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おやすみプンプン試論/凡人の悪を描いた名作か?


はじめに:今の個人的心境も踏まえて

 筆者は今、個人的に板挟みになっていることがあり、言ってしまえばプンプン的クズ人間状態なので、この作品を通してプンプンや雄一に共感しっぱなしだった。彼らが口にする懺悔は僕のものだったし、彼らが投げかけられる非難は、僕が今までに他者から投げかけられたものと同じだった。だから、彼らの行動の先に自分の人生の行く末をゆだねていたし、物語を読み終わった今でも、彼らの行動に倣おうという気でいる。それでは本編に移りたい。

プンプン善人説

はて、そもそもプンプンはクズ人間であったのか。「ネガティブ、無力、自意識過剰、自己愛にあふれた」、と作中散々な言われようだった主人公プンプンだが、物語最終盤、パートナーの南条幸による身辺調査から浮かび上がる彼の人物像は、「善良で気遣いのできる優しい子」というものだった。

一人間の性質を、善悪二元的に語ることはできない、というのは常識である。また、実際に悪に手を染めはじめてしまうプンプンと、彼の善良さを語る知人たちのシーンが同時に示されるクロスカッティング的演出は、恣意的に過ぎるきらいがある。プンプンが善人であった、という証言は、物語の要請上妥当であったのかもしれないが、ただ善良であったとだけ言われても納得できないのが、僕のような捻くれねじ曲がった根性の読者なのである。

プンプンの葛藤はどこに

人物の善い評価に繋がるのは、思考と行動である。プンプンが善良な人物だったという身辺調査の証言について、作者浅尾いにおの意図かそうでないのか、それまでの巻数でプンプンにそのようなポジティブな評価を下せる特定の描写は無い。プンプンはずっとうじうじ悩んでいただけである。モノローグでも、常に「悲しかった」と表現されるだけである。そもそも、果たして「悩んで」いたともいえないのではないだろうか。

プンプンは常に、自身に降りかかる出来事に対して、「悲しい」から「殻に閉じこもる」という選択ばかりしてきていた。それを、「葛藤」や「苦悩」などと表現して良いのだろうか。

「葛藤」という幻想

そもそも人間一般の「悩み」や「葛藤」というのは、ある特定の出来事に直面した時の、自動的な感情の表出に過ぎないのかもしれない。葛藤という状態も、アンビバレントな状況、もしくは自身の感情に挟まれた挙句の、ちょっとしたバグのようなものなのではないだろうか。であれば、プンプンの様子が「葛藤」しているように見えない(能動性を感じない)のも当然かもしれない。そのようなものはある意味では「無駄」であり「無意味」なのかもしれない。そう思ってしまうくらい筆者は、「感情」よりも「行動」こそが人の評価軸である、という格率を内面化させられているのが現状だ。

成長とは一体何なのか/南条幸

『おやすみプンプン』は、主人公プンプンの半生を描いた漫画である。だが、彼は作中を通して「成長」したか。おそらく答えは「否」である。叔父の雄一も同じである。

唯一「成長」の要素を背負って現れるのが、パートナーの南条幸である。不遇な家庭環境を耐え、自分の稼ぎで今の彼女自身の生活を勝ち取り、事件後の彼を支えようと自己変容を遂げる姿が描かれる。『おやすみプンプン』作中を通して、このようなポジティブな成長ができているのは彼女だけだろう。

なぜここで浅尾いにおがこのようなキャラクターを出したのか。答えは本人に聞くしかないが、「堕ちて」いく主人公を助けるには、それを支えるパートナーの成長が必要だった、ということにしておこう。(闇落ちしたプンプンが、鹿児島の砂浜で唯一善良な顔を見せるシーンにおいて、彼の顔が幼少期を彷彿とさせる「ヒヨコ」なのは意図的なものだろうか。)

おやすみ、プンプン。
そして読者である我々は目を覚まさなければいけないのだ。

追記/名作論争への意見

今記事を書いていて、プンプンや特に雄一に強烈に共感していた自分が消えかけているのを感じる。間違いなく名作だったという感触は残る一方で、充足感が薄い。ただこれは、この作品が、「反倫理的」とされる主題(=人間一般の「俗悪」的な性質)を描き切ったことの証左かもしれない。英雄的行為や褒められた行動を示さずに、一作品として主人公を支え切ったこと。それが、この作品の特筆すべきポイントだったと言える。

記事のクオリティが自分でもかなり落ちてきていると思うが、現状どうしようもないので、今回はこれでご了承願いたい。


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