「令和の日本型学校教育」をよむ①

 「令和の日本型学校教育」関連の通知を読んでいて思うこと。目指す方向がこれまでの公教育の解体であるということ。さりとてそれは公教育の解体ではないということ。なぜなら公教育を前提に話が進んでいるから。

 禅問答のようでありながら、そういう見方をすれば非常にしっくりくるわけです。そしてそのように「よめ」ばそのために必要な前提が見えてくるわけです。実はこの必要な前提というのははっきり論じられているわけではないということです。もっと言えばそれに対する合意がなされていないということです。その合意が誰に必要なのかといえば実は「教員」たちなのです。
 なぜなされていないかといえば、その合意がおそらく一番難しい。文科省や関連団体、教育委員会や大学の教員の共通認識の根底にあるのは教職員に合意を徹底させることは無理筋であると思っていることであり、同じ思いを私も抱いているのかもしれないなと書きながら思い直したんです。

 それは何を意味するかと言えば、いくら公立学校の教育スタイルの解体を通知したところでそれは解決しない実践課題の無限ループの議論であるので結果的に何が起こるかについてはよくわからない。ゆえに起こった事象に対して微調整を繰り返し行うことでその行方を見守るのが良いだろうと諦めにも似た感覚であるということ。それが「今の日本の教育政策の基本方針」なのではないか?

 ではなぜそう感じるのか?現場が合意できない以上効率的に作動しないシステムとしての「令和の日本型学校教育」は結局真面目に考える必要にないということになってしまう。そうした塊を指して「抵抗勢力」とか「既得権」とか名付けて攻撃する手法もあるだろうし、知に竿さして角がたつ手法、情に棹さして流される手法、なんとか共同・協働・恊働を模索していく手法といろいろある。それが正解探しではなく選択なのだとしても現場にいる以上、そして教育を一応真面目に考える以上、選択をしなければならない。そして選択するために友敵理論に基づき、友と敵を選別しなければならなくなってしまうのだと考える。それは好き嫌いではなく、人間性の問題ではなく、教育における能力と考え方の方向性によって決まるのではないだろうということ。その見極めが仕事上役立つかどうかはさておき忌憚なく言語化しておきたいと思う。
 学校現場の塊をどう見るかというハナシ。友敵理論そのものは枠組みとしては、そして子供を相手にする学校という場においてはどうなんだというハナシなんですが。伏魔殿として側面を持つ職員室を少し触れておく試みをしようということです。

教育現場にたまる澱(おり)のような層

 これは私も含まれているのでしょう。定年制度が伸びたことは教育現場にとっては予期せぬ外圧です。その影響はこれから徐々に教育現場を蝕んでいきます。確実に。その害悪を表すに妙なのが沈殿物を表す「おり」なのかもしれません。それは邪魔な存在ではありますが、ワインのように渋みを出すためには必要なもの、しかし一旦巻き上げるとこれほどメンドーなものはないものということです。言い得て妙。
 職員室におけるこの層はこれまでも少数存在していました。定年後も職員室に隠然たる存在感を持っている人たちでした。今は4、50代もさほど多くなくなっているのでこれらの層も加えて良いのかもしれないと思います。
 職員室を世代でくくる時、私の中には明確に区分がありました。それは年齢ではなく過激派かどうかということなんですよね。そういう職場としての優しさがあったせいでそうした人間が職場内にいることがフツーだった。そのせいでその影響を受けた人間が細々と受け継がれていき、職員室内で過激に振る舞うことはこれまたフツーのことだった。ただの経験譚でありますが。気づかないだけで結構フツーの人を振る舞っています。
 いつもうるさく吠えまわっているフツーじゃない私みたいな人間の方がノンポリだったりします。さてこの澱のような人材は60歳を越えた定年の後に学校現場にどういう影響を及ぼしてしまうのか?ということです。実はロールモデルはいるにはいるんですよね。先ほど挙げた老害たちです。60過ぎても役職定年に抵抗して自分の稼ぎと名誉欲とを充足させれば周りの迷惑などお構いなしの人間だったり、とにかく職員室の椅子に根を張って自分の都合を優先し評論する側で居続けるためなら若者を恫喝することも厭わない輩だったりというのがどこにでもいたからです。

 森永卓郎さんは公務員が60歳を越えて7割の給与が保障されること自体に批判的でしたが、正直言って同意できません。生活を保証する必要がないとか民間は3割のところもあるとか言っていましたが問題はそこではない。そうしたことはそれまでの経緯が考慮されるという日本社会型の雇用の流れの中で守られてきた約束を一気に反故のするという意味では究極の悪手です。民間には民間の約束事があった。約束とまでいかなくても会社が潰れれば終わりというのは確認事項です。公務員は潰れない代わりに・・・があった。その一つが給特法なんです。スト権の放棄なんです。これを改変することより実は重要なことがある。現場で元気に担任ができる人材がいるならそこに資源を注ぐべきなんです。今のチーム担任制や教科担任制はこの先必ず教育の崩壊を招きます。実際に特別支援教育担当の教員というのはもうそれしかできない体になってしまっている。音楽しか教えない専科は学ぶとは何かがわからなくなってしまっている。私が中高の教員を叩く理由はそこです。1つの教科しかやらないということはそのムラにしがみつくしかない。しがらむとはそういうことです。ラクが身に染みつくというのはそういうことです。7割で満足する人間というのは7割の半分も仕事をしない人間であるということへの承認だからです。今若手が仕事をしないのは基本給が安いからです。手取りが少ないからです。だからそのことも承認するしかない。それは互いの承認によって仕方ないを成り立たせるルールを働き方改革やハラスメント・コンプライアンスの名の下に認めてしまったからなんですよね。

 60歳定年というのは組織にとっての新陳代謝の目安でありました。しかし政治の世界や大学などでは老害の抵抗で組織そのものが崩壊することになっています。目安が重要なのではなく、そこにいて十全に力を発揮できる謙虚な人間をきちんと選別できるシステムを作り上げる必要があったはずなのです。これをもってして教育システムが継続的に高度な形で自己変革を続けることができて次の世代にも受け継がれることになるのですが、残念ながらそうはならないようです。

 今からでもこの澱のような人材についての選別方法と働く場の設定について幾つかの備えを持った人材を抱えておいてはどうでしょうか?教育委員会さん。

続きます。



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