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私が障害者手帳を手に入れるまで

(過って記事を削除してしまったため再投稿します)


勉強に駆り立てられる某国の小学生

私の出身国は小学校は4年間。
そのあとどのような進学のしかたをするのかといえば
- 大卒コース
- 高卒コース
- 中卒コース(巷では小学校の延長と言われている)
主にこの三つのどれかに乗っかるのだ。
どの程度の成績でどのコースに乗れるかは法律で決まっていて、コース間の移動も可能ではあるが現実的ではない。
(詳細はまた別の投稿で話すかもしれません。)
大学進学を目指す子供達は一生懸命勉強する。

向こうの人は人の間違いを正すのが大好きで、私の同級生達も例外ではなかった。
「リンジェは間違ってる。その単語の前置詞は××が正しいよ。」
そんな中で生きていると国語も自然と一位になった。
他の現地人よりも正確に現地語を話すようになったし、朱も交われば赤くなる。
4年生になる頃には他の同級生の間違いを正すようになっていた。

大卒コースという受難

現地校は第一外国語として英語とラテン語が選択できる。
私はラテン語を希望した。
これさえやっておけば後でフランス語もイタリア語も、スペイン語もポルトガル語も覚えやすくなるからだ。
それに英語は既に国際言語だったし「いつでもいい」と思っていた。
しかし需要の低下とともにラテン語を提供する学校は少なくなっており、私の住む街には既に共学と女子校の2校しかなかった。

私は市内でもっとも評判の良い共学の学校へ進学した。
本当は女子校を目指していたが宗教上の理由で受け入れられなかった。
(これも詳細は別の投稿で話すことになると思います。)

現地校はクラス替えがない。
入学したら卒業するまでその時同じクラスになった同級生と一緒。

入学して間も無く私はいじめられたが、あるきっかけで止んだ。
(これも別の投稿でお話するエピソードです。)
すると今度は別の男子がターゲットになった。
彼は病んで奇行に出るようになり、クラスの雰囲気は最悪だった。

感化されるように私が病んだ。
成績はみるみる下がり「黄色い手紙」が届くまでに至った。
「黄色い手紙」とは成績が進級の基準に満たしていないことを親に報告する物だ。
「青い手紙」もあり、それは退学勧告である。
それらの呼び名は封筒の色から来ている。

毎日死にたいと思うようになった。
まず音楽の授業に身が入らなくなり、練習を怠るようになった。
先生は厳しく、練習不足の私をひどく叱責した。
保健室のような所でサボっているところに突撃しに来たこともあった。
次は政治学の内容が難しくなり、ついていけなくなった。
宿題がわからなくても親には聞けない。親が言語も内容もわからないから。

学校へ通いづらくなった。
担任の先生の勧めでセラピーのようなものに通うようになった。
症状は改善しなかった。

「このままじゃどの道退学で高卒コースへ転落だ。」
転校を決意した。

日本人学校という逃げ道

現地の法から逃れられる方法が一つある。
数少ない私立学校へ転校することだ。

家からはかなり遠かったが、大学に通えなくなるよりマシだと、学年のなんとも中途半端な時期から日本人学校へ転校した。

今度こそ勉強についていけるかと思えば、全くそんなことはなかった。
日本の学習指導要領は学校文化は現地のものと全く異なっていて、聞いたことのない単語が大量に飛び交う。計算の仕方さえも違う。
日本語の日常会話ができるくらいでは授業にはついていけないのだ。

悩みは少なくなったが、態度は粗暴になった。
これがただの中二病だったことを祈っている。

「いつでもいい」と思っていた時が来た

日本人学校を卒業後、進路は4種類あった。
- 本帰国し日本の高校へ進学する
-日本の大学の系列のヨーロッパにある高校へ進学する
- 現地校へ戻る
- インターナショナルスクールへ進学する

現地校へ戻ろうという気になるはずはなく、
さらに外国に行って寮生活で日系の学校に移ろうという元気もなく、
本帰国して帰国子女枠を高校で使ってしまうのも勿体なく、
インターナショナルスクールへ進学することにした。

