他者批判の正当な筋道と筋違いな評論の差

 断っておきますが、これを下書きしている最中に、成田悠輔さんの似たようなXが話題になりました。別にパクったわけでも、オマージュでもありません。まぁ誰しも考えてしまうのが現代SNSのお行儀の悪さということなのかもしれません。ということで本題。

 他者を批判する経路というのはとても大事なのだが、最早自己防衛のためにモノ分かりの悪い人間とは話をしないという設定をする大学教員というのを見聞きする。
 これが果たして学問的姿勢と呼べるかどうかはさておき、このモノ分かりというのは彼ら彼女らが何を指すかというとおそらく学問的常識ということになるのだろうと考えられる。というか学識経験者をそう足らしめているのは、そこでしかない。たぶんそこに閉じ籠っていることがモンダイなんだろうけれども。学問を実学とする実践というのは学問側の対話の姿勢のオープン具合に左右されるということは研究者なら誰でもわかってることです。めんどくさいからしないだけで。時間がもったいないからしないだけで。

 それを乗り越える手法として内田樹さんは「街場」という用語で一般人に語りかけようとしているのだろうけれども果たしてこれが万人に対して有効であるかどうかは彼の出版部数ほどの効能があるか実はアヤシいと思う。何にもしないよりははるかにマシだけど。彼は大学教員であったころでもだいぶ異質な存在でなんでも取り上げるその姿勢は若手の専門分化研究者からかなり疎まれたと語っていた。

 これまでの論壇における批判の手法に万能などあり得ないにしてもアカデミズムとゲンジツの間で起こる段差というのはここを回避するための言い訳をよりたくさん用意することに腐心してきたとしか思えないフシがある。
 内田さんは、はっきりどっちが正解かなんてどーでもいいと言っている。合ってるなら反論するだけ無駄だし、間違ってるなら反論するだけ無駄だから。だそうです。

 しかしです。合ってる間違ってるが対話の手法として非常にお手軽であるのは昨今の炎上商法を見ても明らかです。
 例えとしてとても良くないと思いますが、という前置きをしてフリー女性アナの男性体臭発言の正当性を「教育学的視点から」考えてみたいと思います。
 そもそもことの起こりが悪名が無名に勝る世界であるならこの手法はアリなんでしょう。だって自分のことだけ考えればいいんですから。炎上商法としては。終了。
 
 いやいや、そうはいかない。たぶんこの話題は、フリーの発言であること、女性の発言であること、アナウンサーの発言であること、男性というくくりに対する発言であること、臭いを扱った発言であることという内容が盛り沢山であるため、非常に批判しにくくなっていると思います。
 この場合、批判の優先度と絞り込みによる批判者の立場の設定が必要になるというのが批判する上での最低条件ではないかと考えます。というか批判するならここをきちんとしておくことが必須だということです。

 うまく条件外になっているか自信がないですが、クレーマーというのは必ずこの条件に載らないようにしようと足掻いてきます。同じ立場にのって話の一致点ができてしまうとクレームの意味がないからです。なんとか論点をズラして、譲歩を引き出すために時間をかせごうとします。
 クレーマーは自分の勝ちがほしいわけではなく相手の負けが欲しいわけです。おんなじじゃんと思うかもしれませんが全く違います。自分の優越より相手の屈辱を得ようとする行為を結論はそのための道筋が違うからです。安い挑発として利益供与をちらつかせる類のクレーム対策がありますがこうしたものは全く望まないのがクレーマーの本質です。

 どうでしょう?こうした条件が非建設的な批判の条件として身の周りに見られないかなということです。この条件というのは学校現場でもよく当てはまるように思えます。というか非難だけでなく、「穴を掘って埋めるような無意味な仕事を作り出す」肯定においても優先度の投げ捨てと個人的な立場による論理と倫理の飛躍が見られることが多いです。

 ちなみに女子アナの発言だけに対して言っておけば、教育の実際においても男女差はもとより、年齢差や汚穢のディスクール、つまり臭いのような目に見えなくて、明確なモノサシのないものといった課題に対して答えを出すことはできていません。それは確定的に規定してどの方面に対しても納得が得られるということはないということです。実際に。
 問題自体が難しいのにこんなに一方的な結論が下されるということは今回の件は教育現場お得意の「事勿れ主義」が明確に発動したということなんでしょう。いわゆる見せしめと責任回避というやり口です。問題は女子アナではなく、所属会社であったというだけという教育委員会制度かのような既視感がありました。
 言わずもがなですが、教育委員会制度の処分案件というのは完全にブラックボックスだからです。こうしたシステム自体も教職員をブラックにしています。何度も言いますが給料がフツーなことをブラックとは言わないのにも関わらずそこにこだわるのはセンスがなさすぎです。せめて外部の第三者委員会が認めれるような処分をしたらどうでしょう?あんなに処分した後に公費で裁判に負けまくって公費で賠償金を賄う教育委員会制度が必要であるとも思えないんですが・・・

 こうした批判を交えた対話というのは、社会を正常化に導くためのキーアイテムではないかと思います。とりわけ議論の前提としてのタブーと建前、道徳的制約が幅を効かせる日本社会、および教育においてはそうした訓練をする機会も十分に作ることができません。
 どの大人も批判的読みという技法を異化することで、批判的議論の作法を弁えながら負けてあげられる余裕のある「子どもの前の大人」のような振る舞いができればさまざまな課題がこじれず解決に向かうのではないかと真剣に思う今日この頃。建設的な批判的議論の場を多く作れると良いなと思います。
 SNSが民主主義を完成させるためには、これが必須だったんだなぁ。

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