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『フィッシュ・アイ・ドライブ』第1話:熱帯夜の人魚
あらすじ
箱崎希虹(はこざきのあ)は、六本木のショークラブ『熱帯夜』のダンサー。ある日のショータイム、一人の不審な男が乱入してきて、希虹に向かって発砲してきた。男の狙いは希虹であった。六本木の夜を逃げる希虹。
一方、愛車のフェラーリで夜の六本木にいた檜山アキラ(ひやまあきら)。突然、停めていた車に勝手に乗り込んでいる女の存在に気付く。希虹だった。希虹は急いで車を出せと命じる。
アキラは言われるままに車を走らせる。道中、希虹がなぜ不審な男に狙われているのか、その経緯と、希虹自身が持っているという「ある秘密」を明かされる。
お互い何も知らない同士の二人であったが、逃避行の中で互いに不思議な感情を抱き始める。
本編
前七年の星空でのできごと
春、木星は金星と出会う
夏と秋、木星は魚座の中でたびたび土星と出会う
(河出書房新社 世界の歴史5「ローマ帝国とキリスト教」より)
*
希虹(のあ)が、夜の人魚と呼ばれる唯一の時間がある。その時間だけは、街の喧騒を離れ、地上の重力からも解放された。外界の音は遮られ、自分の体内を打つ鼓動だけが、誰かの囁きのように聴こえた。
希虹が体を動かすたびに、水は衣のように絡まり、希虹の裸体を覆う。
人が、海という水から進化してきた生命であることが、特別なことであるように思えた。なぜなら、その時間は永遠には続かなかったからだ。
人魚でいられる時間は限られていた。だが、少しでも永遠に近づきたいと、希虹は夢中で泳いだ。
踊るように、泳いだ。
巨大水槽の中を自在に泳ぐ希虹の姿は、都会の深海を漂う人魚そのものであった。
その姿に惹かれ、働くことに疲弊した男たちが集まる場所、それが六本木のショーレストラン『熱帯夜』であった。
膜のように薄いガラス越しに、酒に酔った男たちの姿が見える。若い女もいる。希虹のゆたう姿に見とれるもの、冷やかし半分で来店するもの、その表情、姿は手に取るようにわかった。
場内の暗転と共に希虹のソロパートが終わる。
水中を一気に駆け上がり、暗いうちに水槽を出る必要があった。水面から顔を出すと、客席の喝采が聴こえてくる。天井から、客席までの全てを見下ろせる仕掛けになっていた。水槽に潜りこむのも天井からだ。
再び、巨大水槽前のステージをスポットライトが照らし、別の踊り手たちが舞台袖から現れる。客席から歓声が上がった。
希虹のもとに集まったスタッフから、タオルとバスローブが渡される。
「希虹さん、感動しました」つい最近入店したという新人の若い男性スタッフが、興奮した口調で希虹に話しかけてきた。別のスタッフが、「バカ野郎まだ本番中だ」と新人の頭を小突いた。
希虹は次のプログラムの指示をスタッフに飛ばす。『熱帯夜』のトップダンサーである希虹は、ショーの演出、監督を一手で行っていた。演出を担当している人間は別にいたが、希虹と折が合わず、つい最近辞めた。
今夜は、希虹が演出を手掛けた初めてのショーであり、新装開店による再出発の日でもあった。「六本木をラスベガスのような一流のエンターテインメントの街にする」が希虹の口癖であり、夢であった。
「六本木が無理にしても、せめてこの店はね。他のショークラブとは次元が違うことを見せなくちゃ」
ステージ上では、希虹よりも若い踊り手達が、煌びやかな衣装を纏いながら体を動かしている。その衣装を一枚一枚投げ捨てることで、客席の反応は変わる。それが夜の街の現実であった。ショーそのものを楽しんでいるわけではないことは、希虹も重々わかっていた。
踊り手たちが、目の前に座っていた一人の客の手を引いてステージに上げる。客の胸元に踊り手の手が伸びると、卑猥な声が客席から上がる。
「裸体が見られればそれでいい。客はそのために金を払っているんだ」
前任の演出家の言葉であった。その通りとしかいいようがないが、希虹には許せなかった。
「わたしがやっている水中ストリップは、芸術なんだ」と啖呵を切った。
その手前、中途半端なことはしたくない。
ラストの見せ場で、希虹と同じ「人魚」を演じる樹里(じゅり)と千春(ちはる)が天井裏に昇ってくる。
まだ二十歳そこらの若い二人である。希虹がオーディションでスカウトし特訓を重ね、もっとも信頼を置いているメンバーだ。
「樹里、千春よろしく」希虹が目で合図をする。
「よろしく」と樹里も千春も合図を返す。
巨大水槽の中を自在に泳げる踊り手は、この三人しかいない。三人揃い踏みで泳ぐ。それがこのショーのクライマックスであり、店の最大の売りであった。
「よろしくお願いします」スタッフの掛け声があがる。
音楽が切り替わり、いよいよ出番である。
「行くよ」という希虹の掛け声とともに、三人は羽織っていたバスローブを脱ぎ捨て、裸のまま勢いよく水槽に飛び込む。
体が、ゆっくりと水に沈んでいく。三人の登場に合わせ、青い光が巨大水槽を照らす。
暗闇の中、希虹たちが泳ぐ姿が幻想的に浮き上がる。三人は息の合った動きで、照明の動きとともに水の中を交差していく。
この日のために、何日もリハーサルを繰り返してきた。希虹が手掛ける初めての演目ということで、樹里も千春も、気合が入っているのがわかった。希虹には、それがたまらなく嬉しかった。
