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宗教や信仰についての雑記 #74

◯宗教から信仰へ

つまらないと思うような日常の生活が、永遠あるいは永遠なるものとつながっているという考え方があります。
日々の仕事や家事、勉強や付き合いなどが、実は永遠とか誰かの救いとかにもつながっていると本当に思えれば、クサってやる気を失ったり不平不満からグチったりせずに、日々を気持ちよく過ごせるのではないかと思うこともあります。

しかしその一方で、宗教的な考え方や言辞はときに差別や搾取の手段として利用されることもあり、また、意図的せずともそのようなものへと変化してしまうこともあるようです。
日々を気持ちよく過ごすために宗教的な考え方をしてみても、それが誰かへの差別や被害につながったり、自分自身を追い詰めて心身を壊してしまったら意味がありません。

そんなことを考えていたとき、「宗教から信仰へ」という言葉と出逢いました。
これは、特定の宗教の教えに従った行為よりも、心の内に灯る信仰を拠り所とする回心のことだそうです。
そこには「罪の自覚」ということがあるといいます。我々日本人には「罪」と言うより、煩悩とか我執とか、自己中心性といった言葉のほうが馴染みがあるかもしれません。
そのような己の醜さを克服できない「罪」(あるいは穢れ?)の中に在りながらも、赦され生かされていることの自覚、それがこの回心の核となっているというのです。

このような回心に基づく信仰があれば、宗教が差別や搾取とつながることはなくなるのではないでしょうか。少なくともその危険性は減るのではないかと思います。
それは、己の内に罪の自覚があれば「自分に他人を非難したり裁いたりする資格があるのだろうか」という思いが湧き上がり、自ずと憐れみや慈しみの心が養われ、他者を抑圧するようなことが減ると思われるからです。

宗教から信仰への回心。それが、灰色の日常を永遠へとつなげ、そして今日、宗教が引き起こしている様々な問題を解決する鍵となるような気がするのです。

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