「英語なんていつ始めたって一緒」
そう思っていた。

そもそも私はラテン語の時から気づくべきだったのだが、外国語がめちゃくちゃ苦手なのだ。
ドイツ語が現地人よりできるからって過信していたのだ。

ここでまた勉強についていけず、スクールカウンセラーとラーニングサポートの指導のもと、図書室登校を続ける時間が増えた。
外部でも再びカウンセリングに通った。

父はピリピリしていた。
「あのカウンセラーは電話をかけてくるたび金の話しかしない」と憤っていた。
私が勇気を出して「死にたいんだ、ずっと」と相談すると「なんでそんなことを言うんだ!」と怒鳴った。
嫌になった私が立ち去ると「逃げるのか!」と再び叫んだ。
逃げるしか選択肢が見つからなかった。

同級生からはからかいを受けることが増え、課題で書いた絵が破られていたり、ストレスが増え幻聴を聞くようになった。
誰かが私の名前をひたすら呼ぶのだ。

それからというもの、以前は得意だった人前に出ることが苦手になったり、失語症のように言葉が出づらくなった。歯医者で確認のために「今日はどうされましたか?」と聞かれても言葉が出ず、黙りこくってしまうようになった。
黙っている時間が長くなればなるほど言葉は発しにくくなった。
「話さなければ」と思えば思うほど言葉が引っ込むようになった。
よく永住許可証が下りたものだ。

本帰国 〜 悩みからの解放

永住許可が降りて間も無く、日本の大学を複数校受験した。
文章を読むのが苦手で、日本語が今ほど達者ではなかったこともあり、外国語力を重視する大学を中心に受験し、見事全校合格した。

しかし日本語力や理解力の低さは依然として問題で、ドイツ語系の学科にドイツ語力で入ったにも関わらず授業についていくのは至難の技だった。
2つ以上上の先輩たちと同じゼミに放り込まれてしまったからだ。

しかし先輩たちと仲良くなるうちに、面倒見のとても良い人も現れた。
私がレポートの書き方がわかっていなさそうだと気づくと、「なんのレポート書くの?一緒に図書館に行こう!」と言ってくれて参考文献は何冊くらいあったほうがいいとか、そもそも図書館のシステムでどういう単語を入れると良い文献が出てくるのか、文献を選ぶとき、出版された年代を考慮しなくてはいけないことなど、基本的なことを全て教えてくれた。
今でも感謝している。ワクさんありがとう。

他にもいいことがあった。
日本は朝から日が出ていて明るく、なんとなく体調良い。

しかしここから人生最大の壁が立ちはだかることになる。

就活とメンタルヘルス

大学3年生になると就活関連のコースの案内が増えた。
「履歴書の書き方」「適職診断」「自分史を書く」「ジョハリの窓」
出来るだけ色々なセミナーに出た。
しかしあまり身にならなかった。
日本に来て「人に助けを求めていいんだ」と思えたり、体調が少し良くなったりはしていたが、根本的な問題が解決していなかった。

「死にたい」
「自分は誰かの役になんて立てない」
「志望動機なんて思い浮かばないし、働く元気なんてない」

そもそも私は高校で既に適職診断を受けていたが「クリエイティブな仕事」、大学でも「芸術家」そういった現実的でない結果が並んでいた。
しかしそれは当然で、私は芸術家一家の出身であり、三味線と長唄の師範、有名ミュージシャン、売れっ子アイドルが親戚。
私自身も子供の頃からクラシックバレエ、ピアノ、チェロ、ギターをやってきて
いつか彼女らの仲間になるんだろう、いや、なるしかないんだろうと信じてきたから。

