさらさらとサインすればいいものを、めちゃくちゃな書き順で、象形文字のような漢字で時間をかけてサインする両親のことが、顔から火が出るくらい恥ずかしくて、泣きたかった。癇癪起こして当たり散らしたかった。幼心に両親の苦労を察してそんなことはついぞ言えなかったけど。

両親がいかにも外国人のような容姿だったらどんなによかったことか。それか、両親のうちどちらかでも「普通の日本人」だったらどんなによかったことか。今でも絶対言えない本音。そう心の中で捻くれる回数は減ったものの、どこにいても居心地の悪い感じはいくつになっても付き纏う。

私、今ちゃんと日本人らしくできてる?この人生で何度も何度も自問してきた。日本人なのにね。

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私が幼い頃、家庭内では両親の母語と日本語と英語がごちゃ混ぜで飛び交っていた。英語は、どうせならトリリンガルに育てようという無茶苦茶な教育方針のせい。これも日本とは違うお国柄ゆえ…楽観主義すぎるのである…。(ちなみに先にネタバラシしておくと、英語は高校で挫折した)

幼稚園卒業までは私にもカタカナのミドルネームがあった。まるでディズニープリンセスみたいなミドルネームが好きだった。日本語の名前じゃなくてミドルネームで呼んでほしいと両親にねだるくらいに。

ある日、幼稚園で「ヘンななまえ」と言われた。びっくりした。みんなカタカナの名前がないことに初めて疑問を持った。

他の日、みんなが普通に言える「A公園」の名前を正しく発音できなかった。難しかったからじゃない。両親がそう「A'公園」と発音してたから、それが正しいと思ってた。みんなが言う「A公園」と「A'公園」は別物だと思ってた。先生に「みんなでA公園に行きましょうね」と言われて行った先がA'公園だったとき、かなり混乱した。

「うちは普通じゃない、変なんだ」と気がついたのはこの頃だった。

プリンセスの名前みたいだと気に入ってたカタカナの名前が、「ヘンななまえ」という認識になった。あまりにヘンだと言われるので嫌になって、両親に泣きついた。ミドルネームが戸籍から削除された。母の悲しそうな笑顔と、母の母国語のノスタルジックな響きの「ごめんね」を忘れられない。

小学校入学。外国人が多い町だったので、小学校には日本語教室があった。担任の先生に勧められて、週に1時間だけ通うことになった。私と同じような友達ができるかもしれないと、わくわくしながらドアを開けて驚いた。いろんな肌の色の子がいた。ほとんど日本語が喋れない子が多かった。フルネームすべてカタカナの子しかいなかった。日本人ぽい名前と容姿の児童は私ひとりきりで、ここにも居場所がないんだなと絶望したことを強く覚えてる。

小学校1年生のときは、毎朝「みんなが私の知らないことばで喋ってたらどうしよう」と思いながら教室のドアを開けてた。両親の母語と英語と日本語、そして日本語教室で学んだ中国語とタガログ語の朝のあいさつを心の中で唱えながら。

学校からの保護者向けお便りは、最初のうちは担任の先生がふりがなをふってくれた。半年も続かなかったけれど。長女でこんな家庭環境なので、両親のためにも弟妹のためにも、私がきちんとした「普通の日本人」にならなきゃと思った。

ありがたいことに小学校に通うとみるみる日本語が上達した。義務教育万歳。両親によるなんちゃって日本語が、少しずつ正しい日本語に矯正されていった。どうしても「普通の日本人」になりたくて国語ばかり頑張った。母が読めなかった絵本を貪るように読んだ。日本昔話の絵本を読みすぎて、一時期話し方が古風になってた。先生に「大損じゃったわい」と言って大笑いされたの、今でも思い出してはバタバタするほど恥ずかしい。あとさすがに笑いすぎやろとちょっと根に持ってる。笑

小学校3年生になる頃にはありとあらゆる場で日本人と両親の間に立って通訳したり翻訳したりしていた。母が私のことを「小さなお母さん」と呼び始めた。人生の中で一番完璧なバイリンガルだったのは小学校3〜6年生の間だったと思う。たどたどしい日本語を話す両親に顔を曇らせた窓口のお姉さんやお医者さんが、私の通訳をすごいねぇと褒めてくれた。ちょっと良い気分だった。

