教育における評価 指導と評価の一体化

 なんとか教師全員が持てる強みを発揮して、教育を高めていく有機体になるために必要なことを1つでもいいので言語化したいと考えています。それは理想の学校を1個作ることでなく、公教育を理想の状態に近づけるために思考です。おまえには無理だろと自分でも思います。できなくても別に構わない。でもその努力をしてみよう。noteはそのための書き散らしです。お付き合いいただければ幸いです。

「指導と評価の一体化」
何が言いたいのかよくわからない。
何を狙ってるのかよくわからない。これは多くの方の本音じゃないかなと思うんです。なぜなら学習指導要領にしたって、参考資料にしたって、諸々の通知、通達にしたってかなり解釈に余地を残した(余白っていうのかな)書き方になってます。

 学習指導要領を見てわりといいこと書いてあるといってる管理職を見ると程度が知れます。単語としてしか機能できない文章だと思っているからです。

文部科学省所属もしくは管轄の組織所属の方々は、指導要領等を解説する場合、必ずと言ってよいほどこれは私個人の解釈で文科省その他組織の公式見解ではないという注釈を前置きされます。そういうことです。

真面目にメモとる読み方ではなく、読み飛ばしていくのが良いのではないかと思います。教育公務員特例法上読んどく必要はあります。

現場からすれば指導したことしか評価できないに決まってんじゃん。
たまに授業を見てるとやらせたことないことをやらせようとしてる人がいてそりゃ無理でしょと思うのは小学校あるあるだと思います。中学校以上はいけます。それは小学校がちゃんと機能してるからです。ただ全員ではない。この辺が指導のスケールの問題なんですが、、

指導というのは相当簡単に言えばそういうこと。やらせたことです。
で、評価っていうのはどのぐらいできたか、そういうことです。

ただ話はここからややこしくなり、わからなくなっていきます。と私は思っています。多分相当簡単にいうと

指導と評価を密接に繋いで
教師の側のPDCAサイクルと
子どもの側のPDCAサイクルを
無限ループさせて、教師の授業改善を進め、子どもの学力(自己指導能力みたいなものも)を高めなさい。
と言いたいんだと思います。

なぜ、これがややこしいのか?よくわからないこと(人によって解釈が違うこと)が相当たくさん混ざってるからなんですよ。
いつも通りこのよくわからないことについては現場に丸投げです。お好きに解釈してください。ちゃんと自分で考えろよ。ということ。

これが真面目な教師を沼に引きづり込みしんどくさせ、不真面目な教師をテキトーにさせ、ちょっと賢いと思ってる管理職、指導主事、教員に俺わかってるんだぜ。すげーだろという感じ丸出しの薄っぺらい解釈(私のもそうです)を開陳させているんだろうと思います。

若手の教師は大変だ。実は教育現場をブラックな職場にしている原因が中の教職員自身である部分が相当多くあります。この状況自体を打破したいと思っているんですが、どうせ私もこのどこかに所属してしまっている可能性が高い。
そしてそれを民主的に改善しようとすればするほど悪い方に流れていく経験を私は山ほどしてきました。

これを上智の奈須さんは裁量権の拡大だとコメントしました。多分歓迎する声も多くあろうと思いますが、この現場丸投げを裁量権の拡大と解釈するのは非常に危険だということを意見表明しておきます。

話が逸れる前提で差し込みます。文科省がどんな方向性を示しても現場は教育をきちんと毎日続けます。なるべくその方向性に沿うように進めます。毎日進めます。たとえその方向性がまずくて色々な問題が起こっても即時修正を加えて大問題にならないように進めます。そういうシステムなんです。教育は止められないから。コロナで止めてどうなったかがみんな経験的にわかったんです。特に止めちゃダメだったの小学校なんですけど。アメリカ大統領が誰になっても別に大丈夫なのと同じです。日本は違うけどね。
現場の苦労をわかってよ。コロナで学校を止めたり、休むことを容認したりしたことの負の側面は実際に小学校現場を静かに蝕み始めています。理由があれば学ばなくても良いという解釈を子どもにも大人にも植え付けてしまったのです。これは必ずしも全員にそうなるとは限らないメッセージ性という考え方だと思いますが、そうなる人にはきちんと届く、ならない人には一切届かない占いのようなシステムです。知識欲と怠惰の相剋なのですが、ここに家庭の事情や障碍、性格、感情、人間関係などが絡んで、学校行くか行かないかの答えが教室での学びの結果に直結してこの効果の幾つ分かを形成するわけです。すごく変な文章だ。
学習基盤の根底を作る小学校期(別に学ぶ気があれば年齢は関係ないとは思いますが、無償でここまで効率よく基盤を作るのは現状小学校時代だと思いますという意味)にこの課題に直面しないといけない小学生も大変ですが、それに対応する教師も大変です。
アンテナが機敏な教師ほど大変で、アンテナが働かなかったり、閉じたりしてる教員は楽チンです。