しかし大学生の歳にもなるとそんなことが現実的でないことくらいわかる。
ある日、学内で試験があるという大手銀行の面接を受けた。
面接官は大学の就職課の課長。彼は気に入った子の面倒しか見ないことで有名だ。
私は突然全てがどうでも良くなって泣きながらいい加減な受け答えをした。
「どうせこんな面接通りはずないんだ。志望動機を添削してもらった時も
 『これで受かればラッキーぐらいで受けてみたら?』と言われた程度の書類だ。
 これは無駄な時間なんだ。」
すると私はその課長から「面接で泣くなんて絶対にしちゃいけないんだから」と説教され、さらに後日呼び出された。
なんの話かと思えば「校医の先生予約するから。水曜日と金曜日どっちがいい?」
私が困っていると「あなたは病気なんだから。水曜は女の先生。どっちがいい?」
そうやって畳み掛けてきた。

校医の先生は実にさっぱりした人で私の生い立ちを聴き終えると「波乱万丈だね。」と笑った。
CT検査と何時間にも及ぶ心理検査の結果は「異常なし」だった。その旨を課長に伝えると彼は驚いた顔をして「そう。」とだけ言った。
呼び出しの電話は二度とかかってこなかった。

私は足しげく区外の就労支援に通った。

めちゃくちゃな社長が運営する会社と持病の悪化

親戚から連絡があった。
「急にうちの事務の女の子が辞めることになったから手伝ってくれないか。」
暇だったし、何かいいきっかけになるかもしれないと承諾した。
これが間違いだった。

私の前任者である事務のお姉さんは全くもってまともだったのだが、とにかく自分の管轄以外のことは絶対にやらなずに事務方にやたら攻撃的だった営業など、やたら問題ある人たちが揃っていて唯一まともだった事務方のお姉さんが辞めるのは無理もないなと感じた。
何よりおかしいのは社長で「彼女はてんかんのワンちゃんを飼ってるの!
ウチをやめたらどこに行くのよ!」と問題ある人を庇ってやめさせないのである。

正直任せられた仕事も向いていなかった。
全うな会社ではないので管理物件もメンテナンスが行き届いておらず、物件にガタがくるにつれ日々日々増えるクレーム対応に疲弊していた。

私の病状はますます悪くなり電車で
「お前なんか死ね」
「さっさといなくなれ」
という低い男性の声を聞いた。声の方に顔を向けると誰もいない。
まただ。
幻聴だ。しかもひどくなっている。

社長へもう限界だと告げた。

心機一転、テストエンジニアに

私は親戚の事務所で働きながらも就労支援に通い続けた。
すると、普段は仕事のあっせんはしていないのだが、今回に限ってはソフトウェアテストの仕事体験プログラムを経て雇用するという。

高校時代にコンピュータサイエンスを履修していた私は食いついた。
しかも英語ができる人材歓迎ときた。正社員登用もあるという。
応募しない手はない。

しかし、いざやってみると自分が役に立てるプロダクトと、全くの役立たずになってしまうプロダクトがあり悩む。

IT業界だ。当然他にもありとあらゆる事件があり辛くなってしまった。
いい出会いもたくさんあった。
しかし人間関係だけでは仕事は続かない。

ある日、本社に呼び出された。
「次に行ってもらう案件は家から2時間かかるところ。
 残業も多く、土日出勤もある。
 基本的に一人で作業してもらう。手助けはないと思え。」
当時の私は携わった人数50人越えの大炎上プロジェクトを終えたばかり。
朝9時から夜23時まで働き詰めだった私には苦しかった。
何より通勤片道実質2時間以上で出勤が朝8時はしんどかった。

後にその「次の案件」に携わっていた人に話を聞いた。
「あそこは工数決まってるから残業なんてないよ。
 土日出勤なんてもってのほかだよ。
 リンジェちゃん、やられちゃったかもね。」

そう、やられちゃったのだ。
契約満了日をもって私はアルバイトの身で会社を去った。

ハローワークの適性検査受験で見えてきた問題点

プライベートもうまくいかなかった。
10年近く仲良くやってた人たちと喧嘩別れした。
人々が離れていくのは私のコミュニケーションに問題があるからだろう。
そう思ったらいよいよ死にたくなった。