三人が見せる妖艶な泳ぎに、客席から笑いが消えた。めまぐるしく変化する水の世界を、誰もが息を呑んで見守り始めた。『熱帯夜』のショーが、ただのストリップではないということがわかる瞬間であった。
客の誰もが固唾を呑んで、三人の泳ぐ姿を見守っていた。
すると突然、店の入り口から、誰かの奇声があがった。一体何事だと、客席の誰もが、不審と怒りにざわめき立つ。
一人の男が、客席の間を闊歩してくるのがわかる。黒いロングコートをまとった長身の男であった。
「待て! それ以上進むな」
剣幕な顔で追ってきたボーイらが男の制止にかかる。だが、男は躊躇することなく、ボーイを殴り飛ばした。ボーイの体が、客のテーブルになだれ込む。客の嘆息とともに、グラスが割れる音が響いた。
他のボーイも続こうとしたが、男が手にしているものを確認すると、その場で固まる他なかった。周りの客は、咄嗟の出来事に、ただ唖然とするしかなかった。
水槽の中でいち早く異変に気付いた希虹は、戸惑う樹里と千春に、上へ戻るよう、ジェスチャーで伝える。
一度照明が落ち、その後すぐに会場が素の明るさに戻ると、客席が一斉にどよめき立った。
男が拳銃を水槽に向けていたのだ。
嘘だろ? 誰もがそんな思いに包まれた。銃口は希虹たちがいる水槽の方に向けられていた。
三人が水中を駆け上がると同時に、けたたましい音が鳴り響いた。水槽のガラスが割れ、水があふれ出す。客の叫び声と、騒ぎを聞きつけてきた踊り手たちの悲鳴があがる。
三人は間一髪で水槽を抜け出した。
「大丈夫ですか!」
天井で待機していたスタッフが慌てて駆けつけてくる。
「何これ? 襲われてんのアタシたち」樹里は興奮して這いあがる。
「拳銃だったよね?」千春はパニックになっている。
「大丈夫、狙われているのはわたしだから。みんな控室にでも隠れてて」
希虹が冷静な声で二人にバスローブを渡す。
「え?」二人は驚いた声をあげ、希虹を見る。
「あんたたち、樹里と千春をしっかり誘導すんのよ」
希虹はスタッフにそう言うと、自らもバスローブを羽織った。そのまま天井裏を駆けて、裏口に続く階段を下りていった。
『熱帯夜』の会場内は騒然となっていた。客の誰もが、目の前で起きている出来事を理解できず、祈るように身を伏していた。
拳銃を撃ち放った男は、すぐにその場を立ち去り、店の裏口へと進入していった。
希虹は裏口からちょうど逃げるところであった。
振り返ると、もうそこに、男の姿があった。男は希虹と目が合うと、すかさぜ拳銃を向けてくる。
希虹は「クソが!」と男に向かって舌打ちしつつ、非常階段口に向かって走った。
また、銃弾が放たれる。けたたましい音が響き渡った。寸手のところで、希虹は非常階段口に滑り込んだ。
希虹は飛ぶ思いで階段を下る。『熱帯夜』が商業ビルの六階にあるのは不幸であった。男も希虹を追ってくる。
こんなに死に物狂いで走るのはいつ以来だろうか。そんなことを思いながら希虹は、一階の手すりを飛び越えると、六本木の夜の喧騒に身を投げ出した。
かつてヴェルファーレがあった通りを駆け出すと、希虹のことをよく知る客引きの黒人やクラブの人間が、一体何があったというのだという顔で希虹を呼び止める。
「ノアちゃんどうしたの? そんな格好で」
そのいちいちに返事をしている余裕がなかった。「逃げてんの!」そう叫ぶしかなかった。
希虹が風のように去ると、続いて怪しげな黒服の男が走ってくる。希虹の身に、何か危険が迫っていることを察した街の仲間たちは、咄嗟に男を制しようとしたが、銃を突きつけられ、腰を抜かすしかなかった。
希虹は外苑東通りに出ると、止まることなく右に折れ、そのまま六本木交差点に向かった。アマンドの対角に、交番がある。タクシー渋滞の間を抜けていく。クラクションの集中砲火が希虹に浴びせられる。男もまた、飛び出してくるタクシーから、身をよけて追いかけてくる。
考えていた以上にしつこい男であった。
交番は目の前であった。 交番の前に恰幅のいい警官が立っていた。 警官は、裸同然の姿で勢いよく向かってくる希虹に気付くと、何かを察したようだった。
「お巡りさん大変。危ない奴がいる!」希虹が走りながら息切々に叫ぶ。
希虹の鬼気迫った声を聞いて、交差点の歩行者らが一斉に振りかえる。
交番の中にいた、もう一人の若い警官も外に出てきた。
「あいつ、銃持ってる! 取り押さえて」
「銃?」警官は怪訝な顔をする。
「待ちなさい」もう一人の若い警官が手を伸ばし、希虹を呼び止めようとした。
「あっちよ!」希虹はそう言って後ろを指さすと、警官から身を交わし、立ち止まることなく走り去った。
警官が慌てて後ろを振り返ると、黒服に身を包んだ、不審極まりない男がすぐそばまで迫ってくるのがわかった。
男が手にしているものが、銃であると確信した時には遅く、すでに銃口が警官に向けられていた。二人の警官は不覚の念で両手を上げ、男が黙って去るのを見守るしかなかった。
男が何もせずそのまま走り去ると、恰幅のいい方の警官が、興奮を抑えられないというように、がなり散らした。
「追え、追うんだ!」
そして二人を追って、重たそうな背中を揺らしながら走った。若い方は、冷静だった。無線機で署に連絡を入れる。
「本物かどうかはわかりません。発砲はしていません。われわれに向けてきました。方角ですか? 外苑東通りを東京タワーに向かって走っています」
続く
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