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宗教や信仰についての雑記 #183

◯患者

私事ですが、私には持病があるので、定期的に医療機関に通っています。
病院や診療所の待合室には、いつも多くの外来患者の方々が診察を待っています。
世の中にはこんなにも多くの患者がいるのかと、思ってしまうことがしばしばあります。

しかし見方によっては、この世に生きる全ての人が、我執や欲望や罪といった病に苦しむ患者なのだとみなすこともできます。

「衆生病む故に我病む」という言葉があります。
これは、大乗仏教の経典である『維摩経』に出てくる、在家信徒である維摩居士の語った言葉です。
この言葉は、「すべての生き物が苦しんでいるから、私も苦しんでいる」という、衆生への菩薩の慈悲を表しています。

これと似たような思想に「神の痛みの神学」というものがあります。
これは、日本のプロテスタント神学者である北森嘉蔵によって提唱された神学です(1946年初版)。
この神学の中心概念である「神の痛み」とは、神が自らの愛に反逆し、神にとって滅ぼすべき対象となった罪人に対して、神がその怒りを自らが負い、なお罪人を愛そうとする神の愛を意味します。

北森嘉蔵氏は、この「神の痛み」と維摩経の「衆生病む故に我病む」とは似ているが異なるものだと言っています。それはこの維摩経の思想には罪と罰の概念がないからです。
神が罪深い人々に対して発した、罰しようとする怒りを神自身が引き受けることにより、その痛みが生じるのであるので、そのような罪と罰の概念のない維摩経とは異なるとしています。

私にはこの「痛む神」のほうが、維摩居士よりも人間的に思えてしまいます。
なぜなら、人が他者に寛容であるためには、己の内に生ずる怒りを己自身で引き受ける痛みへの覚悟を要するからです。

なぜその痛みへの覚悟をしてまで寛容であらねばならないのか。それは、そのことが我々が罪や苦悩から救われる唯一の道だからなのだと思います。
その道は決して平坦ではなく、苦難の連続なのでしょう。そうであるからこそ我々は皆、病を抱えた患者なのだと、そんなふうに思うのです。

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