『フィッシュ・アイ・ドライブ』第5話:危険な元カレ
*
警察との「鬼ごっこ」は慣れたものだった。撒くには撒いたが、東京中が相当な騒ぎになっているので、江崎南斗(えざきみなと)はすぐに溝口に連絡をし、鉄砲玉をよこさせた。
晴海ふ頭で、身替りとなる若者と落ち合った。まだ二十歳そこらのガキだった。普段、大麻入りのクッキーを主食にしているジャンキーということだったので、ちょうどよかった。ジャンキーが、クスリをやりすぎたあまり、夜の六本木で拳銃をぶっ放し、タクシーを奪い乗り、暴走したまでのこと。
江崎南斗は、自分が着ていた黒のジャケットを脱ぎ、若者に羽織らせた。サングラスも手渡した。
若者が代りの服を持ってきてくれた。ユニクロとかで売っていそうなパーカーで少しださいが、我慢する。
若者が羽織ったジャケットの内ポケットにトカレフを押し込み、奪ったタクシーの運転席に乗りこませた。タクシーはフロントがガタガタになっている。
「向かうのは麻布警察署だ。そこで自首するんだ」
江崎南斗は、若者の肩に手を置き、すまねえなというようにポンと叩く。
「チャカのこときかれたらなんて答えればいいですか?」
ジャンキーの若者が、江崎南斗の方を見つめてくる。
「さっきも言ったろ、『熱帯夜』というショークラブのトイレでたまたまこれを見つけた。それで、女の裸見ていたら興奮してきてぶっ放してしまった。あとは余計なこと訊かれても答えなくていい。とにかく最高な夜だったんだって、普段通りにらりった感じで話せば大丈夫だ」
「すぐ出れるんですよね」
若者は不安そうな顔をしている。
「だいじょうぶ、ひと月くらいの辛抱だ。溝口がなんとかしてくれるよ」
若者は納得した様子ではなかったが、江崎南斗が「だいじょうぶ」と繰り返し唱えると、その言葉に頷き、「麻布警察署」とナビを入れてから車を走らせた。蛇行運転しているので、本当に大丈夫か不安になったが、まあ、これで時間稼ぎにはなるだろうと江崎南斗はアメリカンスピリットに火を点けた。
江崎南斗は大通りに出ると、流していたタクシーをつかまえて千葉の船橋に向かってくれと告げた。いったん東京は離れ、騒ぎがおさまるまで身を潜めていようと思った。
与えられた時間に余裕があるわけではなかったが、箱崎希虹(はこざきのあ)が行くところは、だいたい見当がついている。
箱崎家の言い伝えを信じているあの女が、最終的に向かう場所は、一つしかない。それまでに、改めて準備を整え、あの女を追いかける。
「これ以上は俺も引っ張れないぜ。わかってるよな」
と、溝口には念をおされている。「わかっているよ、うるせえな」と江崎南斗は苛立ちながら返した。
それにしても、六本木のショークラブであの女を見つけたまではよかったが、フェラーリでの逃亡は想定外だった。運転していた男は、仲間なのだろうか。それとも希虹の男だろうか。
フェラーリ野郎は、東京タワー通りで突然、ドリフトをかまして、反対車線へと逃げっていったが、すれ違いざまにしか面を拝むことができなかった。ほんの一瞬だったわけで、はっきりと覚えているわけではないのだが、どこかで見た顔だと、その時に思ったものであった。
だが、一体どこで見たのか、あるいはどこかで会ったことがあったか。思い出そうとするのだが具体的にはわからない。なんというか、あのフェラーリ野郎にはどこか「同じ匂い」のようなものさえ、江崎南斗には感じられたのであった。
流れゆく外の景色を眺めながら、江崎南斗は先ほどまでのカーチェイスを振り返る。久々の興奮だった。獲物を追いつめる狩人にでもなった気分である。今まで、何度となくそのようにして人間を追い詰めてきたことはある。だが、これまでは、生きるに値しないゴミみたいな人間ばかりだ。そいつ一人が、この惑星(ほし)から消えようが、誰も気付くことはないし、世界が何一つ変わるわけでもない。虫けら以下の連中である。
だが、今回の獲物はワケが違う。これまで、自分が惚れこんでいた女である。
箱崎希虹。
博多に箱崎希虹あり、と言われていたような女だ。
箱崎家の血筋、父親の箱崎隆二が手塩にかけて育ててきた女。互いにまだ高校生だったガキの頃、希虹の存在とその美貌は博多中に轟いていた。
高嶺の花。簡単には手が出せない、手を出そうものなら、けっして比喩ではなく、命と引き換えの「覚悟」が必要だった。
そんな女と、ようやく面と向かって話すことができたのは、江崎南斗が二十五歳になった時であった。
希虹が纏っていたオーラにやられ、低姿勢でしか近づけなかった江崎南斗に対し、彼女は「敬語使うんやめて」と優しく微笑みかけてくれたのであった。
「男と女なんて五分と五分やろ」
それが、希虹の口癖だった。父親の教育か、それとも学識のあった祖父の影響か。よく本を読み、難しいことも知っていた。一言でいって頭がよい。福岡で随一のバカ高校に通っていた自分とでは、知能のレベルでは雲泥の差があった。