小学校高学年。私ってやればできる!日本人ぽい!と余裕かましてた私の鼻を折ったのは、家庭科の授業だった。

「昨日の夜ご飯を書いてください。それぞれの材料を赤色(動物性タンパク質)、緑色(野菜)、黄色(炭水化物)に分類してみましょう」と先生が言った。

みんなが「焼き魚の魚は赤色の食品で〜」とか発表する中で、ひとり固まってしまった。自宅で焼き魚とか煮物を食べた記憶があまりない。そういうものはすべて給食とか外食というカテゴリーで出てくる料理だと思ってた。和食とは給食や外食で食べるもので、自宅ではみんな食べないんだろうと勝手に思い込んでいた。お友達のおうちにお呼ばれしたときは洋食メニューばかりの記憶だった。お誕生日会だったからなのか、私のことを知っててなのかはわからないけれど。またアイデンティティが崩壊する音が聞こえた。みんなの発表を聞く前に書いてた「ポレンタ、チキンとトマト」を消して、みんなの発表のなかからひとつひとつおかずを選んで書いた。「普通の日本人」であるために。

今振り返っても、言語の違いよりも、衣食住にまつわる文化の違いはかなりショッキングだった。

母国でイタリア系移民やアフリカ系移民と仲が良かった母の、気取らないイタリア料理もどきやアフリカ料理もどきが好きだった。家庭科の授業のあと、母に和食をねだった。臭みの残る妙に薄味のしゃばしゃばな煮魚と、塩辛いだけのお味噌汁が出た。あんまり美味しくなかった。この頃から包丁を握って和食を作るようになった。元々料理のお手伝いが好きだったので、苦ではなかった。普通の日本人になるために、同級生よりもうんと料理が得意になった。巻き寿司、煮魚、卯の花を前に、母はたくさん褒めてくれた。「さすが小さなお母さんね」と言っていた。嬉しかった。その日の夜遅く、父の前で泣く母の背中を見てしまうまでは。

中学生。両親も少しずつ日本語の会話がスムーズになっていた。私はというと、自分以外の筆跡になるように両親の署名欄にさらさらサインするような中学生になっていた。中学の先生方は一度も両親の字を見たことがない。きっとずっと見て見ぬふりをしてくれていた。

中2のとき、恋をした。結局告白こそしないまま卒業したけど、両片思いでほぼ付き合ってるみたいなものすごく甘酸っぱい時間だった。中学生女子らしく少女漫画みたいな妄想をしながらも、心の中では「日本人と結婚したら両親のことはなるべく隠し通して、日本ではメジャーじゃないお母さんのごはんのことは忘れなきゃいけないな…大人になって結婚したら一生食べられなくなっちゃうのか…」とか「結婚式でバレたらどうしよう」と思ってた。 …今じゃどんなに望んでもベールダウンしてくれる人はいないのに。

中3。ダブルリミテッドという単語に初めて出会った(ダブルリミテッド:母語と第二言語どちらも語彙や文章力、読解力において年齢相応の習熟度未満のこと 等)。両親への通訳のなかで、言語ではない部分で通じなかったのはこういうことかと腑に落ちた。同時に自分も同級生と比べたらダブルリミテッドに該当するのではと恐ろしくなった。ダブルリミテッドの人は進学率が低く、そのため就職先も限られて貧困層になりやすいと知った。何が何でも大学に行こうと決意した。

高校生。母が病で倒れた。母の長年の夢の「小さくていいから戸建てのおうちに住みたい」を父が無理やり叶えた。その頃には日本文化を一通りマスターしていた私は、そつなく引越しのご挨拶の品にのし紙をかけて包装してもらうなどしていた。心機一転、ここでは普通の日本人の家族として静かに暮らせると内心とても喜んでいたのを覚えてる。

母がいよいよ緩和ケア期になり、余命宣告もされた。母の親類が海外から日本にかけつけた。これが地獄の始まりだった。

私がそれまでの人生をかけて作り上げようとしていた「普通の日本人ぽい家庭らしさ」を母の親類にぶち壊された。ご近所中に「どこどこの国から来た」と片言の日本語で挨拶してまわっていた。