母が言うにはこの頃は人が変わったようで全く笑顔も見せなかったらしい。
精神科を探してくれたが、例の校医の先生に「異常なし」と診断されたことが引っかかっていた。

もしまた時間とお金をかけて二の舞になったらどうしよう。
本当にどうしようもない人間であることが証明されてしまうことが恐ろしかった。

するとある日、就労支援機関から
「特別にハローワークで職業適性検査を受けられるようになった。
 少しでも現実的な仕事探しの指針として役立つのではないか。受けてみないか」
と連絡があった。二つ返事で承諾した。

これは俗にいうGATB(General Aptitude Test Battery)という検査で
概要は以下の通り:

9つの「適性能(知的能力、言語能力、数理能力、書記的知覚、空間判断力、形態知覚、運動共応、指先の器用さ、手腕の器用さ」を測定。
対象者中学生~成人(45歳程度)所要時間紙筆検査(45~50分)、器具検査(12~15分)特徴制限時間内にできるだけ早く正確に回答する最大能力検査。個別でも集団でも実施可。適性のうち、能力に関する特徴を把握可能。

厚生労働省編 一般職業適性検査 (General Aptitude Test Battery: GATB)|労働政策研究・研修機構(JILPT)

数週間後、試験の結果が出た。
結果伝えようとするハローワークの職員の顔がどうも浮かない。
簡単にいうと
「各種能力の間に大きな差がある。差の大きさも気になるが、数理や言語能力に至っては境界値と言って、すべての能力がここに入ってくると知的障害に当たる。詳細を知りたければ精神科医での検査を進める」
とのことだった。

意外だった。
私は小学校から高校まで数々のIQテストを受けてきたが、(自分で言うのもなんだが)非常に優秀で、すべての能力で100以上を叩き出してきた。
「境界値」と言う言葉が出てくるとは思わなかった。

就労支援施設での何気ない一言

ある日就労支援の担当者が変わった。ご両親の介護で忙しくなるらしい。

新しい担当者の方は非常にドライだったがメンタルヘルスに明るい方だった。
再確認という形で私の経歴や現在の悩みを一通り聞き終えると

「精神科、予約してみましょう。一緒にやりましょう。
 行きたくなくなったらキャンセルすればいいだけなので。」

この一言で私の運命が大きく変わるのだった。

いざ精神科へ

初心は30分。とはいえ私の人生は30分では語りきれないだろうと、
ありとあらゆる資料を用意した。
受診理由、GATBの結果、生育歴、就労にあたり困ってきたこと、その他不安、
すべて夜なべでExcel表にまとめ、持っていった。

それを片手に受診し見ながら質問に答えた。
先生は
「その手に持ってるものは何?見てもいい?
 あ、ちゃんと書いてきてくれたんですね。ありがとうございます。」
と言い、私の作ったメモを元にカルテを作成していた。

そして診断結果が出た。
- 統合失調症
- 広汎性発達障害
- 学習障害

急に重病人になってしまった。
でもまあ、過去のことを思い起こせば重病人で納得はいく。

「障害者手帳も申請する方向で進めていきましょう。
 障害者雇用という選択肢も持てるようにしていきましょう。」
先生は言った。

精神障害者リンジェ爆誕

通院を始めて半年経った頃、先生に診断書を出してもらった。
憂うつ気分、妄想、意欲の減退、心気症状、学習の困難…
ありとあらゆる項目に丸がついている。
相当重症らしかった。

手続きは難しくなかった。不安でもなかった。
もうありとあらゆる薬を試して、症状が安定していたからだ。

こうしてようやく手帳が降りたのである。
ようやくというのは「精神疾患の初診からの6ヶ月」ではなく、当然12歳から30までの約20年の年月のことだ。

「精神障害者」と認定されて特別な思いがあるかと聞かれれば
全くない。
そんなことよりもこれから先の行動の方がよっぽど重大だからである。

私はこれからこの手帳を持って就職活動に改めて挑むことになるのである。

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