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小説|青い目と月の湖 28

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 昨日、日が暮れる前に出かけようとクロードは言ったが、マリエルは断わっていた。
 もちろん気が変わった訳ではない。
 ただ、ある程度の片付けをしておきたかったのだ。
 もう二度と帰ることはないだろうと思えば、仕方のないことだった。
 簡単な荷造りは一時間もあればできるが、気持ちの整理はそう簡単には行かない。
 決心は揺るがなくとも、やはり思い出はここにある。
 城の隅々のそれらを全て自分に移し替えるような気持ちで、マリエルは建物の中を歩いた。
 
 一番名残惜しいのは書斎と呼んでいる図書室だ。
 毎日のようにここで本を読んだ。
 小さな頃は母に絵本を読んでもらった。
 童話。
 冒険小説。
 恋愛小説。
 動物図鑑。
 昆虫図鑑。
 世界地図。
 本当に様々な本を見たり読んだりしたものだ。
 マリエルは感慨に耽りながら、壁のぐるりを覆う本棚を見上げた。
 
 部屋は四角ではなく円形をしている。
 赤紫色を主体としたモザイクタイルの丸い床を、背の高い棚が囲んでいる。
 本棚の前の床には円形にレールが敷かれ、その上に階段が設置されていた。
 これが可動式で、部屋を一周することが出来た。
 それで高い位置の本を取るのだ。
 天井近くには明り取りの窓があり、部屋の真ん中には大きな肘掛け椅子が一つある。
 肘掛けの左側は少し変わった形をしていて、肘掛けの木枠が長く前方に伸びて先端が皿のような形をしていた。
 そこに蝋燭を立てれば、本を読むのにちょうど良い明かりが出来るという仕組みだ。
 本を読んでいるうちにこの椅子の上で、よく居眠りをした事などを懐かしく思い返していると、ドアが開いた。
 
 広間のドアの三分の一ほどの小振りのドアで、その部分だけ本棚が繰り抜かれたようになっている。
「マリエル」
 他の部屋も探して回ったのか、クロードはマリエルを目に留めると安堵の表情を見せた。
 椅子の手前に立っていたマリエルに近付いて、その手を取る。
「食糧庫に行くと言っていたから。行ってみるといないから心配したよ」
「ごめんなさい」
 マリエルはクスリと笑った。
 自分の家の中にいると言うのに、なにが心配なのだろう?
 クロードは少し心配性みたいね。
 そう思いながら、マリエルはクロードの黒い髪に手を伸ばし、そっと触ってみた。
 
 昨日まで、クロードは少し遠い存在だった。
 自分よりもずっと大人で、頼れる存在ではあるにしても、物語の中の人物であるような気もしていた。
 憧れの対象はいつでも本の中にいた。
 クロードの存在はその延長のように感じられた。
 しかし彼は今ここに実在している。
 今ではこんなにも近しく感じられる。
 髪を一房手にとり指で摘まむようにして感触を確かめていると、その手をクロードの手で包まれた。
 クロードは言った。
「本を持っていくんだろう」
「ええ。一つか二つ」
「それだけでいいのか?」
「ええ。荷物は重くない方がいいでしょう?準備している食糧はあなたの家で食べ切ってしまうかも知れないけど、本はこの先も持っていくんだもの」
「でも、この蔵書の中から二つだけ選べと言われても難しそうだ」
「もう決めてるの。母によく読んでもらった絵本よ」
 マリエルはクロードから離れて、ドアの反対側の壁に歩いた。
 一番下の段に絵本が並んでいる。
 どれも表紙は赤や茶色の革張りだったが、大きさは様々だ。
 マリエルは本の前にしゃがみ、しばらく指先で並ぶ背表紙をなぞっていた。
 そしてその中から赤い本を引き抜いた。
 タイトルの文字は金色だ。
 それほど分厚くもなく、人の顔が隠れるくらいの正方形と、大きさも手頃だった。
 それを持って立ち上がり、クロードを振り返る。
 クロードは首を傾げた。
「それかい?」
「ええ。これ一つでいいわ。兎が主人公なのよ」
「気にせずに、何冊か選んでいいんだよ」
「いいの。だって、きっと旅に出れば、ゆっくり本なんて読めないと思うもの。読めそうだったら、その時にその町で買ったらいいんだわ。そうすれば新しい本を読めることにもなるでしょう」
 クロードは頷いて優しく微笑んだ。
 マリエルがその傍にいくと、クロードはマリエルの肩を抱き寄せた。
「しかし、凄い本の量だ」
「ええ」
 マリエルは、本棚を見上げるクロードを見上げた。
 クロードは初め感心するようにそれらを見ていたが、途中で目を細め、何かを考えるような顔になった。
 マリエルは黙ったままそれを見ていた。
 クロードは壁を見上げたまま、呟くように「マリエル」と言った。
「なに?」
「君のお母さんは、日記のようなものは付けていなかったんだろうか」
 マリエルはすぐには答えなかった。
 クロードが窺うようにマリエルの顔を覗く。
 マリエルは少しして頷いた。
「あると思うわ。多分」
 マリエルは本棚を指差した。
 
 上から三段目の高い位置だ。
 母はよく階段を使ってその辺りから本を出し入れしていた。
 しかし表の何処にもタイトルはなかった。
 小さな頃には気にも留めなかったが、物心がつくとそれが日記ではないかと思うようになった。
 気にはなったが、こっそりそれを読もうとは思わなかった。
 母が死んだ後も、何度か見上げはしたが、手に取ることはなかった。
 他人の日記を読むことはとても行儀の悪いことだと思っていたし、読むことが怖いような気もしていた。
 おそらくそれが日記なら、父のことも書かれているだろう。
 しかし、母が直接口にしなかったことを私が覗き見ていいものか。
 見たところでどうなるというのか。
 父が母に会いに来なくなった理由がもし書かれてあったら?
 もしかしたら、私は父を恨むことになるかも知れない。
 それは嫌だった。
 母が教えてくれた素敵な父の姿を、そのままに留めておきたかった。
「あの、青いやつよ。確かめたことはないけど、多分、そう」
「持っていかなくていいのかい?それこそ、思い出じゃないのかな」
「いいの。それに、今持って行けば、きっと村を出る前に読んでしまうわ。そうしたら、せっかくの決心が鈍ってしまうかも知れないじゃない。やっぱり、この城で過ごしたいって。母たちが守ってきたものを、やっぱり私も守らなきゃって」
「それは困る」
 クロードはマリエルに体の向きを変えた。
 確かに困ったような顔をしていた。
 マリエルはそれを見ると楽しい気分になって、クロードの胸に顔を埋めた。
 クロードが自分の髪にキスするのが判った。
「私も困るわ。あなたと一緒にいたいもの」
「それじゃあ、そろそろ出かけようか」
「ええ」
 二人は揃って廊下に出た。
 
 必要な服や靴、食糧などは既に用意している。
 台所や風呂場などは昨夜のうちに掃除をした。
 今日は朝から部屋を回って広間も塔の上の寝室もきちんと整えた。
 後は出て行くだけだ。
 私は故郷を出ていく。
 自分たちを魔女だと信じて疑わなかった、母たちの哀しい歴史を置いて出ていく。
 城と湖の代わりに、私はクロードと共に生きていく。
 さようなら。
 今までありがとう。

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