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第二十二章 馴染みの娼婦が背中を押した「男の価値は…」(前編)

この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません。


赤線とはー
性風俗の混乱を恐れた国が慰安所として許可を出した特殊飲食店街。半ば公認で売春が行われ、警察の地図に赤い線で囲ったため、赤線と呼ばれた。ー


―横浜・永真カフェ街―

 名古屋に乗り込む前に、どうしても逢いたい女がいた。千秋である。旅を始めてから千秋とは久しく逢っていなかったが、千秋は今も横浜の赤線街・永真カフェ街にいる筈だ。
 今から名古屋に向かっても、かなり遅い時間になる。今夜は千秋のいる「かもめ」に泊まって、明日、名古屋に出発すればいい。

 ハマの夜を眩いネオンに染め、夢一夜の色恋遊びで賑わう大歓楽街・永真カフェ街。
通りに入ると店先に出ている女たちが艶を競い袖を引いて来た。

「ねぇお兄さん、遊んで行かない」

 その誘いを断りながら、浜やんは「かもめ」に向かって歩いて行った。

「あら、久しぶり。お泊まり?」

 店先に立っていた千秋が目ざとく浜やんを見つけ声をかけて来た。千秋は白い乳房のふくらみを覗かせた着物姿で鼻にかかるような声を上げ、相変わらずの色香を漂わせていた。
 部屋に上がって一服すると

「ねぇ早く…床付けようよ」

 と言って色目を使い、浜やんの上着のボタンをはずそうとした。

「いや、今夜は気が進まねぇんだ」

「あら、どうしてよ」

「別に理由はねぇけど…」

「あんたにしちゃ、おかしいわね。何かあったんでしょ」

 船乗り時代から頻繁に通って来る馴染みの客というよりも、自分より十四、五才下の浜やんは千秋にとって時には弟分のような存在でもあった。浜やんも千秋の姐御然とした振る舞いに甘えているところがある。浜やんの顔色一つで、何を考えているのか読み取られてしまうような仲だ。隠し事は、この女には無用だ。

「実は嫌なことがあってよ。誰にも内緒にしてくれよ…」

「何よ、水くさい」

 浜やんがコトの顛末を話し始めた。

「俺…今、船員辞めているんだ」

「辞めて、何やってるのよ」

「赤線相手に商売やっていたんだ」

「商売?」

「ああ、赤線に女のコを連れて行って、売っていたんだよ。いや、実際には売っちゃいねえけどよ。女将から金をもらって…その後で仲間が客になって女のコたちと逃げて来ちゃってよ」

 さすがに千秋は驚いた。

「あんた、そんなことやってたの。で、どのくらい店荒らしたの」

「全部で四軒ぐらいか」

「どの辺で?」

「九州とか、名古屋とか…でも見つかっちゃったんだ名古屋で。マリっていう女のコが捕まっちゃって」

「助けないの?」

「だから、助けようと思って…でも、仲間は離れちゃったし、丸腰のまま一人で行ったら逆に殺されちまうからピストル用意してきたんだ。明日乗り込むつもりだ。乗り込んで絶対助け出すんだ」

「……」

「見損なったか?」

 話を終えた浜やんが千秋の反応を伺った。
千秋は浜やんを睨んで、いきなり怒鳴った。

「どうしようもねえ悪党だ!」

 そう言った後で、もう一言付け加えた。

「世間の評価はね。誰が聞いたってそう思うよ。だけど…」

 言葉を濁してタバコを吸うと、今度は思い切り煙を吐き出した。

「あんた、その娘に惚れてるね。あんたのことを悪党って言ったけど、私の中じゃその娘を助け出したら評価は変わるよ。あんたは根っからの悪党じゃない。それは私も知ってるし、本当に悪い奴だったら助けになんか行こうと思わないよ。
 この世界にゃ、そうやって売られて男がナシのつぶてになったまま、店に縛られている女がごまんといるんだ」

 いつかは迎えに行くという言葉を信じながらも何人の女が赤線と言う檻の中から抜け出せないでいることか。掟に縛られ、体を蝕まれてもである。それは千秋自身もそうだった。

「…不思議なもんね。金も体もがんじがらめの中で生きている身にゃ、そうやって店からお金を奪ったって話聞くだけで気分がスカッとする部分もあるよ。ざまぁ見ろって。だって店側のピンハネってひどすぎるからね」

 詐欺という本来は悪の行為も千秋のような赤線の〝中の女〟にとってはそれがある種、痛快に思えるほど赤線の実体はひどすぎた。国が公認した集団売春街であるそれぞれの特殊飲食店が、金を生む道具として女たちを縛り、女たちは体が蝕まれる程働いても借金が消えない。凄まじいまでの搾取が続いていた。

続き > 第二十二章 馴染みの娼婦が背中を押した「男の価値は…」(後編)
―横浜・永真カフェ街―

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◆単行本(四六判)

◆amazon・電子書籍

◆作詞・作曲・歌っています。


参考文献

兼松佐知子(昭和62年)『閉じられた履歴書 新宿・性を売る女達の30年』朝日新聞社

木村聡(写真・文)(平成10年)『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』 自由国民社

木村聡(写真・文)(平成14年)『赤線跡を歩く 続・消えゆく夢の街を訪ねて2』自由国民社

澤地 久枝(昭和55年)『ぬくもりのある旅』文藝春秋

清水一行(平成8年)『赤線物語』 角川書店

新吉原女子保健組合(編)・関根弘(編)(昭和48年)『明るい谷間 赤線従業婦の手記 復刻版』土曜美術社

菅原幸助(昭和62年)『CHINA TOWN変貌する横浜中華街』株式会社洋泉社

『旅行の手帖(No・20)』(昭和30年5月号) 自由国民社

 ※近代庶民生活誌14 色街・遊郭(パート2)南 博  三一書房(平成5年6月)

名古屋市中村区制十五周年記念協賛会(編)(昭和28年)『中村区市』(名古屋市)中村区制十五周年記念協賛会

日本国有鉄道監修『時刻表(昭和30年)』日本交通公社

日本遊覧社(編)・渡辺豪(編) (昭和5年)『全国遊郭案内』日本遊覧社

広岡敬一(写真・文)(平成13年)『昭和色街美人帖』自由国民社

※戦後・性風俗年表(昭和20年~昭和33年)

毎日新聞出版平成史編集室(平成元年)『昭和史全記録』 毎日新聞社

松川二郎(昭和4年)『全国花街めぐり』誠文堂

森崎和江(平成28年)『からゆきさん 異国に売られた少女たち』朝日新聞出版

山崎朋子(平成20年)『サンダカン八番娼館』文藝春秋

吉見周子(昭和59年)『売娼の社会史』雄山閣出版

渡辺寛(昭和30年)『全国女性街ガイド』 季節風書店

大矢雅弘(平成30年)『「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す〈https://webronza.asahi.com/national/articles/2018041300006.html〉令和2年12月14日アクセス 朝日新聞デジタル

※参考文献の他に物語の舞台となっている地などで、話を聞いた情報も入れています。取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

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