久しぶりに大人たちの強張った笑顔を見た。腫れ物に触れるような扱いも、それでいて野次馬的な好奇心丸出しの不躾な質問も久しぶりに経験した。

母の親類は、私の暮らしを脅かす脅威になった。敵だった。この家の何にも触れて欲しくなかった。炊事洗濯母の介護もこれまで通りほぼ全てひとりきりでやった。勝手にキッチンを使われるのが一番嫌だった。この国では珍しいスパイスや料理の香りをご近所中に振り撒かれるのが嫌だった。

わかりやすくノイローゼになっていた。というか鬱状態だったと思う。それに至る理由は色々あるけれど。とにかく両親を町内会という公の場に引き摺り出したいだけの好奇心旺盛な方々を相手に、何度も何度も丁重にお断りしてお帰り頂いたり。家庭内のイニシアチブを母の親類に取られないように文句をひとつでも言わせないように家事をしまくったり。ハサミで自傷しようとする母からハサミを取り上げたら包丁を振り回されて殺してくれと懇願されたり。高校行ってる間に怪しい宗教の会合に母を連れて行かれてたり。海外から持ってきた怪しい薬で治そうと勝手に服薬してるのを止めたり。生理は止まるし禿げるし散々だった。壁に頭を打ち付けてる私を見て(実はあんまり覚えてない)、母の親類はキチガイな娘に育てたと父を責め立てた。あろうことか私の目の前で。私には母国語が通じないと思い込んで。両親の母国語と日本語の間で苦しんできた私にとって、そのやり方も、話の内容も、あまりにも最低だった。人生で初めて口が回らなくなるほど激怒した。殺したくなるほどの憎悪という感情を知った。この人たちと同じ血が少しでも流れてるなんて信じられなくて、死ぬなら血液を全部抜いてから死にたいと本気で思った。

通訳や翻訳が少しできて、少し普通じゃない家庭環境なだけで、学校の先生はしきりに「立派な国際人になってください」「これからの時代、あなたのような存在が多様な文化の橋渡しとして活躍する」と私に言っていた。買いかぶりすぎである。とはいえ私も純粋にそうなりたい、なれたらいいなと思っていた。でもこの瞬間に「文化の違う相手を理解して受け入れるなんて無理だ」って理解してしまった。鍋を投げ合って罵り合ってキッチンの床を凹ませた。

獣のように怒り狂い、気が触れたような私をみて、親類は母国へ帰った。キッチンの床の修繕費のを一円も払わず。それから死ぬまで母は一度も私の名前を呼ばなかった。

終末ケアの主治医に、泣きながらめちゃくちゃ怒られた。けれど結局私も母が死ぬまで謝れなかった。だって本当に許せなかった。母にとっては唯一の親類でも、私にとっては生活を脅かす敵だった。母を変な宗教に入れようとする敵だった。

母が死んだとき、私はもう大学生だった。家庭環境は完全に隠すつもりだった。私のことを知る人はいなかったし。この頃には「実はね…」と打ち明けたところで信じてもらえないレベルには「普通の日本人」らしくなれてたと思う。事実、こちらが言うまで気がつかれたことはなかった。

ここまでつらつらと両親の母国の文化を隠し、日本人らしくあろうと言動とっていたことを書いてるが、決して異文化を否定したかったわけではない。言い訳みたいな文章だけど、日本人らしくありたいことも、自分の家庭環境が特殊がゆえに異文化を知るのが楽しいこともそれゆえに苦しいことも、私にとってはすべて同列にある。自分のことは人にはあまり言えないし大人になればなるほど積極的に言いにくいけれど、私の個性であると自覚してる。ただこの国では生きづらいから、マジョリティになるために自分のことを隠しているだけで。

本当は海外の文化や料理を調べるのが好きだ。特に異文化の交わる都市の宗教建築や食文化は魅力的で、大学の専攻もそういったことを選んだ。異文化の交わる都市はつまり、過去に民族間で争いのあった場所なのに。または今でも生死のレベルで異文化に苦しめられる人々もいるのに。残酷な世界が生み出す文化があまりにも美しくて、魅了されていった。

