教育現場にEBPM(証拠に基づく政策立案)の導入

 うーん。
 しっくりこない。
 経験と勘で教育をしていると言われましても。

 グウの音も出ません。
 じゃあお前やってみろよ。

 とは言いません。これではデモシカ教師と変わらない。
 教師でもするか。教師しかできない。全共闘時代の遺物に就職差別があった頃の流行り文句です。この頃の偏見は今も生き残っています。なぜか日教組とごちゃ混ぜにされ、教員という仕事には思想的な偏りがあると思われがちです。
 良いか悪いか別にして、今の教員は日本人の御多分に洩れずノンポリです。政治的嗜好から組合活動をしている人間はあまり見ません。いわゆる2世3世という出自に関係する場合でもなければ皆無に近いです。基本統一教会問題で詳らかになったように、そういう人たちは自分のことをオープンにして誘いをかけたりはしないものです。極端に左寄りの人たちも自分を守るために極力個人的な関わりを晒したりはしません。もちろん子どもたちに向けてそういうことを間接的に漏らしちゃう人を見たことがあるのは20数年間で3人だけです。

 じゃあお前やってみろよではなく、なんと言うか?
 じゃあ経験や勘を越える教育技術を作ってみろよ。
 経験と勘でやっている人間とそうでない人間を見分けてみろ。
 エビデンスが正しいというエビデンス、またはそのエビデンスの元が正しいという証明をしてみろよ。などでしょうか?
 この辺が学問の限界です。エビデンスに基づかなければ学問と言えない。しかしそのエビデンスが本当に正しいかどうか疑わしくなってしまった時点でそのロジックはまとめて立ち行かなくなってしまう。これが本当に危機に直面した時に機能しないことです。円安やブラックフライデー、バブル崩壊時の金融政策しかり、コロナの感染症対策しかり、そして現在の教職員不足しかりです。

 オンデマンドやオンラインが知識の伝達にしか使えないので教職員不足には対応できません。生成AIはダイナミズムに対応できません。おそらく永久に。
 良い教員は評価者のモノサシによって変わるものであり、保護者から見てもよくわからないし決められない。唯一わかるのは全員が同じ教師になることが非常に危険であって変化や非常時に対応できなくなる恐れがある。

 エビデンスのない政策に予算がつかないのは、別にオバマ政権に限った話ではありません。日本の教育行政ほどエビデンスにこだわる国はなかなかないと思います。
 しかし問題はそのエビデンスの中に思惑や勢力・忖度といったものが加わらない保証がどこにもないということです。少ない予算をぶんどり合うことにしか政治に意義がない場合、教育行政は往々にして実際に成果を盛ることに力を注ぎ始めるのは当たり前のことです。教育評価や学習評価にエビデンスをつけにくいことも同様です。同時にアメリカの連邦制と日本の教育行政では予算の仕組みが大きく違います。

 政策立案がエビデンスを有効に取り入れたいのなら、政党や政治家の思惑から独立したところで教育行政が行われ、それが独立した評価に基づいてエビデンス化される仕組みを先に行政の方で作るべきです。教育委員会制度や文科省の縛りがあるかぎりそれは無理筋です。

 何度も言いますが、日本の教育崩壊がこの辺で止まっているのは、文科省の力でも教育委員会制度の優秀さではありません。今の学校教育は個別の学校の努力と個人の教師のバランス感覚でなんとか保てているだけに過ぎません。
 必ずどこかで大きく崩れ始めるはずです。それは多分新しい人材が供給されなくなっている今ではなく、バランスを保たせることができる人材の数が一定ラインを割り込む瞬間なのではないかと思っています。

 その時にはエビデンスがどうの、経験と勘がどうの、とか言っている場合ではなくなります。
 手遅れになる前に自治体レベルで教育の立て直しを行なっていく覚悟が必要なんだろうと思います。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?