裁量権の拡大とやらは、楽チンをより楽チンにし、大変をより大変にし、そしてわかってないのわかったふりをする方々を出世させていきます。それでも教育は続けられていき、それなりの成果を残して、できたできた詐欺の文書が公共の成果物として公表され忘れられていくことを繰り返します。

さて本題に。
何がわからないことなのか。
指導とは何なのか。
教師のやったことなのか。子ども同士は?学習指導なのか?生徒指導は?子どもの理解なのか。中身は学習指導要領?教科書?指導書?朱書き?そもそもこれらは個別の解釈の産物で同じ内容とは限りません。
さらにややこしい評価とは何なのか?中身は書きません。
でも多分真面目に考えれば、ブルーム梶田方式がいいのかどうかまで遡ります。世界にはもはや教師の感覚だけで評価しようとしている考え方から10項目ほどをできるできないで区切るやり方(潔い)まで本当にさまざまです。どれが一番いいかなんて誰にもわかりません。結果論だし、最終的には被評価者本人の感覚だからです。Pは?Cは?Dは?Aは?サイクルは?
そもそもこれら全てを実践化する手法は?
それ以前に今みたいな学校現場でこのことを進めていくことが本当にできんのか?

何にも明らかになっていません。それらしいことが色々書いてありますが、とにかく無限ループ頑張ってねということだと思います。これでは親会社の無茶振りでもう粉飾決算するしかなくなった赤字子会社の経理責任社員のような気持ちになってしまいますよ。

指導と評価の一体化について。
上っ面をさらうだけなら今まで通り何もしなくていいということ。今までやっていることですと解釈する大学教員もいるからです。これは複数言質もあります。

今まで通りではダメとするなら2点指摘したい。
まずこれを実践する時間が保証されていない。
文科省は時間の四則演算ができていない。8時間半労働(休憩時間など取れない給食指導だから)で週27コマやる私は授業時間以外の勤務時間が1時間半しかない。それでどうやって毎日平均30分以上ある会議や校務分掌業務、採点を賄うのか?さいたま地裁の労働時間判決をお読みいただければ結構笑えます。そもそもここには明示されていない仕事の方が多いからです。そして判断基準は校長が命令するかどうかになってることです。
 極め付けは授業準備は1コマ5分に指定です。これはもう公的機関が使い回し授業、マニュアル授業を奨励していることになってしまいます。マニュアル調べるのだって5分くらいかかります。読む時間と用意する時間はどうなってのでしょうか?
さあ教師は自発的に仕事しろ。誰が教師になりたいと思うんでしょうか?インフレになっても五百円しか給料上がらないんですよ。
 もちろん教師は複合的な側面もありますから単純に業務時間を算定しづらいのはわかります。業務時間分析をやってみればわかりますが、授業時間中に丸付けができたり、授業アイデアが湧いたり、自己研鑽ができたり、授業改善ができたりすることは稀にあるんです。下手をする3重、4重に同時並行ということも起こります。(そのことに気づくかどうかも怪しいし、そもそもすぐ忘れます。人間だもの。自慢げに言語化して俺つえーする人がいますが、多分教員なら普通に全員できてることです。)

 本当に授業改善したいのなら、まず初めに全ての業務とは関わりのない時間を勤務時間内で設定するべきです。
 ただこれにも問題があります。結局業務量の多い人、個人の取り組みの多い人、真面目に子どもに向き合ってる人、仕事の遅い人、仕事をちぎれない人などつまり生真面目な人は、勤務時間内の新たな仕事に対応するために従来の業務を勤務時間外にするという悪循環に陥るからです。
 学校現場では、定時に帰る人が新提案した素晴らしい実践を自慢する会の時間が勤務時間内に取られて、生真面目な人が本来の業務をかなぐり捨てて参加し、その本来業務を残業したり、休日出勤をしたりして賄うということが常態化しています。定時に帰るんなら他の人間を巻き込むんじゃない。私が学校にいる管理職、教育委員会も含めた実践と業務を伴わない評論家を嫌う理由です。