大学1年の後期、たまたまダブルリミテッドと貧困がテーマの講義に出席した。レポート課題はあるもののあまり学生の意見は拾い上げない、一方的な講義をするタイプの教授だった。あんなに隠してきたのに、誰かに本当の私を知って欲しくて、自分の出自や「どこに行ってもマジョリティにもマイノリティにもなりきれない」と愚痴のようなものを書き殴ってレポート課題として提出した。翌週の出欠で名前を呼ばれたとき、「きみか」と言われ、あとで来るようにと言われた。愚痴しか書いてないレポートの書き直しかなと思ったけど、予想に反して教授とはたまにお茶をする仲になった。2年からでも遅くはないからと教職の道を何度か勧められた。多様性の苦しみと魅力が理解できる人間が教育の場にいれたら良いのではないかと。簡単に文化理解とか共存共生とか言わない人間が教育の場にいたらきっと誰かが救われると。私にもそんな先生や大人がいてほしかったな。学校という組織は私にとって息苦しさの象徴で、そのなかで自分をさらけ出して働くことが怖くて丁重にお断りしたけれど。

これは持論だけれど、「常識」とはその人の半径10キロ圏内と、成人するまでに出会ってきた人間で形成されると思ってる。文化もそれに近いものだと思っている。今はSNSでいろんな人と繋がれるけれど、人間は無意識に同じような常識や文化の人間を選んでコミュニティを形成する。

同じ日本人同士でも、常識の通じない相手は往々にいる。だから、とまでは言わないけど、同じ言語話者の間でもすれ違うのに、文化の違いなんて理解ができなくて当然。大切なのは相手を尊重することと、違いを把握して、強く拒絶をしないこと。でもこれだけのことが難しい。自分と違うものは怖いし、敵と感じやすい。何語か分からない言葉を聞いた時、相手が怒ってるように聞こえるように。

違うという事実を把握するだけでいいのに、人間はどうして相手や自分に理解を求めようとするのか。たぶん、自分の枠に無理やり収めてしまった方が生きやすいからだと思う。

私がそうして生きてきたように。

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私はこの国で日本人として生きてきた。今後もそうやって生きていく。でもたまにこうやって匿名で誰かに本当の私をさらけ出したくなったりする。

日本で仕事をする父は、日本語の書き取りと読み取りが苦手なこと以外は「普通の日本人」ぽくなった。厄介なことに昭和のクソ親父的思考も身につけられてしまった。これは大きな誤算だった。そんなことよりいい加減自分の名前の書き順くらい覚えて欲しい。

母の得意料理だった異国料理は段々と作らなくなった。

あんなに家庭内で3カ国語が飛び交っていたのに、いつのまにか家庭内公用語は日本語のみになった。

一時は通訳翻訳できていた両親の母国語を使わなくなり、ついにはほとんど忘れてしまった。就職に強みになるからきちんと勉強しろと父にも歴代の先生方にも散々言われた。でも、私の不自由の象徴の言語が、私を救ってくれるなんて思えなかった。

小学生のあの日…日本語教室のドアを初めて開けたとき、両親の母国でも日本でもマジョリティにはなれないと実感した。それならまだ日本にいる方がマジョリティに擬態できる。そう思って、母の「どっちの国で暮らしたい?」の問いに日本と答え続けてきた。母がずっと母国に帰りたかったのを、本当はずっと知っていながら。

立派な国際人になるなんて受け売りの言葉の作文で表彰されながらも、教授と仲良くなりながらも、移民をテーマにした卒論で学部選抜されても、いつも私は「普通の日本人になりたい」「せめて普通の日本人に好かれるちょっと特殊な日本人になりたい」と思っていた。

そうやって30年弱かけて、私はマジョリティになるために、愛しくも憎い、最も近い異文化を捨ててきた。

そして今度は「普通の日本人」として、他の異文化のことを趣味程度に齧りながら食や建築や民族衣装を楽しんでる。

最低なやり方だなって我ながら思う。


「日本人です。」

嘘ではないのに、なぜかそう強く思うたびに嘘をついたときと似た罪悪感や息苦しさを覚える。あれだけ普通の日本人になりたいと願いながら異文化を捨ててもなお。

きっとこういう生き方は間違ってる。でも、このジェンダーギャップさえ埋められない国で、どこに行ってもマジョリティにもマイノリティにも属せないまま、今と同じ生き方ができたのかと思うと「ノー」。

普通の日本人として生きやすいように日本人というマジョリティに擬態してきたのに、まさか「普通の日本人」さえ生きづらい国になっていた。なんていうイソップ物語だろう。




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