だが、希虹が自分を見下すようなことは一切なかった。そういう女だった。何もかもができすぎだった。江崎南斗にとって、生涯最高の女であることは間違いがない。
そんな女を、今、こうして、狩猟のようにして追いかけている。追い詰めている。あの女の居場所を突き止め、東京に着いた頃から、アドレナリンが出っぱなしである。
三年前、箱崎希虹は、突然博多からいなくなった。消息不明になった。いっときは何者かによって攫われたのではという憶測も出まわったが、半年もすると、大阪の新地に出現しているという噂が立った。今思えばその噂自体が、あの女と、彼女を庇う友人らによるものだということがわかったのだが、おかげで丸一年も大阪で足止めをくらってしまった。
新地で、春を売っていると聞いていたので、箱崎希虹もついに地に墜ちたかと、苛立ちとも怒りともつかぬ思いで、新地の夜の店という店をまわったのだが、見つからなかった。
すると今度は、沖縄にいるという噂話が立ち、これも行ってみると、あの女がいる気配などまるでない。そこで彼女の仲間と思われる人間を洗いざらい調べあげ、ようやくそれらの噂が根も葉もないデマだということがわかった。
ようやく手がかりを得て、見つけ出した場所が東京の六本木だったというわけだ。ほとぼりが冷めたものと油断していたのだろうか、それとも追われることに疲れ、諦めてしまったか。
よりによってショークラブで水中ストリップといった、あからさまに目立つ仕事をはじめていたのであった。
水中ストリップは、あの女の祖父が博多でやっていた商売だ。日本で初めてということで、当時は物珍しがられ話題になっていたらしい。それを孫娘である箱崎希虹が、東京で自分の仕事にしていたのだ。
『熱帯夜』で、巨大水槽の中を泳いでいた箱崎希虹は、それはそれは美しかった。できれば、あの時の記憶のままに、彼女の美しさを、その水槽の中に閉じ込めておきたかったものだが、そういうわけにもいかない。
もう、すべては手遅れなのだ。
江崎南斗は持参してきたトカレフを出し、巨大水槽めがけて銃弾を放ったのであった――。
西船橋という街で、江崎南斗は降りた。
初めての街で、とにかくシャワーを浴びたかった。足がつかなそうなところで、駅前の『Rainbow』というラブホテルに一人で入った。
時間は零時をまわっていた。そのままベッドに身を置いていたのだが、カーチェイスの興奮のあまり、なかなか寝付けなかった江崎南斗は、せっかくだから東京(こっち)の女を抱きたいと思い、デリヘル嬢を呼ぶことにした。
「お兄さん、すごい体」
脱衣所で嬢が江崎南斗の服を一枚一枚脱がしていくと、その肉付きに感嘆の声をあげる。
「惚れ惚れするだろう?」
江崎南斗は軽口を叩く。嬢はうんとうなずき、手の平で江崎南斗の二の腕や胸を撫でまわす。
「なんかスポーツやっているの?」
「ああ、昔はボクシングをやっていた」
「すごい、格闘技やっていたんだ」
嬢に熱いシャワーをかけられながら、江崎南斗は風呂の鏡に映し出された自分の肉体を眺める。筋肉の衰えはなかったが、ガキの頃からの喧嘩で作ってきた無数の傷がいくつも残ったままであった。ナイフ、アイスピック、ビール瓶。喧嘩で道具を使わないのは江崎南斗のポリシーだったが、相手はそうではない。
歴戦を象徴する傷跡を見るたびに、江崎南斗は血気盛んだった若かった頃の自分を誇らしく思う。
「お兄さん、これすごいよねえ。何の絵なの?」
嬢が、江崎南斗の二の腕にシャワーの湯をあてる。平常を装っているようだが、顔が少し引き攣っているのがわかる。
「ああ、これのことか」と江崎南斗は、自分の右肩から手首にかけて施された刺青を眺め回す。
「お魚さんね」
「ああそうだ」
右腕には、龍の如く滝を昇っていく巨大魚が描かれている。墨汁の黒がベースになるが、魚の目や鱗には、青、赤、黄が使われている。二十歳の時に入れた刺青で思い入れも強い。
「お兄さん、背中」
嬢に促され、江崎南斗を背中を向ける。
「わあ、こっちもすごい」と嬢はさらに驚いた声をあげる。
背中には、長い髭をたくわえ、怒髪天を衝く形相で剣を手にしている武人の姿が描かれている。
「これは、俺たちの神だ」
江崎南斗は得意げな笑みを浮かべる。
「こんな怖い神様いる? 鬼じゃなくて?」
嬢が笑いながら突っ込みを入れると、江崎南斗は少しむっとしたのか、反射的につい凄んだ表情を作ってしまった。
「鬼だあ?」
嬢は、その表情を見て、しまったとばかりに眉をしかめ、笑うのをやめた。
「これはスサノオって神だ。確かに、鬼ともいえるかもな。けど日本では、神と鬼は同じことなんだ」
江崎南斗は、驚かせてごめんよとばかりに嬢の両肩に手を置いて、ニコニコと笑いかける。
嬢の体が、震えているのがわかった。
続く
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