 今軽く挙げただけでも、ことは会議時間や研修時間を設定すればいいだけの単純な問題ではないことがわかると思います。でもできてると強弁する方々はその設定だけで全てが穏便に解決できてると本気で善意に思っているのです。
 先送りできるものは先送りしても(これをマネジメントだと思っている人がいて驚く)、本来の目的上の時間設定をすること自体が非常に困難な職種なのです。

 もう一つ(もはや文章が長すぎて何のもう一つか分かりにくいわ。指導と評価の一体化が今まで通りじゃダメなら最低限何が必要かという話のもう一つです。)は、サイクルを回す原動力が明示されていないことです。運動が起こるためには原動力が必要です。ネット上の良い悪い論争は比較的運動エネルギーが少なくてすみます。振り子だからです。小学校5年生でも分かります。理科で習うから。だからゆとり教育が良いか悪いかみたいな話は振り子のように割とすぐに動きます。問題は左右しか行けないという射程の狭さですがね。あとネット同様怒りエネルギーを源泉とすれば割と効率がいいです。保育所落ちた、日本、、みたいな話。入れるか入れないかの話。この先には全く作用しない。入れた保育所でどんな悲劇が起こっていても知らないよという底の浅さです。

 指導と評価の一体化の話は少し運動として複雑です。単純にサイクルなのですから振り子よりエネルギーが余計必要なのはわかるはずです。運動エネルギーの話はニュートン力学でさえもよく分かりません。すいません。でもとりあえずたくさん必要なのは分かります。しかも最近の研究者の中には「らせんのスパイラル」「二重螺旋」でとか言ってる人もいるんですね。日本語おかしくね、と思うんですがさておき。そうなると相当大きなエネルギーが必要だと思うんですが、そこは誰が負担するんでしょうか。まさかみんなでちょっとずつとか、自発的にとか言うんじゃないでしょうね。

しかも無限ループです。

 誰が、どういう立場の、どういう権限の、もう少し深めればどういう専門的知識のある人間の旗振りで設計・運営すれば、みんなのエネルギーをきちんと結集できて授業が改善できたと評価したこと自体を評価できるのか。すごい変な日本語ですが、PDCAを主導した人にはニュアンスが伝わると思います。そんな人あんまりいないと思いますが、

この旗振り役は相当多くのエネルギー負担が必要です。成員全員にエネルギーを出させるためのエネルギー負担が必要だからです。しかし研究主任やミドルリーダーには何の権限もありませんし、金銭的補助もありません。権限と給与負担のある人間は基本やりません。だるいからです。指導監督する方が楽でしょ。自分はやらないで人にやらせる体のいい見守り理論です。どこにもエネルギー負担のメリットがないんです。誰がやりたがるんでしょうか?

こないだこの話をとあるところでしたら、「自分の学びのためになりますから」と元気よく答えた若者がいました。人生何事も修行発想がきちんといきわっている立派な若者です。この受け答えの弱点は何箇所かあるんですが、「えらいね」とだけ言っておきました。生きてるだけで老害だからね。

その弱点とは、さっきの研修時間設定のジレンマ問題を解消できないということ。次にあなたにその発想ができても次の人にその発想ができなければ回転は終わるということです。さらになんでサイクル回せたのかという分析につながりません。そしてそもそもあなたが回した方向性とか目標設定そのもの(いわゆるメタな部分)は、それなりの正解だったのかというハナシ。まさか次の年には全く無かったことになっていないでしょうねということ。これは校内研修にある根源的な課題です。いつか解決したい「残していこうとすればそれまでの生産物が全部形骸化し、変えようとすればそれまでの生産物が全部無駄になることを拡大再生産する」校内研修の構造の話です。
 最悪なのは若い教師に間違った方向性を植え付けていかないかということです。学校現場でよくあるミスリードというハナシ。学校ってこういうもんだということが意図せず若手に伝わっちゃうんですよね。真面目な人は100パー受け入れてしまいます。コントを真面目に伝えようと演じてしまうんですよね。東京03的にはそれはそれで滑稽でいいのかもしれませんが、、

少なくともこの2点に一定の解決方法を示さなければ、少なくとも文科省の言うような「指導と評価の一体化」を学校現場での教職員集団による協働的に実行すること自体が無理だと思います。

そして今私は、何ができるのかを言語化している最中です。今日も書きながら幾つかアイデアが湧いて脱線しました。
「指導と評価の一体化」なんとかしたいなあ。
いつも通り書き散らかして申し訳ありません。



 

 


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