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2024年7月2日「死恐怖症」

 小さい頃から暗い天井を見つめていると何かに吸い込まれるような、時には終わりのない奈落に落ちていくような感覚があった。そのまま見続けていると自分という「存在」について考え始める。人間の寿命は長く見積もって100年、自分より先に生まれたどんな人間も例外なくそうやって天寿を全うしてきた。このまま成長して成人しておっさんになって人生折り返して衰弱していってうまく体も動かせなくなってついには最期を迎える、至極当然であたりまえで不動の事実でどうしようもないくらい残酷で、そして不可避だった。一番怖いのはこの自分という「意識」がなくなることだった。
『われ思う、ゆえにわれあり』(デカルト)とはよく言ったもので、この世界にあるものすべてがもしかしたら幻覚、幻想なのかもしれない、でも唯一確かなことはこの「自分という意識」だけは紛れもないものだということだ。死んだらどうなるんだろう、肉体は確実になくなる、それなら意識は?今こうして必死に考え悩み苦しんでいるこの心がなくなるんだろうか。自分が…なくなる…?そう考えただけでどうしようもなく怖くなってしまう。これからどんな人生を送ったって最後には全部忘れて宇宙を漂って、そのころにはもう「意識」はなくなって、そうやって「永遠に自分じゃない何か」として恒久的に時間が経過するだけ。


 父は笑って答えた。「大丈夫大丈夫、みんなもともと居たところに帰るだけだよ。怖くないよ。」八歳の睡くんは絶望した。(いや、19になってからこれ考えてみたら絶対エヴァの影響じゃん、じゃあいいかとはなんないよ?)
 母は普段のめんどくさがりな性格からは考えられないほど真剣な顔をし、膝をついて抱き寄せて答えた。「睡くんはこのさきもお父さんやお母さんよりもずーっとたくさん生きるんだよ。これからたくさん幸せになって大人になるんだよ。おじいちゃんもおばあちゃんもそうやってお母さんのこと育ててくれたんだよ。」八歳の睡くんは思いもよらない母の行動と言葉に終始驚いていたが、不思議と不安はなくなっていた。多分この人も同じように考えたことがあって、みんなそれと向き合っていくしかないんだ、とそう思った。


 思うに父の影響で読んでいた『火の鳥』(手塚治虫)のせいだ。この漫画は12巻に分かれ、2、3巻で一つのストーリーが構成されている。それぞれの話は場面も時代設定もばらばら、古事記の話だったりギリシャ神話の話だったり地球じゃない星の話だったり我々と姿形が異なるがっつりSFだったりする。共通していることは、火の鳥(不死鳥、金の鳥)の血を飲んだ人間は不老不死になる、という設定である。当然ながら人々はその鳥を射止め、不老不死という人類の大願を果たそうとする、死ぬのが怖いからだ。では不老不死になった人間がその後どうなるのか、その結末は悲惨なものだった。やっとのことで乗り越えた「死」の先は永遠と続く「孤独」との戦いがあるだけだからだ。
 …自分以外の人類が絶滅した星で生き残りを探す。とある廃れた施設跡で冷凍カプセルを見つける。そこにはこう書いてあった「400年後に目覚めます!まだあけないでね!」歓喜した。やっと人と喋れるんだ!400年待ってやる!…50年後…「まだ…まだ…」…70年後…「あと330…」100年後…「くそ!もうこっちから開けてやる!」バールを手に取り力ずくでカプセルを開いた。中にはバラバラに砕けた人間が横たわっていた。当然だ。まだ100年しか経っていないのだから。孤独に耐え切れず正気を失い数百年ぶりに出会えたかもしれない話し相手をこの手で殺してしまった。…
不老不死が死よりも怖いのなら一体どうすればいいんだろう。『火の鳥』を読んだ当時はただ解決策のない絶望的な状況が広がっているようにしか見えず、底の見えない谷を覗いているような、ギロチンが落ちるのを今か今かと待っているような、そんな感覚だった。


 人生の目標として歴史に名を残すこと、という人が一定数存在するがどうも納得がいかなかった。だって常日頃から「アテネの三大哲学者」ソクラテス、プラトン、アリストテレス、「歌曲の王」シューベルト、または「長恨歌」を詠んだ白居易のことを考えるだろうか。歴史に名をのこしたからなんだっていうんだ。この地球でどれだけの功績を残したって「意識」は残らないのに。一方でこういう人もいる。
「人はいつ死ぬと思う?人に忘れられた時さ!!!」(Drヒルルク)
ワンピースの大好きなシーンの一つ、もし自分の「意識」がなくなっても、他人のなかの「存在」は消えない、というセリフ。自分の大切な誰かの中で生き続けられるなら「意識」がなくなることなんかこわくない、という意味なんだと思う。いつかはそんな大切な人に出会えるんだろうか。


 19の現在に至るまで克服できていない「死恐怖症」のおかげで不思議と「死にたい」という思考に陥っていもすぐに抜け出すことができた。お先真っ暗な人生のどん底でもう終わりにしようかな、という思考がよぎってもそれを上回るくらいの「こんな負けっぱなしで終われるわけがない!」でこれまで何とか人としての形を保てていると思う。もちろん自殺や安楽死を否定するつもりはないけれどそういった選択肢がある人とは考え方が根本的に違うのだと感じる。自ら死を選ぶことは「意識」を否定し捨てること、なのにその選択をした時点で「意識」に従っていることになるから。だからこそどうせ死ぬなら最後まで醜く恥ずかしくダサくもがいていきのびてやろうと思う。(あと死んだらほぼ確実に地獄に落ちそうなので今のうちに楽しまなきゃ。)
 生まれてきた意味なんて考えなくてもいいと思う。だって生きてるだけで、呼吸してるだけで奇跡なんだから。この先どんな大人になるのか、どんな人生を送ってどんな最期を迎えるのか不安は残る、けど誰かの幸せを願って終わりを迎えられるならどんなに幸せだろうか。誰かの”生まれてきた意味”になれたならそれがゴールなんだと思う。

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